伊予鉄道の歴史① 伊予鉄道の創業と小林信近
今回から、伊予鉄道の歴史をみていきます。
僕もよく利用するので、楽しみです。
では、最初の質問です。伊予鉄道の路線の中で、最初に開通した区間はどこからどこまででしょうか?下の路線図を参考にして、答えてください。
ええと、分からないな。先生、ヒントはありませんか?
現在の松山市駅から、明治時代に松山の海の玄関だったところまでです。
海の玄関?では、松山市駅から高浜まででしょうか?
残念!正解は現在の松山市駅から三津までです。松山市三津浜支所付近の交差点に、汽船乗り場跡の標柱が建てられていますよ。
本当だ。ではこの標柱から西側は海だったということですね。
はい。砂浜が広がり、浅瀬であったので、沖の方に停泊させた船には艀〔はしけ〕に乗って乗船していました。
そうなんだ。
ちなみに、「松山市駅」は、伊予鉄道開通時「松山駅」という名称でしたよ。
えっ?なぜ今は「松山市駅」に変わっているのですか?
はい。昭和2〔1927〕年に国鉄松山駅〔現 JR松山駅〕がまで開通した際、伊予鉄道が国鉄に駅の名称を譲ったのです。
なるほど。そういう事情があったのですね。
① 小林信近は、なぜ松山に鉄道を敷設しようと考えたか?
さて、「伊予鉄道の歴史」第1回は、小林信近〔1842〜1918〕による伊予鉄道の創業をテーマとします。まずは、彼の略歴を確認しますね。
1842年 松山藩士の家に誕生
1860年 松平定昭の小姓となる
1873年 陶器製造業を始める。
1876年 牛行舎の社長となる。
1877年 松山米商会を設立
1878年 第五十二銀行創立。
1882年 松山商法会議所設立。
1883年 海南新聞社社長となる。
1887年 伊予鉄道会社設立。
1892年 高浜桟橋会社創立。
1901年 伊予水力電気株式会社創立。
明治3〔1871〕年の廃藩置県以降、さまざまな事業を興していますね。
はい。現在でも営業が続いている会社がたくさんありますよ。列挙してみましょう。
- 第五十二銀行 = 伊予銀行
- 松山商法会議所 = 松山商工会議所
- 海南新聞 = 愛媛新聞
- 伊予水力電気株式会社 = 四国電力
三番町にある第五十二銀行跡地の碑は以前確認しましたね。
【参考】正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう! 石手川堤へ①
そうでしたね。Takashi君、二つ目の質問です。小林信近が松山に鉄道を敷設しようとした理由は何だと思いますか?
伊佐庭如矢が道後鉄道を敷設したように、やはり松山の経済発展を考えたのだと思います。
その通り。鉄道敷設の理由について、小林信近が著書『信近創設五大事業記』に次のように記しています。
鉄道敷設の理由
明治16年より17年に跨り、神戸鉄道局の用材調達を請負い、久しく大阪に滞在して阪神間の汽車旅行をなしたる為、大いに鉄道事業の趣味を感じ、熟々考うれば世人多くは鉄道事業は専ら官営に属し、民業として企て及ばざるものの如く観念すれ共、これを私設として経営し、わが愛媛県の如き道路不完全の地に応用し、運輸交通の便を開かば産業の発達は勿論、人文開発の一大捷路〔しょうろ。近道の意。〕ならんと起業熱を発し…(後略)
『信近創設五大事業記』 ※ 注釈及び下線は引用者が加筆
小林信近は実際に鉄道を利用していたのですね。用材調達とはどういうことですか?
鉄道の枕木等に利用するための材木を現在の久万高原町で切り出し、三津浜から大阪方面へ出荷していたのですよ。
なるほど。でも「道路不完全の地」と書いているくらいですから、運搬に関してかなり悩んでいたのですね。
そのようです。三津浜小学校が刊行した『創立九十周年記念誌 みつはま』に「明治百年 歴史の証言台」と題した記事が掲載されていて、その中に当時の松山の道路事情が記されています。
当時の道路事情Ⅰ
小林は明治六年ごろから上浮穴杣川の官有桧林三百町あまりの払い下げを受け、製材して大阪方面に積み出していたが、松山-三津浜間わずか一里(四キロ)あまりの運賃が、三津-大阪間百里の海上運賃よりはるかに高くつくため輸送方法の改革を思いめぐらせていた。
『創立九十周年記念誌 みつはま』 ※ 太字は引用者による
えっ、たった4kmの運賃が三津-大阪間の運賃よりも高かったのですか?どうして?
伊予鉄道の社長も務めた井上要が、著書『伊予鉄道思い出ばなし』の中でこのことにふれています。
当時の道路事情Ⅱ
殊に一路坦々たる松山より三津浜までの僅々一里半は道路凹凸、殊に雨後には泥濘を極めて…。
『伊予鉄道思い出ばなし』 ※ 太字は筆者による
なるほど。本当に運搬には不便だったのですね。
はい。特に、現在高浜線西衣山駅がある辺りが悪路であったようですね。
そうか。この辺りは谷だから「雨後の泥濘」という状態になりやすかったのですね。
その通りです。ここで、小林信近が松山に鉄道を敷設しようとした理由をまとめましょう。
- 鉄道の利便性を理解していた。
- 道路事情が劣悪であった。
- 三津-大阪間の海上運賃よりも、松山-三津間の運搬費の方が高額だった。
② 伊予鉄道開業へ
小林信近は、鉄道敷設に向けて本格的に活動を開始します。年表にしてみましょう。
- 明治18〔1885〕年 6月 目論見書その他必要な書類を鉄道局へ提出 → 却下されるも、上京して鉄道局に出頭
- 明治19〔1886〕年12月 鉄道局が開業を認可
- 明治20〔1887〕年 9月14日 伊予鉄道会社 設立
却下されるとすぐに上京するというのは、凄い行動力ですね!
そうですね。でも、会社を設立したものの、小林信近は別の問題に直面します。
鉄道等の建設資金ですね。
はい。この時の状況について、『創立九十周年記念誌 みつはま』掲載の記事に次のように記載されています。
当時の道路事情Ⅰ
「営業期間は満十七年、満期のときは鉄道はみなとりはずし、土地、家屋とも原形に復してもとの所有者に返せ、営業保証として、軌材、鉄器(レール、汽関車のことか)諸車、諸道具、停車場、倉庫、付属のたてもの、敷き地ともに当地に差し出しておけ」というのが許可条件、資本金は四万円。政府から士族に給付される授産金が目あてで一株五円、一般からは一株十円でつのったが、期限内に払い込まれた株式は五円株がわずかに二十株、あてにしていた授産金は士族のふところからは出てこない。二十株のうち十株は井上要のものだった。海南新聞の主筆白川福儀すら「花火のようなものだ。長くは続くまい」とみていた程度だから企業としての将来を信じる投資家はいない。
『創立九十周年記念誌 みつはま』 ※ 太字は引用者による
全然足りないじゃないですか!どのようにして開業までこぎつけたのですか?
明治20〔1887〕年、愛媛県知事に就任した藤村紫朗が五十株分を購入してくれたことで出資者を集めることができたのです。
【参考】Wikipedia 藤村紫朗
よかった!
こうして、明治21〔1888〕年10月28日、三津-松山間の軽便鉄道として伊予鉄道が開業しました。開業当初のデータをいかにまとめておきます。
- ドイツ・ミュンヘンのクラウス社製汽関車及び貨車を購入
- 全国で3番目の民営鉄道
- 日本初の軽便鉄道
- 一両辺り定員12〜16人
- 運賃3銭5厘
- 松山-三津間約28分
この時購入した1号汽関車の現物が梅津寺公園に、客車が正宗寺の子規堂前にそれぞれ展示されていますから、見に行ってみてください。
はい。行ってみます。