道後湯之町初代町長 伊佐庭如矢の集客戦略に学ぼう!②
前回は藩政時代から明治初期までの道後温泉の歴史を紹介しました。今回は、道後温泉の観光地化と集客戦略というテーマで伊佐庭如矢の取り組みを紹介します。
いよいよ三層楼の本館改築ですね。伊佐庭如矢はなぜあの豪華な本館をつくろうと考えたのでしょうか?
Erikoさん、その前に伊佐庭如矢の略歴を見てみましょう。
伊佐庭如矢、その生涯
伊佐庭如矢〔1828〜1907〕 略歴
- 文政11〔1828〕年 道後に生まれる。
- 明治 2〔1869〕年 松山藩に出仕する。
- 明治 5〔1872〕年 廃藩置県を機に県吏員となる。
- 明治 6〔1873〕年 【 ? 】阻止に尽力。
- 明治10〔1877〕年 高松市庁長になる。
- 明治13〔1880〕年 内務省図書局事務取扱となる。
- 明治14〔1881〕年 愛媛県に呼び戻される。
- 明治15〔1882〕年 山田香川郡長に就任。
- 明治16〔1883〕年 愛媛県立高松中学校長を兼任
- 明治19〔1886〕年 金刀比羅宮の禰宜になる。
- 明治23〔1890〕年 道後湯之町の初代町長に就任。
- 明治35〔1902〕年 町長を勇退。
- 明治40〔1907〕年 永眠。
ものすごい経歴ですね。高松や金刀比羅宮で役職に就いていますが、これはなぜですか?
はい。実は明治9〔1876〕年に香川県と合併して明治21〔1888〕年に分離するまで、香川県も含む範囲が愛媛県だった時代があるのです。
なるほど。
Erikoさん、略歴中の【?】にはどんな言葉が入ると思いますか?
阻止ですから、何らかの動きを止めたということですよね。
そうです。私たちが松山市の観光名所としてよく知っている場所を守ったのです。
松山市の観光名所といえば、松山城ですか?
その通り!実は、明治の初めに松山城を廃城にしようとする動きがあったのです。
それはどういうことですか?
明治6〔1873〕年に政府が発令した廃城令により、松山城が取り壊される危機にさらされました。この時、県吏員であった伊佐庭如矢が松山城の公園化に関する意見をまとめて請願し、廃城を免れたのです。
なるほど。そういう経緯で松山城の観光地化が進んだのか。伊佐庭如矢の業績は道後温泉だけではないのですね。
その通りです。さあ、本館改築の話を始めましょうか。
はい。
【参考】「松山を見守る松山城」ホームページ
道後温泉の観光地化と集客戦略
明治22〔1889〕年の町村制施行により道後湯之町が発足し、翌年伊佐庭如矢が初代町長に就任します。彼は、歴史と伝統がある道後温泉を中心とした町の発展を企図し、三つの戦略を立てます。
三つの戦略とは?
① 道後温泉の興隆
② 道後鉄道の建設
③ 道後公園の整備 です。
つまり、「鉄道で多くの入浴客に来てもらって、公園でも楽しんでもらおう。」ということですか?
その通りです。これから一つ一つ確認していきましょう。
① 道後温泉の興隆
道後温泉の建物は豪華で、本当に凄いですよね。どういう発想をしたらあのようなものができるんだろう?
伊佐庭如矢は、周囲の人々にこう語ったと言われています。
100年後までも他所が真似できないものを作ってこそ、初めて物をいうのだ。
確かにそうだけど…。本当に実行したのだから、凄い行動力ですね。
ただ豪華な建物を造るだけではありません。彼にはちゃんとしたコンセプトがありました。
それは何ですか?
はい。それは、「道後温泉に関する伝説・神話や歴史をコンセプトに改築する」です。
確かに。長い歴史があるわけですからね。
では、伊佐庭如矢が取り入れた伝説・神話や歴史をいくつか紹介します。
① 白鷺伝説
昔、足に傷を負って苦しんでいる白鷺が、岩間から噴出している温泉を見つけ、毎日足を湯に浸すうち傷はすっかり癒え、元気に飛び立っていった。これを見た村人が不思議に思って手を浸してみると、驚いたことに温かい湯が沸いていた。そして、湯に入ってみると元気な人は気分爽快で疲労は回復、病気の人でもいつのまにか全快する者が現れた。村人たちは温泉の効能に驚き、以来この温泉を利用するようになったという。
(『四国松山 湯の町 道後隅々案内』より)
② 出雲の二神
大国主命と少彦名命が伊予国を訪れた時、少彦名命が急に病に倒れてしまいました。そこで大国主命は下樋(海底トンネルのようなものか)を通して速見の湯(別府温泉)を伊予国にまで引いた。そして小さな体の少彦名命を自分の手のひらにのせ、温かい湯に浸すと、不思議にも元通り元気になった。少彦名命は喜びの余り、側にあった石を踏み「真暫寝哉(しばらく昼寝をしていたようだ)」と叫びながらその石の上で舞ったという。
(『四国松山 湯の町 道後隅々案内』より)
③ 聖徳太子と湯の岡の碑文
(意訳)思うに、天の月日は平等に光を恵む。神の井(温泉)も平等に恩恵を与える。このような自然の摂理と同じように私心なく政を行うならば、これこそ理想の国、まぼろしの天寿国のこの世での姿ではないか。人々は温泉に入浴して難病を治している。それは天寿国にある霊泉花池で沐浴して、弱きものが仏に化すると同じことではなかろうか。
湯の岡に立って伊予の連山を見ていると、このまま山にこもりたい気持ちになってくる。椿は枝を交えて茂り合い、朝は鳥が戯れさえずる。真紅の椿が葉を集めて照り映え、椿の実は花びらを覆って温泉に垂れる。椿の下を散策してゆったり遊びたい。(以下略)
(『四国松山 湯の町 道後隅々案内』より)
※ 法興6〔596〕年、仏教の師である高句麗の高僧慧慈〔えじ〕と側近の葛城臣を伴い、道後に来浴した際に湯の岡に碑を建てたといわれている。
④ 一遍上人と湯釜
石造 湯釜 一基
愛媛県指定有形文化財(建造物)
昭和29年11月24日指定
湯釜は、浴槽内の温泉の湧出口に設置するもので、これは現在の道後温泉本館ができた明治27(1984)年まで使用されていたものである。
直径166.7センチメートル、高さ157.6センチメートル、花崗岩製である。奈良時代の天平勝宝年間(749〜757)につくられたと伝えられる。
湯釜上部に置かれた宝珠の「南無阿弥陀仏」の六字名号は、河野通有の依頼により一遍上人が刻んだものといわれている。
湯釜本体に刻まれた温泉の効験に関する文は、天徳寺の徳応禅師の撰文になるもので、享禄4(1531)年、河野通直が石工を尾道から招いて刻ませたものである。
松山市教育委員会
(『湯釜の解説板』より)
一遍上人が刻んだといわれる「南無阿弥陀仏」の名号の写真がありますよ。
本当だ!「阿」と「佛」の文字が見えますね。
こうしたコンセプトを盛り込み、まず一の湯・二の湯・三の湯の南側にあり、旅人や雑人へ無料で入浴を提供していた養生湯の改築から始めたのですが、ここで問題がおきます。
何が起こったのですか?
それについては、次回お話しします。
[つづく…]