正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう! 道後湯之町へ③

『散策集』吟行ルート

  • 9月20日 石手・道後方面へ  … 柳原極堂とともに
  • 9月21日 御幸寺山麓へ    … 柳原極堂、中村愛松、大島梅屋とともに
  • 10月2日 中の川、石手川堤へ … 子規ひとりで
  • 10月6日 道後湯之町へ    … 夏目漱石とともに
  • 10月7日 雄郡・今出・余戸へ … 子規ひとりで村上霽月を訪れる
Teacher

 前回は鴉渓の花月亭を訪れたところまで紹介しましたね。このあと、子規と漱石は宝厳寺へ向かいました。

Takashi

 宝厳寺は、鎌倉新仏教の一つ「時宗」を開いた一遍上人が生まれたお寺ですよね。

Teacher

 その通りです。早速『散策集』の記述を見てみましょう。

宝厳寺へ向かう子規と漱石

松枝(まつがえ)町を過ぎて宝厳寺に謁づ。ここは一遍上人御誕生の霊地とかや。古往近来当地出身の第一の豪傑なり。妓廓門前の楊柳、往来の人をも招かで、むなしく一遍上人御誕生地の古碑にしだれかかりたるもあはれに覚えて

 古塚や 恋のさめたる 柳散る

宝厳寺の山門に腰うちかけて

 色里や 十歩はなれて 秋の風

『子規遺稿 散策集』 ※ 句読点及び註釈は筆者が加筆
Takashi

 子規も一遍上人のことにふれていますね。「当地出身の第一の豪傑」という評価が面白いです。

Teacher

 子規は、一遍が全国を回って民衆救済に努めた「信念の人」だと評価しているのです。

Takashi

 なるほど!

Teacher

 宝厳寺の場所は、下の地図の通りです。ちなみに子規が「松枝町」と書いていますが、正確には「松ヶ枝町」です。宝厳寺前の通り沿い一帯がその地域に該当します。

Teacher

 宝厳寺の歴史を確認しましょう。

  • 天智7 (668)年 斉明上皇の勅願により、伊予国司越智守興が創建したとの伝承あり。
  • 平安時代中期    法相宗から天台宗の寺院となる。
  • 正応5(1292)年 一遍の弟子仙阿により再興され、時宗の寺院として改宗。
  • 建武元(1334)年 得能通綱〔河野氏の一族〕が「一遍上人御誕生旧跡碑」を松ヶ枝町の入り口に建立。
Takashi

 天智天皇!蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子ですよね。宝厳寺はかなり古くからあるのですね。

Teacher

 そうですね。宗派がいくつか変わっていますが、往時には松ヶ枝町一帯に12の支院があったと言われています。

Takashi

 子規が「一遍上人御誕生地の古碑」と書いているのは、宝厳寺の山門前にあるあの石碑のことですか?

一遍上人御誕生舊跡碑
Teacher

 そうです。この石碑のことです。

Takashi

 だとすると、子規たちがこの地を訪れた後にこの石碑の場所が変わったことになりますね。

Teacher

 はい。大正15(1926)年に宝厳寺境内に移築されました。それまでは、子規が「妓廓門前」と書いているように、遊郭の入り口に建てられていました。

Takashi

 お寺の門前に遊郭があるというのは考えてみるとすごい風景ですね。

Teacher

 これは明治初期に行われた風紀対策によるのです。「古塚や」の句は、遊郭というものの寂しさを詠ったのかもしれませんね。

Takashi

 そして、子規と漱石は宝厳寺の境内を散策したのですね。

Teacher

 おそらくそうでしょう。境内には、この時子規が詠んだ句の句碑が建てられていますよ。

色里や 十歩はなれて 秋の風
Takashi

 宝厳寺の山門から遊郭の方を向いて詠んだ句ですね。

Teacher

 そうです。宝厳寺境内にはたくさんの句碑がありますよ。見てみましょうか。

Teacher

 宝厳寺を出た子規と漱石は、大街道の芝居小屋に立ち寄っています。『散策集』の記述を確認しましょう。

大街道の芝居小屋へ

 帰途、大街道の芝居小屋の前に立ちどまりて、漱石てには狂言見んといふ。立ちよれば今、箙〔えびら〕の半ば頃なり。戯れに一句ずつ題す。

 紅梅の ちりぢりに敵 逃げにけり

狂言止動方角  狂ひ馬 花見の人を 散らしけり

能楽鉄輪    蝋燭〔ろうそく〕に すさまじき夜の 嵐哉

狂言磁石    長き夜や 夢にひろひし 二貫文

能楽安宅    剛力に なりおほせたる 若葉哉

狂言三人片輪  三人の かたはよりけり 秋の暮

能楽土蜘    蜘殺す あとの淋しき 夜寒哉

 小さくといへる役者の、女ながらも天晴腕前なりけるに

  男郎花〔おとこえし〕は 男にばけし 女哉

『子規遺稿 散策集』 ※ 注釈は筆者が加筆
Takashi

 大街道の芝居小屋ってどの辺りにあったんですか?

Teacher

 現在松山三越がある辺りで、新栄座という芝居小屋です。これについて、『新版 わすれかけの街 松山戦前戦後』に次の記述があります。

新栄座について

 「新栄座」のコケラ落としは明治20年(1887)。昭和32年(1957)に閉館するまで、三番町の「国伎座」と共に、松山の映画・演劇の殿堂だった。また、各種大会の会場ともなった。

 「オタフクコイコイ」と芝居がある日は、櫓から太鼓が威勢よく鳴り響き、人力車に役者を乗せての街回り、劇場周辺には幟を立てて景気をつけた。大正の末に映画館になるまでは、関西の中堅どころの劇団がやって来た。映画に切り替えると、桟敷を取り払って五人掛けの椅子にした。

『新版 わすれかけの街 松山戦前戦後』 ※ 年号の数字は、書籍では漢数字
Takashi

 へえ、あそこが芝居小屋だったのですね。

Teacher

 愛媛県教育委員会が刊行した『えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)』には、新栄座の記憶を地域の方が証言しています。こちらも読んでおいてください。

Takashi

 「大阪以外では関西で最も大きな劇場」が松山にあったなんて、すごいですね!

Teacher

 明治時代の新栄座の写真が、「明治150年 明治の歩みをつなぐ、つたえる」ホームページにあります。こちらで確認してくださいね。

Takashi

 内子町にある「内子座」の建物とよく似ていますね。幟がたくさん立てられていて、当時の賑やかさを感じます。先生、「てには狂言」とは何ですか?

Teacher

 「てには狂言」とは「照葉狂言」ともいって、能・狂言に踊や俗謡をまじえて三味線の囃子を加えた演芸のことです。嘉永年間に大阪で興り、明治中期まで行われたそうです。『子規遺稿 散策集』の解説では、泉祐三郎、小さく夫妻の一座の芝居を観劇したと記載されています。

Takashi

 泉祐三郎、小さく夫妻の一座について詳しく教えてください。

Teacher

 愛媛県が刊行した『愛媛県史 芸術・文化財』の中に記述〔照葉狂言の松山興行を参照〕がありますよ。読んでみましょう。

Takashi

 道後温泉改築資金調達のため、伊佐庭如矢が銀行の重役たちを彼らの芝居に接待したという話は面白いですね!

Teacher

 この頃は大人気だったようですね。『愛媛県史』の記述にもあるように、この一座は大正時代に解散し、泉祐三郎一家は遼東半島の大連に移住しています。

Takashi

 『散策集』の記述は短いけれど、これも日本の演劇の歴史を知る史料の一つですね。

Teacher

 その通りです。

Takashi

 ありがとうございました。

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