正岡子規『散策集』はキセキの書!
「シリーズ 愛媛にゆかりのある人物」第3回は、正岡子規〔1867〜1902〕を紹介します。明治28年、子規は仲間とともに松山市内外で吟行を行い、その記録に『散策集』という題を付けました。
正岡子規のことは知っているけど、『散策集』は初めて聞きました。
そうですか。私は『散策集』は“奇跡の書”だと思っています。
それはどういう意味でですか?
『散策集』は存在そのものが奇跡ですし、明治28年頃の松山の様子だけでなく子規たちが歩いた道も分かるからです。
存在そのものが奇跡!どういうことか教えてください。
分かりました。では、明治28年の正岡子規についてまとめた年表を見てください。
明治28年の子規
- 3月 日清戦争への従軍が決まる。 ※ 子規自身が記者として取材を希望。
- 4月 朝鮮半島へ出発。『陣中日記』を書き始める。 ※ 金州で森鴎外を訪ねる。
- 〃 日本へ帰る途中、船中で喀血
- 5月 神戸病院に入院、重体に陥る。
- 7月 一命をとりとめ、須磨で静養。
- 8月 退院し、松山に戻る〔25日〕。
- 〃 夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)に移る〔27日〕。
- 10月 東京へ帰る。 ※ 松山出発は19日。
8月から10月まで正岡子規が松山にいたのですね。でもどういう経緯で松山に帰省したのですか?
当時、松山中学校の英語教師として赴任していた夏目漱石が子規に書簡を送り、俳句を学びたいので教えて欲しいと頼んだのです。
愚陀仏庵跡〔松山市二番町〕の現況
※ 今は有料駐車場として活用され、石碑と解説版が建てられています。
松山中学校跡〔松山市一番町〕の現況
※ 今はNTT西日本 愛媛支店になっています。
確か正岡子規と夏目漱石は友人でしたよね。
その通りです。漱石は後年、作品の中で次のように記述しています。
子規来松後の様子
僕は二階に居る大将は下に居る。其うち松山中学の俳句を遣る門下生が集まつて来る。僕が学校から帰つて見ると毎日のやうに多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本も読む方でも無かつたが兎に角自分の時間といふものが無いのだから止むを得ず俳句を作つた。其から大将は昼になると蒲焼きを取り寄せて御承知の通りぴちやぴちやと音をさせて食歩。其れも相談無く自分で勝手に命じて勝手に食ふ。〔以下略〕
夏目漱石著『正岡子規』より
愚陀仏庵に多くの人が集まったのですね。どんな人がいたのですか?
高浜虚子、川東碧梧桐、柳原極堂。そして松山高等小学校の先生である中村愛松、野間叟柳ら松風会員の方々などです。
松山市立高等小学校跡と記された標注
※ 現在、同地は松山市立番町小学校となっています。
国語の授業で学んだことのある人の名前がたくさん出てきましたね!
愚陀仏庵にて句会を催しながら、子規は松山近郊に前後5回の散歩吟行を試みました。その紀行句集が『散策集』です。二つ折り半紙に筆書して一冊に綴ったものだったそうです。
よく分かりました。でも、『散策集』の存在そのものが奇跡というのはどういうことですか?
はい。『散策集』が世に出たのは昭和8年のことで、書かれてから38年後でした。
えっ、どうしてそんなことになったのですか?
松山市教育委員会が発刊している『子規遺稿 散策集』に理由が書かれていますよ。
『散策集』の発表が遅れた理由
たまたま愚陀仏庵を訪れた少年時代からの友人近藤我観が之を借覧し、子規帰京後もそのまま同家にとめ置かれて門外に出なかった。そのため子規全集にも収録されることなく、三十数年を空しく筐底〔きょうてい。箱の底のこと。〕に埋もれていた。
『子規遺稿 散策集』から引用
借りたまま返していなかったのですね。では、昭和8年に世に出た経緯を教えてください。
先述の『子規遺稿 散策集』の記述を見てみましょう。
昭和8年『散策集』発表
昭和8年6月、当時東京に在住していた柳原極堂が松山に帰省し、一日、我観の病床を見舞ったところ、談はしなくともこのことに及んだことから、その存在がわかった。極堂はよろこんでその筆写を求め、同年9月その主宰する俳句雑誌『雞頭』の第2巻第9号、子規号誌上に公表し、はじめて世に出るに至ったものである。
『子規遺稿 散策集』から引用
まさに奇跡ですね!この話がなければ『散策集』は世に出なかったかもしれませんね。原本はどこにありますか?
残念ながら現存していません。
えっ、どういうことですか?
『子規遺稿 散策集』の記述に戻りましょう。
『散策集』焼失
近藤家では爾来原本を大切に保存していたが、戦争中に被災をおそれて他へ疎開したところ、昭和20年7月の松山空襲に際し、かえって疎開先が被災し、『散策集』原本は惜しくも焼失してしまった。
『子規遺稿 散策集』から引用
本当に残念ですね。でも柳原極堂が『雛頭』に掲載したからこそ今に伝えられたのですね。
その通りです。いくつかの奇跡が繋がったおかげで、私たちは『散策集』読むことができます。では、『散策集』に記された子規たちの吟行ルートを確認していきましょうか。
はい、お願いします。
[つづく…]
『散策集』吟行ルート
- 9月20日 石手・道後方面へ … 柳原極堂とともに
- 9月21日 御幸寺山麓へ … 柳原極堂、中村愛松、大島梅屋とともに
- 10月2日 中の川、石手川堤へ … 子規ひとりで
- 10月6日 道後湯之町へ … 夏目漱石とともに
- 10月7日 雄郡・今出・余戸へ … 子規ひとりで村上霽月を訪れる
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