愛媛鉄道の軌道跡をたどろう⑥ 大洲市米津に残る愛媛鉄道の遺構
今回は、大洲市米津に残されている愛媛鉄道の遺構を確認していきます。
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この区間も築堤群や隧道が残されているのでしたね。
そうです。今回は⑦と⑧の遺構を確認していきます。
どんな姿で残されているのだろう?
Google mapの航空写真で見てみると面白いですよ。それでは始めましょう。
⑦ 米津に残る築堤群
上の地図にある赤色の記号は、八多喜隧道の長浜側坑口付近を示しています。愛媛鉄道の路線は、前回Takashi君が回答してくれた通りですよ。
地図中の赤線で示したルート上に築堤が残されているのですね。
そうです。大洲市米津付近の地図に撮影した写真の番号を書き入れました。この番号に沿って、愛媛鉄道の遺構を見ていきましょう。
こうして示してみると、どこが路線であったかが明確に分かりますね。
では、写真番号1番から見ていきましょう。
前回より少し離れた場所から八多喜隧道を撮影されたのですね。
はい。愛媛鉄道の路線がはっきりと分かるでしょう。隧道を出てからの緩やかなカーブは当時のままだそうです。この道を真っ直ぐ進むと、写真2の場所に到達します。
写真左側の少し高くなったところが築堤の跡ですか?
そうです。愛媛鉄道の汽車は、ここから河内隧道に向けて築堤上を進みました。
築堤が完全に遮断されていますね。
はい。現在までの道路開発によって現在の姿に変わりました。そして、築堤は一旦遮断されますが、この直線上に再び築堤が現れます。
綺麗な形で残されていますね。
この築堤跡は河内集会所前にあります。この上を愛媛鉄道の汽車が走っていました。築堤跡の右側の道を進むと、築堤に上がる道があります。
本当だ。地域の方がつくられたのでしょうか?
そうだと思います。築堤上を北方へしばらく進むと地域墓地があるので、そこへ行くために道をつくったのかもしれません。築堤上から八多喜隧道側を見ると、次の写真のような風景が広がっています。
築堤の向こうに河内集会所が見えます。ということは、集会所がある場所もかつては築堤だったのですね。
そうです。同じ場所から河内隧道側を見ると、下の写真のような風景になります。今は草木が生い茂っていて、そのまま進むことが難しい状況です。
これはそのまま進むのが厳しいですね。先生、河内隧道に行くためにはどこから進めばいいのですか?
地域墓地があるところから築堤上に上ることができますよ。次の写真を見てください。
写真奥に見える墓地から築堤に上ることができるのですね。
そうです。地域墓地から築堤に上がったところで撮影したのが次の写真です。
この写真の奥に河内集会所があるのですね。
そうです。写真に写っているお墓を過ぎたところを降りると、大正7〔1918〕年に築造された貴重な遺構があるんですよ。
それはどのような遺構ですか?
築堤の下を清永川の支流が流れているので、汽車を走らせるために煉瓦アーチ橋を築造したのです。今から103年前に造られたとは思えないほど綺麗な姿で残されていますよ。
写真は撮影していますか?
もちろんです。見てみましょう。
これは素晴らしい!
石積みの上に煉瓦をさらに積み重ねています。アーチ部分の巻きは4重になっていますね。内部の写真も撮影しましたので、見てください。
このアーチ橋の上を愛媛鉄道の汽車が走っていたことが容易に想像できますね。
はい。国鉄の買収後に完全に廃棄されて手付かずのままで残ったからこそ、美しい姿を維持できたのです。さて、次は河内隧道です。
⑧ 河内隧道
河内隧道も103年前に築造された姿をそのまま留めています。撮影した写真を次第に隧道に近づくように並べてみましょう。
隧道は綺麗に残っていますけど、さらに先へ進むのは厳しいですね。
長年の風雨によって土砂崩れなども起こったようで、再整備がなされていないのが実情です。私も前へ進みながら、だんだん怖くなってきました。河内隧道の規模は次の通りです。
河内隧道 データ
- 延長 約130m
- 幅員 約4.3m
- 高さ 約3.5m
隧道の内部はどのような状態なのでしょうか?
過去、実際に隧道内部を探索した方がブログに記載しています。そちらの記述を見てみましょう。
【参考②】「廃線隧道」ホームページ 河内隧道
隧道内に水が溜まっていて、長浜側坑口まで真っ直ぐ歩いて渡ることはできないのですね。
残念ですが、そのようです。長浜側坑口へは下の写真の場所から行くことができます。
先のブログに長浜側坑口の写真が掲載されていましたね。
はい。私はまだそちらを訪れていませんので、他の方のブログで確認するしかありません。しかし、いずれ訪れようと思っています。
訪れた際にはぜひ教えてください。
分かりました。今回はここまでにしましょう。
【つづく…】