伊予鉄道の歴史② 路線の延長

Teacher

 前回は、伊予鉄道が開業するまでの経緯を紹介しました。その後の伊予鉄道の歴史を確認していきましょう。

Takashi

 現在も営業が続いていることから考えると、伊予鉄道は多くの人々に受け入れられたのですね。

Teacher

 そうなのですが、井上要が著した『伊予鉄道思ひ出ばなし』に面白いエピソードがあります。ちょっと紹介しましょう。

伊予鉄の駅解説にともなう珍騒動

 此線路の起点を湊町西端に決めて工事にかかろうとする頃、湊町の人々は一喜一憂で乗客出入の中心を手近に引寄することとなったのを喜ぶと共に、其乗客が西方の各町に散るを憂ひ、四方開通、集散自由では大に町の繁栄を害するにより、断然松山駅の西面に堤防を築かなければならぬと申合せ、大に問題となった。幸いに夫れは鈴木安職君等の尽力によって漸く鎮静したけれども、一時は中々の騒ぎであった。

『伊予鉄道思ひ出ばなし』 ※ 下線は引用者が加筆
Takashi

 へえ、堤防を築こうとするというのは面白いですね。鉄道というものが一般化されていない頃の人々の捉え方がよく分かります。

Teacher

 そうでしょう。しかし、人々は鉄道の利便性に気付き、大いに利用しました。また、鉄道を自分の地域にも敷設したいと考える人々もどんどん増えていったのです。

路線延長の経緯

Wikipedia「伊予鉄道」から引用
Teacher

 さて、上の図は現在の路線図です。最初に開通したのは三津-松山〔現 松山市駅〕間でした。次に開通したのはどの区間だと思いますか?

Takashi

 う〜ん。普通に考えたら、最初の路線を延長させることを考えますよね。小林信近が鉄道敷設を決意したのは、材木等の運搬の利便性を考えてのことだから…、海の方!三津-高浜間ですか?

Teacher

 その通りです!Takashi君素晴らしい!三津-高浜間が開通したのは、明治25〔1892〕年のことです。

Takashi

 ああ、よかった。ほっとしました。

Teacher

 高浜への延伸について、井上要が『伊予鉄道思ひ出ばなし』の中で次のように回想しています。

高浜へ線路を延伸した理由

 此鉄道は各線とも終点が行詰っている。郡中でも道後でも若くは森松横河原でも、その地勢は此上延長の余地がない。されば何れに向って進展を計るべき乎を考えて、私は海上に向うて其延長を計るの外はないと確信した。

 即ち鉄道の延長と同じように海上の船舶と連絡して交通運輸の便を開くことである而して其接続地点は高浜であらねばならぬ。

『伊予鉄道思ひ出ばなし』 ※ 下線及び太字は引用者が加筆
Teacher

 Takashi君、次の質問です。なぜ高浜なのでしょうか?

① 高浜線

Takashi

 三津よりも高浜の方が、伊予鉄道にとって条件が良かったということですよね。なぜだろう?

Teacher

 高浜付近の地図を見れば、分かりますよ。地図を見ながら考えてみましょう。

Takashi

 確か前回の講義で、三津浜は浅瀬だったために艀を使っていたと言っていましたよね。高浜はその必要がなかったということですか?

【参考】伊予鉄道の歴史① 伊予鉄道の創業と小林信近

Teacher

 それが理由の一つです。当時は船が大型化しつつあり、そのような船が停泊できる港が必要だったのです。まだありますよ。地図をよく見てください。人や貨物を船で運ぶことを考えたら、ものすごく便利なものがすぐそばにあるでしょう?

Takashi

 船で物資等を運搬する際、一番困るのは…、台風や津波によって遭難したり沈没したりすることですよね。そうならないためには…あっ、そうか!興居島か!

Teacher

 その通り!興居島が自然の堤防の役割を果たしてくれるので、高浜の港は台風等の時でもほぼ影響を受けないのです。ですから、風波が高くて三津浜から船を出せない場合は、高浜を港としていたのです。

【参考】『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』〔愛媛県生涯学習センターホームページより〕

Takashi

 なるほど!高浜の方が時代の変化に適っていたということですね。

Teacher

 その通りです。こうして、明治25〔1892〕年5月1日に高浜駅が開業しました。ただし、最初の高浜駅の場所は、現在の駅の場所とは違っていたようです。

Takashi

 えっ!どの辺りに駅があったのですか?

Teacher

 『ニッポン旅マガジン』ホームページに、「明治38年1月10日に駅の位置を北に500m移動させています。」と記載されていますし、『愛媛県史』等にも同様の記述が見られます。

【参考】『ニッポン旅マガジン』ホームページ 高浜駅

Takashi

 現在の駅から500m程南側というのはどの辺りだろう?先生、写真はありますか?

Teacher

 はい。写真と最初の駅の場所を記した地図があります。見てみましょう。

最初に高浜駅があった場所〔推測〕
国土地理院電子国土基本図から作成
Takashi

 ここは四十島の方へ下りていく道の手前ですね。

Teacher

 その通りです。後に高浜港を整備することになり、駅の位置を現在地に移転させたそうですよ。さて、その他の路線について、開通順にみていきましょう。

② 横河原線

Teacher

 次に開通したのは横河原線です。ただし、初めから横河原まで開通したのではなく、当初は外側-平井河原〔現 平井駅〕間で、明治26〔1893〕年のことでした。

外側-平井河原間〔黒色の太線〕 Wikipedia「伊予鉄道」から引用した路線図をもとに作成
Takashi

 先生、外側駅とは何ですか?

Teacher

 松山市駅の当時の名称です。明治22〔1889〕年の市制施行により松山市が誕生した際、松山駅を外側駅、三津口駅を古町駅とそれぞれ改称したのです。これらの駅名は、藩政時代にそれぞれの地域がそう呼ばれていたことに由来します。

Takashi

 なるほど。ではなぜ横河原までさらに延伸したのですか?

Teacher

 実は、高浜線に比べて営業成績が良好でなかったそうです。そのため、業績を好転させるために延伸したんです。

       【参考】『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』

Takashi

 なるほど。こうして現在の横河原線が完成したのですね。

Teacher

 はい、明治32〔1899〕年のことです。以前紹介したことがありますが、この頃に建設されたものが現在でも使用され続けていますよ。

左:伊予鉄道煉瓦橋 右:石手川橋梁

【参考】正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう!石手川堤へ③

③ 森松線

Teacher

 森松線の開通は明治29〔1896〕年のことです。もともとは沿線有志によって計画されていたものですが、資金難等の事情が重なり、伊予鉄道が引き継いだのです。横河原線の立花駅〔現 いよ立花駅〕から延伸しました。

森松線〔黒色の太線〕 Wikipedia「伊予鉄道」から引用した路線図をもとに作成
Teacher

 石井駅は椿神社の鳥居付近に設置され、椿まつりの際には臨時便が出されるなど、大盛況だったそうです。

Takashi

 先生、今は森松線はありませんよね。なぜ廃線となってしまったのですか?

Teacher

 営業成績の悪化によるもので、昭和40〔1865〕年のことでした。これは、自動車の普及と国道33号沿いの急激な住宅地化が理由だといわれています。

      【参考】『愛媛県史 社会経済3 商工』森松線の廃止

Takashi

 そうですか…、残念ですね。

④ 郡中線

Teacher

 郡中線の開通は明治33〔1900〕年のことです。もともとは、郡中〔現伊予市〕の有力者が発起人となり、明治29〔1896〕年に開業していた「南予鉄道」の路線でした。

郡中線〔黒色の太線〕 Wikipedia「伊予鉄道」から引用した路線図をもとに作成
Takashi

 先生、南予鉄道について教えてください。

Teacher

 『愛媛県史 近代 上』に詳細が記載されています。引用しましょう。

南予鉄道について

 道後鉄道会社に続いて、明治二七年一月、南予鉄道会社が設立された。これより先、すでに明治二三年、伊予鉄道は松山~郡中(ぐんちゅう)間の鉄道開通を計画したが、郡中方面における資金募集がまとまらなかったこと、また重信川鉄橋の難工事が予想されたことなどのため、計画は実現をみなかった。南予鉄道会社は、この伊予鉄道による敷設計画及び測量結果をそのまま引き継ぐ形で設立されたものである。

 同社による松山~郡中間鉄道敷設は明治二七年一月四日政府より認可を受け、同日伊予郡郡中町(現伊予市)に仮事務所を開設した。設立の中心となったのは伊予郡地方の資本家たちで、専務取締役には宮内治三郎が就任、発足時における資本金は九万五、〇〇〇円であった。

 南予鉄道も、伊予鉄道と同じく軌間二フィート六インチの軽便鉄道であった。明治二七年四月より工事に着手、重信川架橋は難工事であったが、同二九年四月に至ってようやくすべての工事が完成し、同年七月四日より営業を開始した。区間は、伊予鉄道外側駅付近を起点とし、雄群(おぐり)村・余土村(ともに現松山市)を経て重信川を渡り、岡田村・松前村(ともに現松前町)を経由し郡中町に達するもので、約六マイル半(一〇・八キロメートル)であった

 この南予鉄道会社は、その名前通り、将来は県都松山と南予地方との鉄道連絡を実現するとの遠大な意図を持っていた。そのため、まだ松山~郡中間の工事中である明治二八年一二月の臨時株主総会において八幡浜までの線路延長を決議、その仮免状は同三〇年二月に下付された。そして、翌三一年上半期中にはその測量を終了したが、資金調達が進まないまま工事着工には至らず、やがて、後述の伊予鉄道との合併を迎えることとなった。

 営業成績は、開業直後の明治二九年下半期の配当率が五分、以後は六~九分の配当率を維持し、良好な状況が続いた。

 なお、南予鉄道会社は、伊予郡を中心とする出資者によって設立されたものであるが、建設工事の進展とともに資金の不足をきたすようになり、やがて第七十九銀行頭取古畑寅造の出資を仰ぐに至った。そして、明治三一年古畑が社長に選任され、古畑はすでに就任していた道後鉄道社長と共に南予鉄道社長をも兼ねることとなった。以後、古畑の経営のもとに、明治三三年の伊予鉄道との合併に至った。

『愛媛県史 近代 上』 ※ 下線及び太字は引用者による
Takashi

 なるほど。当時の人々の鉄道敷設への熱意がものすごく感じられます。

Teacher

 こうして、南予鉄道の路線は郡中線としてそのまま使用されることになったのです。また、伊佐庭如矢が敷設した道後鉄道も、この時伊予鉄道と合併しています。

      【参考】正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう!道後湯之町へ①

Teacher

 ちなみに、明治33年の開業当時、郡中線には余戸駅・松前駅・郡中駅の3駅のみでした。沿線の開発や宅地造成など時代の変化に合わせて次々と駅が新設されていきました。地図中に開設年を記しましたので、確認しましょう。

郡中線各駅の開設年 Wikipedia「伊予鉄道」から引用した路線図をもとに作成
Takashi

 地図を見ていると、どの時期にどの辺りが開発されていったのかまで分かりますね!

Teacher

 以上が、郊外線を中心とした路線延長のあゆみです。松山市内線については別の機会に紹介しますね。

Takashi

 はい。楽しみにしています。

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