皆さん、町を歩いている時に「工」と彫られた杭を見たことはありますか?
Takashi君、町を歩いていて「工(こう)」と彫られた杭を見たことがありますか?下の写真のようなものです。
いいえ、初めて見ました。「こう」と読むということは、工業に関するものですか?
そうです。明治政府の官庁のひとつであった工部省の頭文字「工」を掘ったものなのです。
工部省といえば、日本産業の近代化を推進した官庁であると日本史の授業で習いました。確か初代工部卿は伊藤博文でしたね。
その通りです。工部省とはどんな省庁だったか、確認しておきましょう。
工部省
1870年(明治3)に設置され、洋式産業の移植にあたった官庁。旧幕府や諸藩の洋式工場・鉱山を引き継ぎ、また種々の新規事業をおこした。71年には工学・勧工・鉱山・鉄道・土木・灯台・造船・電信・製鉄・製作の10寮と測量司を管轄。工部大学校での技術者養成、洋式工・鉱業、運輸・通信事業の直営など広範な事業を行い、殖産興業政策の中心となった。80年以降、洋式工業移植の目的を一定程度達成したことを背景に、財政難と一部事業の経営不振を直接の理由として官営事業の払下げ方針がとられ、その結果85年に廃止。事業の一部は鉄道局・逓信省・農商務省などに引き継がれた。
『日本史小辞典 改訂新版』(山川出版社)より ※ 下線・太字は引用者による。
それにしても沢山の事業を管轄していたのですね!「工」の杭はどの事業に関連するものなのですか?
鉄道事業に関連するもので、松山市内において私が撮影したのは衣山2本、若草町4本の計6本です。地図上に示してみますので、どの鉄道に関連するものか考えてみてください。
衣山の杭の近くにはJRの線路が敷かれていますが、若草町の方は線路自体がありませんね。若草町付近にあった鉄道といえば・・・
Takashi君、だいぶ前に解説しましたよ。伊予鉄道に対抗して三津浜の人々がつくった鉄道会社といえば何でしたか?
あっ!松山電気軌道ですか?
ご名答!これら6本の杭は松山電気軌道の廃線跡を示すものなのです。
なるほど。でも松山電気軌道の開業は明治44〔1911〕年のことで、工部省はすでに廃止されていますよ。
確かにそうですね。工部省は廃止されていますが、鉄道事業は別の部署が引き継ぎました。日本の鉄道事業を統括した所管省庁を確認しましょう。
鉄道事業を統括した所管省庁の推移
- 1870〔明治 3〕年 7月 民部大蔵省鉄道掛
- 1870〔明治 3〕年10月 工部省鉄道掛
- 1871〔明治 4〕年 工部省鉄道寮
- 1872〔明治5〕年10月14日 日本の鉄道開業
- 1877〔明治10〕年 工部省鉄道局
- 1885〔明治18〕年 内閣鉄道局
- 1888〔明治21〕年10月28日 伊予鉄道開業
- 1890〔明治23〕年 内閣鉄道庁
- 1892〔明治25〕年 7月 逓信省鉄道庁
- 1892〔明治25〕年11月 逓信省鉄道局
- 1897〔明治30〕年 逓信省鉄道作業局
- 1907〔明治40〕年 逓信省帝国鉄道庁
- 1908〔明治41〕年 鉄道院(内閣所管)
- 1911〔明治44〕年9月1日 松山電気軌道開業
- 1920〔大正 9〕年 鉄道省
松山電気軌道は鉄道院の認可を経て開業したのですね。
そうです。松山電気軌道は三津ー道後間を結んでいました。その路線と停留所の場所を地図で確認しましょう。
先程の「工」の杭の位置を記した地図と比較してみると、衣山にある2本の杭は知新園前停留所付近にあり、若草町の4本の杭は本町停留所から札の辻停留所の間にありますね。
はい。今回のテーマである杭は「境界杭」と言い、隣接土地所有者同士で境界を確認したあと、土地の境界に打設するもので、「工」は鉄道省のマークとしても使われていました。では、「工」の杭が打設された付近の様子を見ていきましょう。
松山電気軌道の廃線跡に残る「工」の杭
1 衣山にある2本の境界杭
この2本の境界杭は松山市衣山5丁目にあります。これらの写真の場所を地図で見てみましょう。
赤色の🔴は境界杭、緑色の線は松山電気軌道の路線を示しています。
境界杭は間隔を開けて打設されていますね。どのくらい離れているのですか?
約30m離れています。
約30mの間隔は何を意味しているんだろう?先生はこの2本の境界杭についてどのように考えますか?
これらの杭が打設された時期が分からないので単なる仮説ですが、この杭がある辺りに知新園停留所があり約30mの間隔は停留所の幅を意味しているのではないでしょうか。
なるほど。
2本とも「工」の字の上に矢印が同じ向きで彫られていますね。これは矢印の先が土地の境界であることを示しています。おそらく杭の北側〔写真では上側〕が停留所だったのではないかと考えています。別の視点から撮影した写真を見てみましょう。
境界杭の左側にある切り通しはJRの線路ですね。松山電気軌道の電車はどこを走っていたのだろう?
おそらく杭の左側を走っていたと思います。杭の左側が軌道だと考えると、切り通しの奥に見える住居と住居の間に軌道が続いていたように見えます。別の視点から撮影した写真を見てください。
なるほど。ではJRの線路についてはどのように考えますか?当時は国鉄ですが。
国鉄松山駅の開業は昭和2〔1927〕年4月3日のことです。ですから、松山電気軌道が営業していた頃にはこの切り通しも国鉄の線路もありません。ですので、この境界杭よりも左側が軌道で、知新園前停留所がこの辺りにあったと考えているのです。
なるほど。
とはいえ、予讃線開通時にこれらの境界杭が打設されたのかもしれません。そうだとすると、この境界杭は国鉄の用地と道路との境界を示したものだとも考えられます。
確かにその説もありえますね。
2 若草町にある4本の境界杭
まず最初に4本の境界杭の位置を記した地図を見てください。
松山電気軌道の電車はどこを走っていたんでしたっけ?
上の地図に緑色で記してみましょう。
杭①と②は路線上にありますが、杭③と④は路線とは離れていますね。どんな意味があるんだろう?
現在の地図と過去の地図を比較できる「今昔マップ on web」というサイトに当時の地図が掲載されています。見てみましょう。
【参考】今昔マップ on web 1928〔昭和3〕年〜1955〔昭和30〕年
松山電気軌道の路線の東側に「師範校」、さらにその東側に学校が2校あったのですね。
「師範校」というのは愛媛師範学校といい、松山電気軌道が開業していた頃は愛媛県師範学校という校名でした。現在の愛媛大学教育学部の前身です。先程の地図に学校の敷地を表記してみましょう。
【参考】Wikipedia 愛媛師範学校
師範学校の敷地内に境界杭?どういうことなのでしょうね。
ことの経緯はまだ分かりません。これから調査しますね。それでは、4本の境界杭を写真で確認しましょう。
境界杭のある所がちょうど壁になっている。ここを松山電気軌道の電車が走っていたんですね。
その通りです。次は境界杭③と④を見てみましょう。
境界杭①と②に比べると地表に出ている部分が短いですね。
そうですね。松山電気軌道の電車は、境界杭①と②付近を南進し、札の辻停留所へ向かいました。停留所付近の現況を見てみましょう。
松山札之辻ビルと隣のビルとの境が廃線跡ですか?
その通りです。このビルの向かい側には、廃線跡だと分かるカーブが今でも残されています。
本当だ。このカーブは明らかに廃線跡ですね。
そうですね。そして、愛媛師範学校跡地には「愛媛教育草創之地」碑が建立されていますよ。
巨大な石碑ですね。
そうでしょう。松山電気軌道の歴史については、過去の記事をよく読んで復習しておいてくださいね。
はい。
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One more thing・・・
松山市以外にも「工」の杭が打設されている所があります。次の写真を見てください。
本当だ!これはどこですか?
大洲市です。伊予大洲駅前を国道56号に向かって進んだ通り沿いにあります。杭の場所を地図で確認しましょう。
杭がある所は敷地が広いですね。そこには何があるのですか?
かつてはフレッシュバリュー大洲店があったのですが閉店し、現在は更地になっています。
本当だ。「工」の杭があるということは、この場所も鉄道に関係があるのですね。
はい。大正7〔1918〕年に開業し、昭和8〔1933〕年に国鉄に買収されるまで続いた愛媛鉄道の大洲駅があった場所です。
へえ、そんな昔に私鉄があったんですね。
そうなんです。愛媛鉄道の歴史についても過去の記事がありますので、ぜひ読んでおいてください。
分かりました。愛媛県の鉄道史を勉強します。
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本稿は以上です。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。過去記事も読んでみてくださいね。