碑文から歴史を紐解く❗️ 〜出合荘前に建てられている句碑の碑文から歴史を知ろう!〜

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 皆さんは下の写真の場所を訪れたことはありますか?

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 この写真は出合橋北交差点にて撮影したものです。入り口に「出合荘」と記された表札がありますね。この建物は現在、株式会社金亀建設が研修の場所として利用しています。「出合荘」の場所を地図で確認しましょう。

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 重信川のすぐ北側にありますね。上の写真では、樹々に隠れて見えませんが、玄関の側に正岡子規の句碑が建てられています。こちらも撮影しましたので、写真をご覧ください。

正岡子規の句碑
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 「出合渡」と題されたこの句碑は、余戸の三島大明神社に建てられている「行く秋や 手を引きあひし 松二木」の句碑とともに、松山市にある正岡子規の句碑としては最も古いものだそうです。松山市教育委員会が設置した解説板が句碑の隣に建てられています。解説文を読んでみましょう。

「若鮎の 二手になりて 上りけり」句碑の解説板
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 昭和8年は西暦1933年です。ということは、今年が2022年ですから89年前に建立されたのですね。実は、この句碑の裏面に重信川の歴史の一端を記した碑文があるのです。下の写真をご覧ください。

句碑の裏面に刻まれた碑文

由来

 此處〔ここ〕出合は重信川と石手川の合流点で、明治四十四年旧々出合橋(木橋)が架かるまでは渡し舟で往来した。此の碑は正岡子規が伊予郡永田村の武市幡松(庫太)を訪ねるに際し、渡船の中で詠んだ句である。子規を識る森河北が近隣の俳人有志と相図り昭和八年出合橋北詰に東面して之を建立した。村上霽月翁の筆になる。次に昭和十三年旧出合橋架け替え竣工により橋詰東側に北面して移設した。続いて昭和五十二年で出合大橋完成に依り河川敷内となる為、余戸有志協議の上此処に移したものである。

    昭和五十四年八月 余戸世話人一同

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 碑文によれば、この句碑はこれまでに2回場所が変わっていることが分かります。ちなみに、昭和13年に架橋された旧出合橋の親柱が句碑の傍に残されています。

旧出合橋の親柱
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 そのほか出合橋の変遷も記されていますが、注目したいのはこの箇所です。

由来

 此處〔ここ〕出合は重信川と石手川の合流点で、明治四十四年旧々出合橋(木橋)が架かるまでは渡し舟で往来した。此の碑は正岡子規が伊予郡永田村の武市幡松(庫太)を訪ねるに際し、渡船の中で詠んだ句である。子規を識る森河北が近隣の俳人有志と相図り昭和八年出合橋北詰に東面して之を建立した。村上霽月翁の筆になる。次に昭和十三年旧出合橋架け替え竣工により橋詰東側に北面して移設した。続いて昭和五十二年で出合大橋完成に依り河川敷内となる為、余戸有志協議の上此処に移したものである。

    昭和五十四年八月 余戸世話人一同

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 実は、重信川に橋が架けられるまで、人々は渡し舟で川を渡っていました。松前町内においては、中川原大間出合北川原塩屋の五か所に渡し場があったことが分かっています。今回は、これら重信川の渡しについて紹介します。

人々のくらしとともにあった重信川の渡し

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 まず最初に、渡し場があった場所を地図で確認しましょう。

重信川の渡し場があった場所 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
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 これらの「渡し」を人々はどのように利用していたのでしょうか?『松前町誌』に中川原の渡しに関する記述がありますので、引用します。

中川原渡し

 数名の人が権利株を持ち、三人ほどの船頭を雇い運営をしていた。舟は平底で、前に荷物、後の方に人を乗せるようになっていた渡し賃は人の場合、明治の始めは三厘、中頃は五厘、終りころでは一銭であった。渡し守は、日の出から日の入りまで勤務し、夜は自宅に帰るので、夜は利用者が自分で舟を利用するようになっていた。舟が対岸にあるときは、呼び綱を引いて舟を引寄せるのである。舟には5〜10人くらい乗せていたが、椿祭などには、20人近くも乗せていたようである。大水が出ると何日も舟の出ない日が続いた。明治20年(1887)には、渡し守営業規則ができた

『松前町誌』 ※ 太字及び下線は引用者による
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 渡し賃がだんだん高くなっていますね。ちなみに、「椿祭」とは伊豫豆比古命神社〔通称 椿神社〕で旧暦の1月7日から9日の3日間行われる春季例大祭のこと〔現在は2月中旬〕。なお、渡し守営業規則は次の通りでした。

渡し守営業規則

第一条 渡守営業をなさんとするものは、河川名、渡場の位置、又間数調書に絵図面並賃銭表を添え、県庁へ願出許可を受くべし、但し、許可の後廃業若くは改氏名をなしたる時は、其時々届出すべし。

第二条 営業に用ゆる舟の構造は堅牢を要す。

第三条 警察官又は主務官吏に於て、渡舟の構造脆弱にして危険の虞れありと認むるときは、改造を命ずることあるべし。

第四条 渡場の位置は猥りに変換するを得ず。若し変換せざるを得ざる場合ある時は、願出許可を受くべし。

第五条 非常の風波又は川留の水量に達したる洪水の節は、渡舟を出すべからず。川留の水量程度は予め許可を受くべし。

第六条 渡舟はその船体応分の人員を予定し、これを木標に記載し、舟内見易きところに釘付すべし。

第七条 渡行者少数又は夜間等の故を以て、謂れなく渡舟を出さず、又は定員外の行人を乗積するを得ず。

第八条 左の各項に掲ぐる場合は渡舟賃を請求することを得ず。

 一、軍隊隊伍を組み行進の節

 一、憲兵制服着用巡行の節

 一、充員若しくは、後備軍召集、又は演習召集点呼召集の際、其令状を所持し通行の節

 一、警察官並に巡査制服着用、及監獄看手、押丁、囚人護送の節

 一、電信配達人、(特に配達人たるを証する服を着したる者)通行の節

 一、郵便物逓送人、及集配人、制服着用、若しくは郵便局より相渡したる印鑑所持の者通行の節

第九条 本則第一条第五条第七条に違背し、同第六条に違背し、命に従わざるものは違背罪となし、五銭以上壱円以下の科料に処す、但し、刑法中特に明文あるものは各其本法に従ふ。

『松前町誌』 ※ 太字は引用者による
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 許可を得る際に様々な文書を提出しなければならないのは現在と全く同じですね。ちなみに「出合の渡し」の渡船料金は次の通りです。

「出合の渡し」渡船料金

人三厘、牛馬六厘、人力車大型四厘、同小型三厘、牛車五厘、荷車小三厘、荷物一人持二厘、荷物二人持三厘。

『松前町誌』
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 牛馬からも料金を徴収したというのは時代を感じます。なお、重信川に橋が架けられると「渡し」はその役割を終えました。各橋梁の架橋年をまとめましたので見てください。

松前町内の主な橋梁 ※ 『松前町誌』第83表をもとに作成
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 重信川に架かる橋を赤字で示しています。出合橋については、句碑の裏面に記されている通り、最初に橋が架けられたのは明治44〔1911〕年のことです。現在「渡し」は完全になくなり、松前町教育委員会が建てた「渡し跡」の標柱のみがその記憶を今に伝えてくれています。それでは、各渡し場付近の風景を写真と地図で確認しましょう。なお、比較対象として昭和20年代初めに米軍が撮影した航空写真も紹介します。当時と現在との町並みや景観の違いを確認してくださいね。

「中川原の渡し」

※ 写真・地図中の☆は、「重信川の渡し跡」の標柱の位置を示している。
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 「中川原の渡し」は、中川原村と古川村を結ぶ渡しでした。渡し場跡に建てられた標柱には、「重信川渡し跡(中川原渡し)」と記されています。

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 『松前町誌』に「中川原渡し場」の図が掲載されています。引用しますので、上の写真と比較してみてください。

中川原渡し場 ※ 『松前町誌』第24図から引用
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 この図は渡し場付近に橋が架けられた頃の様子を描いたものですね。この橋は現在の中川原橋とは異なります。架橋について、『松前町誌』の文章を引用します。

中川原部落による架橋

 大正時代に入ると、中川原部落で橋をかけることになった。丸太を河中に打ち込んで橋脚にし、その上に丸太を組み合わせて橋桁とし、その上に厚さ一寸五分の板をならべて釘打ちをした。橋は長さ一間半、幅四尺のものを一枚とし、これを橋脚の上に何枚も継ぎ足して長い橋にした。橋は大水の時には浮上するが、流失はしないように鎖で結びつけられ、花こう岩の石柱につながれていた。橋は、普通中川原側と古川側の瀬に架けられていたが、流れによって三個所に架けられることもあった。洪水で水かさが増すと、鎖に繋がれた仮橋は浮上して、両岸によってくる。こうなると、人々は森松橋か出合橋まで回らねばならなかった。時には鎖が切れて、はるかに下の方まで橋が流されることもあり、出水があると一週間くらいは復旧しなかった

『松前町誌』 ※ 太字及び下線は引用者による
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 『松前町誌』に掲載されている渡し場の図は、おそらく太字にしている箇所の時代のものを描いたのだと思います。それにしても増水した時には大変だったことが伺えますね。昭和6〔1931〕年にコンクリートの永久橋が完成すると流失の不便がなくなり、「渡し」もその役割を終えました。

「大間の渡し」

※ 写真・地図中の☆は、「重信川の渡し跡」の標柱の位置を示している。
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 「大間の渡し」は、大間村と市坪村を結ぶ渡しでした。渡し場跡に建てられた標柱には、「重信川渡し跡」と記されています。

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 明治44〔1911〕年に旧々出合橋が、昭和6〔1931〕年に中川原橋が完成すると「大間の渡し」はその役割を終えました。

「出合の渡し」

※ 写真・地図中の☆は、「重信川の渡し跡」の標柱の位置を示している。
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 「出合の渡し」は、西高柳村と余戸村を結ぶ渡しでした。渡し場跡に建てられた標柱には、「重信川渡し跡」と記されています。

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 ここは大洲街道沿いにある渡し場で、最も賑わった場所だと伝えられています。余土地区まちづくり協議会が平成31年3月に作成した「2019 余土ふるさとマップ」に、明治の終わり頃だとされる写真が掲載されています。ちょっと見てみましょう。

【参考】2019 余土ふるさとマップ 〜余土に息づく昔からの文化を訪ねて〜 21「出合の渡し跡」

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 出合橋はまだ架橋されておらず、船頭が棒1本を使って舟を漕いでいます。頭に桶を戴いていることから、この写真は「おたたさん」が利用していたときに撮影されたものですね。奥に見えるのは伊予鉄道郡中線の重信川鉄橋です。ここも出合橋の架橋後、その役割を終えました。

【参考:おたたさんの歴史】

愛媛の『これ』は何だろう? 御用櫃を頭に載せて行商していた女性たちの記憶① おたたさんの由来〜瀧姫伝説〜

愛媛の『これ』は何だろう? 御用櫃を頭に載せて行商していた女性たちの記憶② 松山城築城とおたたさん〜日招八幡神社のおとよ石〜

愛媛の『これ』は何だろう? 御用櫃を頭に載せて行商していた女性たちの記憶③ おたたさんと行商〜地域の方の証言から〜

「北川原の渡し」

※ 写真・地図中の☆は、「重信川の渡し跡」の標柱の位置を示している。
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 「北川原の渡し」は、北川原村と東垣生村を結ぶ渡しでした。渡し場跡に建てられた標柱には、「重信川渡し跡(北川原渡し)」と記されています。

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 「北川原の渡し」で注目すべきは、大洲街道から渡し場まで人々が歩んだ道が残されていることです〔右側の地図に示した赤線の部分〕。その証拠に、道の途中に「三津の渡しへ五丁」と刻まれた石碑が建てられています。

「三津の渡しへ五丁」の石碑 ※ 左にある石は松前城の石垣だそうである。
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 碑の隣に設置された解説板には次のように記されています。

重信川三津の渡し

 この道は道幅わずか一間ですが松山藩三津と大洲藩郡中を結ぶ三津街道でした。江戸時代、郡中五色浜の萬安港が整備されるまでの間三津の港に荷揚げされた物資はこの道を通って郡中へ運ばれました。

 この道を五丁行くと重信川があり、お墓の東の竹やぶ下に三津の渡しがありました。

 当時の重信川は松並木が続き冬になると松風の音がこの辺りまで響いていました。渡し場の河原は北川原の寄り合い広場をなし、お節句には巻きずし、卵焼、蓮根、くわい、ぬた、糸こんにゃく、ゆで卵、寒天ようかん、醤油もち、りんまん等をお重箱に詰めて村中総出でおなぐさみをしました。

 なぐさみや 花はなけれど 松葉関 子規

石柱 久万山東明神村産六万石  輝石安山岩

景石 旧松前城石垣石        花崗岩

施主 北川原村組頭  喜安徳兵衛

 平成十四年五月 伊予民俗の会 荻山 美征

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 明治44〔1911〕年に旧々出合橋が、昭和6〔1931〕年に中川原橋が完成すると「北川原の渡し」はその役割を終えました。しかし、この道を通って進めば「重信川の渡し跡」の碑が建てられた場所まで到達できます。ぜひ歩んでみてください。

「塩屋の渡し」

※ 写真・地図中の☆は、「重信川の渡し跡」の標柱の位置を示している。
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 「塩屋の渡し」は、北川原村塩屋と西垣生村を結ぶ渡しでした。渡し場跡に建てられた標柱には、「重信川渡し跡(塩屋渡し)」と記されています。

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 『松前町誌』に「塩屋の渡し」についての記述があります。引用しましょう。

塩屋の渡しの実際と架橋

 この渡しは、水竿〔みざお〕を使うこともあり、ロープを利用することもあった。潮の干満とか、流水量によって、渡しの位置も操船の方法も若干変わっていたようであるこの渡しは、かなり早くから県営となり、渡し賃はいらなくなっていた。ついでしばらくの間、幅約1m余の仮橋が架設せられた。この橋の方式は、さきの中川原橋の方式に似ていて、ワイヤーロープでつないであり、大水時には浮上するようになっていた。この仮橋を利用したのは、ほんのわずかの期間であった。渡しから仮橋の頃には、伊予絣関係の人たちが、かなり多く利用していたようである(渡し守をしていた古老談)。

『松前町誌』 ※ 太字及び下線は引用者による
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 また、地域の方のお話によれば、昭和31年の川口大橋完成後もしばらくは「塩屋の渡し」は続いていたそうです。その頃の様子を見てみましょう。

昭和30年代初め頃の「塩屋の渡し」

  当時、この辺りでは塩屋の渡ししか残っていなかったので、単に『渡し』と呼んでいました。川口大橋が架けられる前、まだ幅の狭い木製の橋が架けられていたときには、潮が満ちてきたりして川の水嵩が増すと、川の流れ自体はそれほどでもありませんでしたが、橋を渡ることが危険であったため、渡しがよく利用されていて、私は吉田浜の飛行場(松山空港)へ飛行機を見に行くことが好きだったので、そのときに2回くらい乗ったことを憶えています。(中略)

 渡しは川船なので、底が浅く平べったい船で、渡し守さんが長い竹の棒で川底を突いて動かしていました。渡しの船には一度に15人ほどのお客さんを乗せることができ、船に乗り込んだお客さんは、船が動いている間は座らずに立ったままでした。また、私が利用したころには渡し賃は必要なかったことも憶えています。渡しには人だけが乗るのではなく、自転車も乗せることができました。

 渡し船が向こう岸にいるときには、大きな声で、『よーい。』と渡し守さんに呼び掛けるとすぐに迎えに来てくれていました。また、船が人を乗せて渡し場を離れた後に乗客が来て、渡し場から『よーい。』と声が掛けられると、その人の乗せるために、すでに乗っているお客さんを乗せたままUターンをして渡し場まで戻っていました。恐らく渡し守さんは、川のどの辺りまでで声を掛けられたら戻って乗せる、ということを決めていたのだと思います。Uターンできない所で声を掛けられると、渡し守さんはそのお客さんに向かって、『もうちょっと待ちな。』と返事をして、向こう岸まで舟を進めていたことを憶えています。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
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 渡しは日の出から日没までの日中のみの運行だったそうで、渡し場のすぐ近くにあった渡し守さんの家では虎巻きの製造と販売をされていたそうですよ。

動画で見る重信川の渡し

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 それでは最後に、松前町及び松山市余土地区の方々が「重信川の渡し」の歴史について動画にまとめてくださっているので紹介します。ぜひご覧いただき、川と渡しの歴史に思いを馳せていただければ幸いです。それでは、どうぞ。

【松前TV】「松前町5つの渡し」まさき-いいとこ見つけ隊-

【松山アーバンデザインセンターチャンネル】松山歴史まちあるき 余土編Part4(最終回)「重信川と出合の渡し」


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 本稿はこれで終わります。重信川河川敷は現在サイクリングロードとして整備されているので、ぜひ自転車で通行してみてください。風景が美しく、充実感を味わうことができますよ。

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