『愛媛面影(えひめのおもかげ)』に描かれた八幡浜港の場所を探ろう!

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 上の図は『愛媛面影』に描かれている江戸時代末期の八幡浜港です。まず最初に『愛媛面影』がどんな書籍なのか解説します。

『愛媛面影』とは?

 伊予今治藩医で国学者の半井梧菴(なからいごあん)が著した私撰地誌で、『古事記』に記された「愛比売」に、現在の県名となっている「愛媛」の文字を初めて宛てたことで知られる。慶応2(1866)年の序文には、梧菴が伊予国風土記の散逸したことを嘆き、新しい風土記の編纂に取り組んだことが記されている。江戸時代後期に流行した名所図絵のスタイルにならい、名所旧跡を描いた挿絵が随所に見られる。

「文化遺産オンライン」ホームページより

【参考】「文化遺産オンライン」ホームページ 愛媛面影

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 『愛媛面影』には伊予国各地の自然・社会・文化などの地理的現象が挿絵とともに描かれているので、江戸時代末期の各地の様子を知ることができます。さて、江戸時代末期の八幡浜港と現代の八幡浜港を比較してみましょう。Google Mapを添付しますので、『愛媛面影』に描かれた八幡浜港の図と見比べてみてください。

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 いかがですか。港の形こそコの字になっていますが、港の中に島がありませんし、橋が架けられていませんね。現在の八幡浜港は埋立てによって造成された出島にフェリーターミナルが移転し、令和4年4月1日から運用が開始されましたから、そもそも『愛媛面影』に描かれた八幡浜港とは場所が違います。ちなみに、移転前の八幡浜港の地図をご覧ください。

平成25年2月25日撮影〔国土地理院ホームページから引用〕
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 出島の南側にフェリーが2隻並んでいますね。かつてはここにフェリーターミナルがあり、八幡浜ー別府間及び八幡浜ー臼杵間を結んでいました。なお、昭和50年代初めまでの八幡浜港の場所もまた異なります。次の写真をご覧ください。

昭和22年10月7日撮影の八幡浜〔国土地理院ホームページから引用した写真を加工〕
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 この頃は現在の八幡浜港よりも東方に港が2つあり、それぞれ旧港・新港と呼ばれていました。なお、旧港・新港ともに明治時代以降の港であり、『愛媛面影』に描かれた港ではありません。

明治時代の埋立地〔『八幡浜市誌』より引用〕
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 では、江戸時代末期の八幡浜港の場所はどこだったのでしょうか?

  • 町中に並ぶ直方体の石
  • 海に向かって開かれた町
  • かつての港の痕跡をたどろう!
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 江戸時代末期の八幡浜港の場所について、上の3項目に分けて解説していきます。キーワードは「町中」。それでは始めましょう。

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 上の写真は八幡浜市船場通り付近で撮影したものです。この写真の場所をGoogle Mapで確認しましょう。

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 人家や商店が建ち並ぶ中にありますね。ちなみに左側に南北に伸びている白い筋は、新町商店街のアーケードです。皆さん、これらの直方体の石は何だと思いますか?写真の場所の近くに八幡浜市教育委員会が立てた解説板がありますので見てみましょう。

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 なんと、これらの石は交易船を繋いだ「舟つなぎ石」で、この辺りはかつて海岸線であったそう。ということは、八幡浜の市街地の多くは埋立てによって造成されたことになりますね。埋め立てによる市街地の拡大について、『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』には次のような記述があります。

埋め立てによる市街地の拡大

 商業の発達につれ埋め立てによる市街地の拡大が図られ、江戸期以来西方、八幡浜湾頭へ延びていった。明治6年(1873)、八幡浜商会により現在の新町・港町の一帯7,089坪の海面、遠浅が埋め立てられて以来、明治期に49,378坪、大正期10,358坪、昭和にはいり32,328坪が埋め立てられ、商店街も本町・たんぼ町から新町へ移動した。
 明治期の埋め立ては大商人によるものが多く、その屋号が今日、大黒町・近江屋町など町名として残っている。

『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』
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 八幡浜の埋め立ては江戸、明治、大正、昭和と断続的に行われたようです。もしかしたら、この辺りが『愛媛面影』に描かれた八幡浜港の場所かもしれませんね。それでは次に、八幡浜の埋め立ての歴史を見ていきましょう。

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 『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』には「埋め立てによる町並みの整備は宝暦期ころから始まり」という記述があり、宝暦期とは西暦1751年から1764年までの期間を指します。江戸幕府将軍でいえば9代徳川家重と10代徳川家治の治世で、特に10代家治は田沼意次を側用人に重用して商業重視の改革を行ったことで知られていますね。宝暦期の埋め立ての場所を記した図が『八幡浜市誌』に掲載されています。ご覧ください。

宝暦年間の埋立地〔横線の場所〕
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 図に記された鳥居は八幡神社、⭐︎の記号は代官屋敷を示しています。ちなみに、代官屋敷が置かれていた場所は現在の新町商店街と銀座商店街が交差する辺りで、八幡浜市教育委員会が解説板を設置しています。

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 また、代官屋敷跡は案内所として整備されていて、その傍には大正3〔1914〕年に改修された道標が残されています。

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 それでは、宝暦期の埋立地の場所を地理院地図上に表してみます。『八幡浜市誌』の図と比較してみてください。

宝暦年間の埋立地〔横線の場所〕
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 いかがでしょうか。大法寺がある山と周辺の道路の走り方、そして舟つなぎ石の場所を考慮に入れて作図してみました〔あくまでも推定です〕。現在の新町商店街の南半分は宝暦年間の埋立て、北半分はのちの時代の埋立てということになります。なお、明治から昭和にかけての八幡浜の埋立事業の推移は次のとおりです。

八幡浜市の埋立事業の推移〔『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』より作成〕
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 ここまでの内容から考えると、『愛媛面影』に描かれた八幡浜港は宝暦年間から明治初期まで港であった所、つまり新町3丁目付近から北側だと考えるのが妥当ではないでしょうか。それでは最後に、町中に残る港の痕跡を確認していきましょう。

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 『愛媛面影』に描かれた八幡浜港の図をもう一度見てみましょう。

『愛媛面影』に描かれた江戸時代末期の八幡浜港
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 注目すべきは、図に描かれた3箇所の樹木です。

  1. 橋が架けられた小島の上に描かれた樹木
  2. 建物の奥に描かれた樹木
  3. 山の斜面に描かれた樹木
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 これらは全て、航海の安全や大漁を祈願して建てられた神社があった場所です。それぞれの神社の名称を図中に記してみます。

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 埋め立てによって市街地が拡大した結果、これらの神社は全て廃されてしまいました。しかし、市街地を散策してみるとその痕跡が確実に残されています。その痕跡を一つ一つ確認していきましょう。

1.住吉神社

八幡浜市新町3丁目にて撮影
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 左の店舗をよく見てください。「住吉」という文字がありますよね。このお店は住吉呉服店、かつての住吉神社の跡地に建てられたものです。なお、ここから右へ数m進むと「舟つなぎ石」があります。

【参考】「住吉呉服店ホームページ」住吉呉服店について

【アクセス】

2.戎神社

八幡浜市港町にて撮影
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 ここは、住吉呉服店から北へ250mほど進んだ地点です。神社そのものの跡は全く残されていませんが、「戎町モータープール」という名称がかつて戎神社があった痕跡です。なお、『愛媛面影』の図に記されている大橋はこの場所から右側〔新町商店街側〕に架けられていましたが、埋め立てが行われた際に取り壊されたそうです。

【アクセス】

3.金刀比羅神社

八幡浜市新町5丁目にて撮影
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 ここは、神社の跡だとはっきり分かりますね。社殿こそありませんが、石段と石段を上がった所に倒れた手水鉢があります。なお、「琴平町」という地名からもこの場所に金刀比羅神社があったことが分かります。なお、現在は八幡浜市横浦に遷されています。

【参考】愛媛県神社庁ホームページ 金刀比羅神社

【アクセス】

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 いかがでしたか。それでは最後に、3つの神社があった場所を地理院地図に記してみましょう。『愛媛面影』の八幡浜港の図と比較してみてください。

3つの神社があった場所=『愛媛面影』に描かれた八幡浜港
〔国土地理院電子国土基本図から作成〕
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 もう一つ紹介させてください。八幡浜市海老崎に建てられた社と常夜燈です。これも江戸時代の八幡浜の様子を現在に伝えてくれる貴重な史跡です。

【アクセス】


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 いかがでしたか。言われなければ分かりませんが、かつての港の痕跡が残っていますでしょう。八幡浜は埋め立てによって市街地を拡大してきた歴史があり、「海に向かって発展していく町」だと言えます。本稿で紹介した痕跡以外にもたくさんの痕跡がありますので、ぜひ八幡浜を散策してみてください。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。

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