ミニベロでサイクリング 廃線跡をゆく!③ 愛媛鉄道の廃線跡
Act.1 愛媛鉄道の歴史
【郡中〔現伊予市〕の人々による企画】
安政4年~明治39年(1857~1906)南予鉄道会社創設者・衆議院議員。安政4年10月26日、伊予郡郡中灘町(現伊予市)の酒造家に生まれた。町の有志と計って明治19年郡中銀行を設立し、のち頭取に就任した。 22年1月県会議員になり、25年3月再選されて副議長に選ばれ27年4月まで務めた。 27年9月第4回衆議院議員選挙で第1区から自由党公認で立ち当選、1期在任した。27年1月には南予鉄道会社を設立して社長になり、29年7月郡中一藤原駅(現松山市駅)間11キロを開通させた。また同年肱川汽船会社を誘致して伊予汽船会社を開業した。明治39年2月13日、48歳で没した。
『愛媛県史 人物』
【西予電気軌道から西予軽便鉄道へ】
[西予軽便鉄道の概要]
- 資本金200万円に減額
- 蒸気動力による鉄道。軌間は1,067mm
- 区間・経路:西予電気軌道時代の計画路線郡中-八幡浜に八幡浜-喜須来間1.6kmを追加
【愛媛鉄道として開業へ】
[愛媛鉄道の概要]
- 建設費削減のため、軌間762mmの軽便ゲージを採用
- 敷設経路:伊予灘沿いで長浜経由による海岸ルートを基準とする
[開業へ]
- 大正5〔1916〕年3月 2日 許可 → 長浜町で起工式を挙行
- 大正5〔1916〕年6月20日 工事開始
- 大正7〔1918〕年2月14日 長浜ー大洲間開業
- 大正9〔1920〕年5月 1日 大洲-内子間開業
【愛媛鉄道の終焉】
紆余曲折を経て開通した愛媛鉄道ですが、宇和島鉄道と同様に国鉄予讃線の延伸計画に組み入れられ、昭和8〔1933〕年10月1日に国鉄に買収されてしまいました。この理由は、端的にいえば経営不振です。第一次世界大戦終結後から始まる経済恐慌も経営状態の悪化に拍車をかけました。『愛媛県史』の記述を引用しましょう。
経営不振の背景
営業収入は年を経て増加していったが、業績はかんばしくなく営業係数も悪化の傾向をたどり、政府から建設費に対して年五分の補助金を開通後一〇年間支給され、また県費による補助金を受け、どうにか営業継続が可能な状態であった。このように愛媛鉄道は喜多郡の重要な交通機関でありながら、沿線に大都市がない関係上、旅客・貨物の移動が少なく、昭和初期の不況下、経営的に苦境に追い込まれていた。
『愛媛県史 社会経済3 商工』 ※ 下線及び太字は引用者による
Act.2 愛媛鉄道の廃線跡をゆく
今回走ったのは、昭和10〔1935〕年10月に762mmから1,067mm軌間に路線を改軌した際、工費がかかりすぎるという理由で廃棄されたトンネルを含む春賀駅から大洲市米津までの廃線跡です。この区間を地図で示してみましたのでご覧ください。
和田隧道については昭和62年7月31日に拡幅工事が行われ、「春賀トンネル」と改称して自動車2台分が往来できるようになりましたが、八多喜隧道と河内隧道はほぼ当時の姿のままで残されています。また、橋脚や築堤も部分的に残されていて、愛媛鉄道時代の風景を想起できます。それでは動画をご覧ください〔約9分〕。
いかがでしたか。ぜひ現地を訪れて実際に走ってみてください。なかなか運動になりますよ。過去投稿した記事を添付しておきますので、お時間があります時にご一読ください。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。
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