ミニベロでサイクリング 廃線跡をゆく!③ 愛媛鉄道の廃線跡

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 「ミニベロ」とは、タイヤが小さめで比較的コンパクトな形状の自転車のことです。地域調査を行う際、自動車では移動が困難な場所を巡るために購入しました。私の愛車はこれです。

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 折り畳むと非常にコンパクトになるので自動車に積んでいても邪魔になりませんし、iPhoneなどのスマートフォンやその他撮影機材を装着すれば、簡単に車載動画を撮影することができます。本テーマではミニベロを駆使して撮影した車載動画をご覧いただきます。第3回目は、大洲-長浜間を結んだ愛媛鉄道の廃線跡〔大洲市〕です。

Act.1 愛媛鉄道の歴史

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 まず初めに愛媛鉄道の歴史を確認しておきましょう。大洲-長浜間の開業までかなり紆余曲折をたどっています。

【郡中〔現伊予市〕の人々による企画】

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 南予へ鉄道を敷設しようという最初の動きは、明治27〔1894〕年にさかのぼります。郡中〔現伊予市〕の有力者、宮内治三郎らが企画した南予鉄道〔明治29〜33年、現 伊予鉄道郡中線〕です。なお、宮内治三郎の祖先は郡中町を創業した宮内九右衛門・清兵衛兄弟で、一族にはその主家が「ミュゼ灘屋」として活用されている宮内小三郎がいます。

宮内小三郎家主屋 ※ 伊能忠敬の測量隊が宿泊したことでも知られています
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 宮内治三郎らは南予鉄道開業に先立ち、明治28〔1895〕年12月に郡中-八幡浜間を企画し、出願しています。軍中の有力者、宮内治三郎とはどんな人物なのでしょうか。

 安政4年~明治39年(1857~1906)南予鉄道会社創設者・衆議院議員。安政4年10月26日、伊予郡郡中灘町(現伊予市)の酒造家に生まれた。町の有志と計って明治19年郡中銀行を設立し、のち頭取に就任した。 22年1月県会議員になり、25年3月再選されて副議長に選ばれ27年4月まで務めた。 27年9月第4回衆議院議員選挙で第1区から自由党公認で立ち当選、1期在任した。27年1月には南予鉄道会社を設立して社長になり、29年7月郡中一藤原駅(現松山市駅)間11キロを開通させた。また同年肱川汽船会社を誘致して伊予汽船会社を開業した。明治39年2月13日、48歳で没した。

『愛媛県史 人物』
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 数々の事業に携わった人物なのですね。明治33〔1900〕年3月に仮免状を受け測量に取り掛かりましたが、当時の鉄道敷設技術からすれば南予の地形はあまりにも複雑すぎ、実現には至りませんでした。

【西予電気軌道から西予軽便鉄道へ】

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 次に計画したのは神戸の曽根正命らで、松山在住の政治家・清水隆徳が代表となり、明治43〔1910〕年6月、資本金400万円で伊予鉄道の終点である郡中駅から八幡浜に至る全長65.5kmの電気軌道の敷設を請願しました。「西予電気軌道」です。

西予電気軌道の計画路線 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
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 付帯事業として沿線の住民に電力を供給することが織り込まれ、発起人には伊予鉄道の井上要伊予水力電気の才賀藤吉も参画しました。

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 しかし、当時の知識では電気軌道は直接道路に敷設し、長距離の都市間輸送ではなく近距離の都市内輸送が常識であったため、鉄道院は軽便鉄道への変更を指示しました。そこで明治44〔1911〕年5月、軽便鉄道法に基づき計画内容を修正、「西予軽便鉄道」と改称することにしました。

[西予軽便鉄道の概要]

  • 資本金200万円に減額
  • 蒸気動力による鉄道。軌間は1,067mm
  • 区間・経路:西予電気軌道時代の計画路線郡中-八幡浜に八幡浜-喜須来間1.6kmを追加

【愛媛鉄道として開業へ】

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 軽便鉄道法による許可を明治44〔1911〕年6月28日付で鉄道院から得て、大正元〔1912〕年に「愛媛鉄道」と社名を改称しました。しかし、資金難のために資本金を100万円に減額しただけでなく、経済界の不況により株式募集や株金払い込みが進展しなかったため、工事施工許可申請期限を再三にわたり延期するありさまでした。結果、鉄道院の行政指導が入り、計画変更が行われます。概要は次の通りです。

[愛媛鉄道の概要]

  • 建設費削減のため、軌間762mmの軽便ゲージを採用
  • 敷設経路:伊予灘沿いで長浜経由による海岸ルートを基準とする
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 こうして、とりあえず工事の容易な肱川流域、長浜ー大洲間14.6km大洲ー内子間9.7kmの二線を建設し、郡中ー長浜間及び大洲ー八幡浜間は将来の計画線としました。

[開業へ]

  • 大正5〔1916〕年3月 2日 許可 → 長浜町で起工式を挙行
  • 大正5〔1916〕年6月20日 工事開始
  • 大正7〔1918〕年2月14日 長浜ー大洲間開業
  • 大正9〔1920〕年5月 1日 大洲-内子間開業

【愛媛鉄道の終焉】

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 下の地図は愛媛鉄道の路線を図示したものです。ご覧ください。

愛媛鉄道路線略図 ※『愛媛県史 社会経済3 商工』から引用
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 紆余曲折を経て開通した愛媛鉄道ですが、宇和島鉄道と同様に国鉄予讃線の延伸計画に組み入れられ、昭和8〔1933〕年10月1日に国鉄に買収されてしまいました。この理由は、端的にいえば経営不振です。第一次世界大戦終結後から始まる経済恐慌も経営状態の悪化に拍車をかけました。『愛媛県史』の記述を引用しましょう。

経営不振の背景

 営業収入は年を経て増加していったが、業績はかんばしくなく営業係数も悪化の傾向をたどり、政府から建設費に対して年五分の補助金を開通後一〇年間支給され、また県費による補助金を受け、どうにか営業継続が可能な状態であった。このように愛媛鉄道は喜多郡の重要な交通機関でありながら、沿線に大都市がない関係上、旅客・貨物の移動が少なく、昭和初期の不況下、経営的に苦境に追い込まれていた。

『愛媛県史 社会経済3 商工』 ※ 下線及び太字は引用者による

Act.2 愛媛鉄道の廃線跡をゆく

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 今回走ったのは、昭和10〔1935〕年10月に762mmから1,067mm軌間に路線を改軌した際、工費がかかりすぎるという理由で廃棄されたトンネルを含む春賀駅から大洲市米津までの廃線跡です。この区間を地図で示してみましたのでご覧ください。

愛媛鉄道の路線〔伊予白滝-春賀間〕 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
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 和田隧道については昭和62年7月31日に拡幅工事が行われ、「春賀トンネル」と改称して自動車2台分が往来できるようになりましたが、八多喜隧道と河内隧道はほぼ当時の姿のままで残されています。また、橋脚や築堤も部分的に残されていて、愛媛鉄道時代の風景を想起できます。それでは動画をご覧ください〔約9分〕。

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 いかがでしたか。ぜひ現地を訪れて実際に走ってみてください。なかなか運動になりますよ。過去投稿した記事を添付しておきますので、お時間があります時にご一読ください。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。


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