正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう! 石手寺へ②

【前回の投稿】『散策集』吟行の道をたどろう! 石手寺へ①

『散策集』吟行ルート

  • 9月20日 石手・道後方面へ  … 柳原極堂とともに
  • 9月21日 御幸寺山麓へ    … 柳原極堂、中村愛松、大島梅屋とともに
  • 10月2日 中の川、石手川堤へ … 子規ひとりで
  • 10月6日 道後湯之町へ    … 夏目漱石とともに
  • 10月7日 雄郡・今出・余戸へ … 子規ひとりで村上霽月を訪れる
Teacher

 前回は湯渡町から石手川北側の堤防上を進み、石手寺を目指すところまで紹介しました。

Takashi

 いよいよ石手寺ですね!続きを早く知りたいです。

Teacher

 分かりました。子規は、砂土手を越えて石手川堤防上へ行くまでにたくさんの句を詠んでいます。まずは句の紹介から始めましょう。

子規が詠んだ句

蜻蛉〔トンボのこと〕の 御幸寺見下す 日和哉    

露草や 野川の鮒の ささ濁り

虫鳴くや 花露草の 畫の露     

肥溜の いくつも並ぶ 野菊哉

秋澄みたり 魚中に浮て 底の影         

底見えて 魚みえて秋の 水深し

飛びハせで 川に落ちたる 螽哉

蓼短く 秋の小川の 溢れたり

兀山〔樹木の生えていない山のこと〕を こえて吹きけり 秋の風

五六反 叔父がつくりし 糸瓜哉

馬の沓 換ふるや櫨の 紅葉散る

六尺の 竹の梢や 鵙の声

『子規遺稿 散策集』※注釈は筆者が加筆
Takashi

 当時の農村風景が目に浮かんできます。今とは全く風景が違いますね。

Teacher

 そうですね。現在の風景と比較してみましょう。

Teacher

 さらに子規は、石手川堤防上を歩きながら次の句を詠んでいます。

子規が詠んだ句

土手に取りつきて石手寺の方へは曲りける

 野径曲れり 十歩の中に 秋の山

 ほし店の 鬼灯吹くや 秋の風

 南無大師 石手の寺よ 稲の花

 二の門は 二町奥なり 稲の花

『子規遺稿 散策集』
Takashi

 先生、「ニの門」とは何ですか?

Teacher

 おそらく国宝の「仁王門」のことでしょう。一の門については、柳原極堂の回想から場所を推測するしかありません。

柳原極堂の回想

 土手を北へ下りて少し行けばすぐ一の門がある。

『友人子規』
Teacher

 子規の句に「二の門は二町奥なり」という表現があります。二町は約218mですから、ニの門が「仁王門」だとすると、一の門は遍路橋北交差点付近にあったと推測できます。

Takashi

 なるほど。

Teacher

 ちなみに、石手寺の参道沿いに「南無大師」の句碑があります。石手川堤の現況写真とともに紹介しますね。

Teacher

 石手寺に到着した子規と極堂は、しばらく境内を散策します。『散策集』の記述に戻りましょう。

子規が詠んだ句

山門の前の茶店に憩ひて一椀の渋茶に労れを慰む

 駄菓子売る 茶店の門の 柿青し

 人もなし 駄菓子の上の 秋の蝿

 裏口や 出入にさはる 稲の花

橋を渡りて寺に謁づ ここは五十一番の札所となりとかや

 見あぐれば 塔の高さよ 秋の空

 秋の山 五重の塔に 並びけり

 通夜堂の 前に粟干す 日向哉

『子規遺稿 散策集』
Takashi

 「人もなし」という表現から何か寂しさを感じます。今とは違って訪れる人が少なかったのでしょうか?

Teacher

 そう読み取れますね。石手寺と周辺の風景の現況を写真で見てみましょう。

Takashi

 三重塔は、子規が句に詠んだものですか。

Teacher

 そうです。そして大師堂を訪れた時、子規に不思議な出来事が起こります。

Takashi

 えっ!何が起きたのですか。

Teacher

 『散策集』の記述を見てみましょう。

子規に起きた不思議な体験

 大師堂の椽端〔えんばた〕に腰うちかけて、息をつけバ側に落ち散りし白紙。何ぞと開くに当寺の御鬮〔みくじ〕二十四番凶とあり中に「病事は長引也。命にはさはりなし」など書きたる自ら我身にひしひしとあたりたるも不思議なり。

 身の上や 御鬮を引けば 秋の風

 山陰や 寺吹き暮るる 秋の風

『子規遺稿 散策集』※注釈は筆者が加筆
Takashi

 危機は脱したとはいえ、病気療養中の子規はドキッとしたでしょうね。句にも何か寂しさを感じます。

Teacher

 そうですね。同行していた極堂は後年、『友人子規』のなかで“當時之をみてゐた予は實に悲痛の情に堪へなかった。”と述懐しています。

Takashi

 そうでしょうね。極堂は子規の病気のことを知っていましたからね。

Teacher

 その通りです。この時子規が腰掛けた場所について、富田狸通が自著の中で次のように書いています。

子規が腰掛けた場所

 大師堂の縁は、堂の西側は六米、北側は四米の長さで、子規は北側の西角から二枚目と三枚目の縁に腰かけて休んだという。翁〔柳原極堂のこと〕は、その縁板を大事そうにさすりながら、『五十数年前のことじゃが、その時足もとに飛んできたおみくじを拾って読んだ子規は、このおみくじ通りならええがなーと独り言をいった。僕は何とも答えなかったが、この縁板には、その時の子規の温みが染みついているのぞな。あれから子規は遂に松山へ帰ることが出来なんだ』と、感慨深げに話してくれたのであった。

富田狸通著『消えた子規の温みの縁』より ※注釈は筆者が加筆
Takashi

 かなり具体的ですね。これについて詳しく教えてください。

Teacher

 これは、富田狸通が終戦後、柳原極堂とともに石手寺を訪れた時のことをまとめたものです。子規が腰かけた縁板は暖をとるための燃料として燃やされてしまったそうですよ。

Takashi

 それは残念ですね。

Teacher

 私もそう思います。石手寺を訪れた際にその場所を撮影しましたので、写真で確認しましょう。左側が子規が腰かけた縁板を北から、右側が南からそれぞれ撮影したものです。

Teacher

 この時の句碑が石手寺境内に建てられています。

身の上や 御鬮を引けば 秋の風
Teacher

 石手寺を出た二人は、道後の方へ向かいました。『散策集』の記述を見てみましょう。

石手寺から道後方面へ

寺を出でて道後の方に道を取り帰途につく

 駒とめて 何事問ふそ 毛見〔けみ、稲の出来を調べる役人のこと〕の人

 芙蓉見えて さすがに人の 声ゆかし

 にくにくと 赤き色なり 唐辛子

御竹藪の堀にそふて行く

『子規遺稿 散策集』より ※注釈は筆者が加筆
Takashi

 御竹藪とは何のことですか?「堀」とありますから道後公園のことでしょうか?

Teacher

 その通りです。道後公園は中世の伊予の豪族河野氏の居城であった湯築城の跡につくられました。公園として整備されたのは明治21年のことです。整備される前は荒れ果てていたので「御竹藪」と呼ばれていました。子規の記憶の中にその頃の風景が浮かんでいたのかもしれませんね。では子規が詠んだ句を見てみましょう。

子規が詠んだ句

古濠や 腐った水に 柳ちる

水草の 花まだ白し 秋の風

秋の山 御幸寺と申し 天狗住む

四方に秋の 山をめぐらす 城下哉

稲の香や 野末ハ暮れて 汽車の音

雛頭の 丈を揃へたる 土塀哉

『子規遺稿 散策集』より
Teacher

 9月20日の吟行ルートについては以上です。最後に、松山市内にあるこの日に詠んだ子規の句碑を見て終わりましょう。

Takashi

 ありがとうございました。

【明治28年9月20日の吟行の際に詠んだ句を刻んだ句碑】

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