伊予鉄道の歴史④ 松山電気軌道会社との対立Ⅱ

Teacher

 今回は、三津浜の人々が松山電気軌道会社を設立するまでの経緯をまとめていきます。

Takashi

 先生、写真の石碑には「高濱開港記念碑」と刻まれていますね。

Teacher

 はい。明治39〔1906〕年9月の高浜港開港を記念して、高浜駅から160m程南側の線路沿いに建てられたものです。寺島健が逓信大臣の時代ですから、建てられたのは昭和16〔1941〕年から昭和18〔1943〕年の間だと思われます。

Takashi

 高浜港の開港式に対し、三津浜の人々の反応はどのようなものだったのでしょうか?

Teacher

 伊予鉄道の歴史と三津浜の人々の反応を対比させながら、松山電気軌道会社設立までの経緯をお話しします。

① 高浜・伊予鉄道対三津浜の対立は政治闘争へ

Teacher

 高浜の発展に対する三津浜の人々の反応が、『愛媛県史 社会経済3 商工』に記載されていますよ。確認してみましょう。

三津浜の人々の反応

 明治二四年(一八九一)一月伊予鉄道が株主総会において松山~三津間の鉄道を高浜まで延長することを議題にあげたのを契機に、それまでは必ずしも顕在化しなかった高浜港との対抗意識が三津浜港関係者に俄然強まることとなった。伊予鉄道はかまわず高浜までの延長を実行する。そして案の定、山陽鉄道・大阪商船を結ぶ宇品航路の船車連絡運輸が開始される(明治三六年三月)。これをより便利にするため高浜駅が桟橋に近い埋立て地に移設されるやら、大阪商船会社は支店を三津浜から高浜に移すやらで三津の人々の心中は穏やかならぬものがあった町は伊予鉄三津駅と港間の人力車賃に補助を出して船利用客の負担を減じようとしたが、こんなことではとうてい高浜港の優れた船車連絡の便宜には対抗できなかった

『愛媛県史 社会経済3 商工』 ※ 下線及び太字は引用者による
Takashi

 どんどん高浜が繁栄していくのが分かりますね。

Teacher

 伊予鉄道の社長を務めた井上要は、三津浜の人々の思いについて、著書の中で次のように想起しています。

三津浜の人々の反応

 高浜の開港は海陸交通に一生面を開き、世人は大に新なる利便を歓び迎えた。けれども三津浜に取りてはそれが大なる脅威であり打撃である。三百年来船を生命として繁栄し、本県第一の主要港を誇りたる此港湾が一朝にして主なる汽船の煙を絶つこととなっては黙っては居れぬ。故に高浜の計画着々進行するを見、三津浜に於ても種々対策を協議した結果は、進んで此高浜を併合合致する方策を取らず、寧ろ之を敵として奮戦撃滅する反抗方針に出たのである。併し、それには是非とも高浜に譲らぬ築港を為さねばならぬ。然るに今までは其準備がない。依って明治卅六年五月には町長逸見義一氏始め宮崎張義、泉守三郎、山谷松氏等の有力家が率先して三津浜港湾改修協賛会を組織し、大阪の南清博士と村上工学士共同の工務處に依頼して、築港の測量設計に着手した。

 同時に其目的達成の最も力ある手段として、同町を挙げて政友会と結託することとした。当時同町の諸士は、「三津浜を亡すものは伊予鉄であり井上要である、そうして井上要に反対する勢力は政友会である。」と見込を付け、同年四月廿五日、政友会の首領藤野政高氏等を同町にある生簀の潑々園に招請し、種々情を盡くし議を練った末、同町は挙って政友会に加盟する代りに同会は力を挙げて其築港を支持することとなったのである。

『伊予鉄電思い出ばなし』 ※ 下線および太字は引用者による

藤野政高について

海南新聞社長 藤野政高君頌功碑〔三宝寺(松山市喜与町)境内にある〕
Takashi

 先生、藤野政高という人はどんな人なのですか?

Teacher

 藤野政高は、愛媛県の自由民権運動に大きな功績を残した人です。彼の生涯をまとめてみましょう。

  • 安政 3〔1856〕年 伊予松山藩士の子として生まれ、藩校明教館に学ぶ。
  • 明治11〔1878〕年 法律学舎で法律を修め、代言人〔弁護士のこと〕の資格を取得して帰郷。
  •    々      自由民権結社・公共社に加入して愛媛県下における民権運動の代表者として活躍。
  • 明治19〔1886〕年 愛媛県会議員に当選。
  • 明治20〔1887〕年 三代事件建白者の総代として上京するが、保安条例に抵触して東京から強制退去。
  • 明治23〔1890〕年 第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選。以後三期にわたって代議士を務める。
  •           その後、憲政会や立憲政友会の愛媛県支部代表、海南新聞社長等を歴任。
  • 明治42〔1909〕年 三津浜築港疑獄事件で逮捕され、政界を引退。
Takashi

 三津浜築港疑獄事件で政界引退ですか。どのような事件だったのですか?

Teacher

 三津浜築港に絡む寄附強要恐喝の疑いで、多数の政治家が逮捕された事件です。藤野政高は、町長から受け取った1万円の使途が正当でないという理由で検挙されています。

Takashi

 そんな事件へと発展してしまったのですね。

Teacher

 この時の三津浜築港は起工式のみが行われ、工事が始まることはありませんでした。しかし、三津の恵美寿神社境内に「三津濱築港起工記念碑」のみが残され、起工式が行われた事実を後世の人々に伝え続けています。

三津浜築港起工記念碑
Takashi

 先生、そういえば前回の講義で、藤野政高は高浜築港期成同盟会に属したと伺ったかと思ったのですが…。

【参考】伊予鉄道の歴史③ 松山電気軌道会社との対立Ⅰ

Teacher

 確かにそうなのですが、藤野政高は翻意しています。彼自身が後年語った考えが『愛媛県史 近代 上』に記載されています。みてみましょう。

藤野政高、翻意の理由

 後年、藤野は三津浜築港を選択した理由について、本来自分は三津浜改修が希望であったが、明治三二年ごろ、当時の千種県技師の見積もりでは二〇〇~三〇〇万円を要するのに対し高浜築港は三〇万円程度で可能だといわれたため、やむを得ず従来の希望を捨てて同盟会に加入した、ところが三六年四月に三津浜町長らと会談した際、南工学博士らの見積もりでは三〇万円内外で三津浜築港が可能と聞かされ、政党員である自分は多数の人民の幸福を希望する見地から高浜は人口少なく三津浜は一万人が港湾によって衣食しているところで高浜の繁栄は三津浜の困苦になると考え、翻意したと述べている。

『愛媛県史 近代 上』 ※ 下線及び太字は引用者による
Takashi

 なるほど。そういう事情でしたか。

高浜港開港式と三津浜の人々

Teacher

 明治39〔1906〕年9月1日、高浜港の開港式が挙行されました。これに対する三津浜の人々の反応を見ていきましょう。

三津浜の人々の反応

 明治三十九年九月一日には、前に述べたように愈高浜は開港して盛なる開港式を行うた。之を見た三津浜はヂッとして居らぬ。同月四日、三津町民大会を開いて高浜反対三津築港を決議したが、そのときは殺気場に満ちて意気天に沖する有様であった

 その時代の知事安藤謙介氏は頗る如才のない人であるが、随分露骨な極端家である。そうして間もなく内閣は政友会、内務大臣は原敬氏の時代となった。所謂我党の内閣となれば、与党の意気も自ら揚るわけである。茲に於て内務大臣-知事-政友会-三津浜と脈絡相通じて三津濱復興-高浜反対の気勢を揚げ、茲に全く伊予鉄道反抗連盟は成立した

『伊予鉄電思い出ばなし』 ※ 太字及び下線は引用者による
Takashi

 「殺気場に満ちて」というのは恐ろしい。それにしても、どの政党が与党になるかということも関係していたのですね。

Teacher

 はい。ここに至って、高浜・伊予鉄道と三津浜の対立は政治闘争へと発展していったのです。

② 松山電気軌道会社設立へ

Teacher

 さて、三津浜の人々が結成した伊予鉄道反抗連盟はどのような活動を繰り広げたのでしょうか。

Takashi

 松山電気軌道会社を設立させたのですよね。

Teacher

 いいえ、すぐに設立したのではありません。そこに至る経緯を井上要が著書で述べています。引用しましょう。

三津浜の人々による伊予鉄道反対運動Ⅰ

 茲に於て三津浜の人々は中々黙止しない。町民を結束して伊予鉄道に対する不乗車同盟を造り、二神氏(三津魚市会社頭取 二神清八氏のこと)始め多くの監視員は日々駅前に見張りを為し、一々町民の乗車を制止した。のみならず更らに対抗策として馬車を買入れて競争を企てた

『伊予鉄電思い出ばなし』 ※ 下線は引用者による
Takashi

 この対抗策は成功したのでしょうか?

Teacher

 どうでしょうか?井上要の著書からの引用を続けます。

三津浜の人々による伊予鉄道反対運動Ⅱ

 三津浜の諸士は先に鉄道の不乗車同盟を作ったが、夫れは間もなく解消した。今度愈高浜が開港となり、汽船が同港に移るや之を憤慨して鉄道に対抗すべく明治三十九年十一月から有志結合して馬車営業を開始したが、馬車を以て鉄道に当るは火縄筒を以て精鋭の新武器と相争うようなわけで、到底永く続かないとは分かってゐる。誠に苦心焦慮の折柄、政友会の有力者と共に断然新鋭を誇るべき電車を敷設し、平行線を造って一挙に伊予鉄を根底から征服する計画を立てることとなった

『伊予鉄電思い出ばなし』 ※ 下線および太字は引用者による
Takashi

 なるほど。このような経緯で松山電気軌道会社が設立されることになったのですね。

Teacher

 そうです。松山電気軌道会社について、簡潔にまとめます。

  • 明治39〔1906〕年9月    内務省から三津浜-一番町-道後間の特許を得る。
  • 明治40〔1907〕年4月    資本金31万円で松山電気軌道会社設立〔発起人:清家久米一郎、夏井保四郎ら〕
  •                石手川上流に水力発電所を建設し、電力供給を行う。
  • 明治44〔1911〕年9月 1日 松山では初めての軌間1,435mmの広軌で開業。
  •                この時は、住吉-本町間と札ノ辻-道後間であった。
  • 明治44〔1911〕年9月19日 本町-札ノ辻間開業。 ※ 住吉-道後間がつながる。
  • 明治45〔1912〕年2月 7日 江の口-住吉間開業。 ※ 江の口-道後間がつながる。

【参考】Pokkoriesオフィシャルサイト 松山電気軌道廃線跡調査01 概要

Takashi

 伊予鉄道は軌間762mmの軽便鉄道でしたから、比べると軌道がかなり広いですね。

Teacher

 はい。しかも、三津から道後まで路線をつなげたのは松山電気軌道会社が初めてでしたし、電車でしたから、伊予鉄道にとっては脅威でした。

松山電気軌道の路線と停留所の場所 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成〔伊予鉄道の路線は現在のもの〕
Takashi

 そうか!道後鉄道を買収したといっても、松山駅と一番町駅の間はまだつながっていなかったのですよね。

道後鉄道の軌道跡 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
Teacher

 その通りです。伊予鉄道の対抗策とその後の競争については、次回説明します。

Takashi

 はい。楽しみにしています。

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