「砂土手」跡を探訪しよう!
今回は、松山城の東側に築造された「砂土手」の跡をたどりましょう。
「砂土手」と言えば、「正岡子規『散策集』の吟行の道をたどろう!」で紹介されていましたよね。
はい。明治28年9月20日、柳原極堂とともに石手寺・道後方面を訪れた際に砂土手跡を通過し、子規は俳句を2句詠んでいます。
砂土手や 山をかざして 櫨紅葉
砂土手や 西日をうけて 蕎麦の花
そうでした。確か「加藤嘉明が松山城を築城する際に城の防衛のために築かせた土塁」だと伺ったのですが、現在のどの辺りにあったのですか?
松山市教育委員会が東雲公園に設置した解説板に古地図が掲載されています。見てみましょう。
東雲公園が松山城の外堀の一部だったとは!堀を掘った土を積み上げて造った土塁のことを「砂土手」というのですね。現在のどの辺りにあったのだろう?
都市開発が進んだことで分かりにくくなってしまっていますが、市内にはその跡だと分かるところが随所にあるんです。これからそれを紹介していきますね。
分かりました!
Part.1 砂土手と堀の位置を現在の地図に当てはめよう!
現在の地図に砂土手と堀の位置を記してみました。Erikoさん、上の古地図と比較してみてください。
砂土手と堀の位置(Apple Mapから作成)
東雲公園の周囲の道はクランクの形をしていますが、堀の跡だったのですね!それと砂土手と堀が切れているところがありますが、その場所は現在の勝山通り〔県道20号〕と同じですね。
その通りです。勝山通りを越えて中予地方局中予教育事務所付近まで堀と砂土手が続いています。東端辺りの道路をよく見てください。どうですか?
クランクの形になっている道や、弧状の道がありますね。これらもその跡なんですか?
そうです。その辺りから南に向きを変え、松山東高校の西側、さらに松山商業高校の東側へと続いていたようです。
なるほど。
それでは次に、「砂土手」跡地の変遷を時代ごとに確認しましょう。「今昔マップ on the web」を活用すれば次の時代の地図と現在の地図とを比較することができます。Erikoさん、サイトを開いて確認してください。
①1903年
②1928〜1955年
③1966〜1968年
④1985年
⑤1998〜1999年
【参考】今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト
これはすごい。堀や土塁があった場所が宅地開発されていく様子がよく分かりますね。
そうでしょう。では、現地の状況を写真で確認していきます。高低差や道の走り方などに注目してください。
はい。
Part.2 写真でたどる砂土手跡の現況
下の地図を見てください。これは、先ほど見てもらった「砂土手と堀の位置」の地図に番号を追加したものです。
砂土手と堀の位置(Apple Mapから作成)
砂土手と堀の跡だと分かる場所が9ヶ所もあるのですか?
そうです。それでは順番に見ていきましょう。
① 六角堂常楽寺
登下校の際、この場所の前を通ります!砂土手の上に建てられているとは知りませんでした。
常楽寺は当初、松山城の山腹に祀られていましたが、1625年頃に当時の松山藩主加藤嘉明によって現在の場所に移されました。砂土手の工事は1615〔元和元〕年に中止されていますから、工事中止から約10年後ということになりますね。
常楽寺の確認ポイントはどこですか?
常楽寺の北及び北西にあった堀の方向を見ると、高低差を確認できます。写真を見てみましょう。
奥に見えるのは東雲公園ですよね。常楽寺と東雲公園の高低差がすごい!
ちなみに東雲公園側から常楽寺方向を見てみると、その高低差がもっとはっきり分かります。
すごい高低差ですね。
そうでしょう!ちなみに常楽寺の入り口付近に「砂土手」と記された額が架けられています。
② 六角堂常楽寺南側の道
この写真は勝山通りから西向きに撮影したもので、この通りを真っ直ぐ進むと東雲神社前に出ます。
この道路も砂土手跡なのですか?
そうです。この写真の場所から西へ少し進むと、高低差が確認できます。写真を見てください。
下り坂になっていますね。
次は東雲公園付近を見てみましょう。高低差が一番よく確認できるポイントです。
③ 東雲公園付近の道
公園に入らずに右に進むと、高低差がよく分かります。写真で確認しましょう。
道路に対して建物の1階の位置が高いですね!
そうでしょう。最後の写真は六時屋裏〔東雲公園側〕を撮影したものです。自動車が駐車しているところは地下1階になります。ここもかつて堀だった名残なんですよ。さあ、勝山通りから東へ、砂土手跡を巡りましょう。
④ 勝山通りから東へ
勝山通りから東向きに撮影しました。通りの向こうの道は若干下り坂になっていますね。勝山通りの向こう側は、かつて松山城の外堀が続いていました。それでは次に、砂土手の東端付近の曲線道路を見てみましょう。
⑤ 北持田町に見られる砂土手跡
砂土手と堀の位置(Apple Mapから作成)
地図「砂土手と堀の位置」をもう一度見てみましょう。次の写真は⑤番の位置で撮影したものです。
地図と同じように道が曲がっていますね。そして左側の住居の1階が高くなっている!
Erikoさん、よく気付きました。この住居は砂土手がここにあったことの証です。同じ場所で西向きに撮影した写真を見てください。
右側の道路も曲がっていますね。この道路が上の写真の道に繋がるのですか?
そうです。東雲公園付近から築造された土塁〔=砂土手〕はこの辺りまで続き、南へ向きを変えたのです。
ということは、二つの道路に挟まれたところにある住居も砂土手跡と考えられますね。
そう言えますね。さあ、次は南北に続いた砂土手跡を見ていきます。こちらも高低差を確認することができますよ。
⑥ 松山地方気象台付近に見られる砂土手跡
松山地方気象台といえば、愛媛県内の気象観測や地震の観測など気象全般の業務を行っているところですね。
さすがErikoさん、詳しいですね。正門付近に解説板がありますので、確認しておきましょう。
【参考】松山地方気象台ホームページ
どの辺りが砂土手跡なのですか?
地図「砂土手と堀の位置」に松山地方気象台の名称を加えてみましょう。
砂土手と堀の位置(Apple Mapから作成)
松山地方気象台の東側に砂土手があったのですね。
はい。松山地方気象台の南側にあるマンション付近に高低差を確認できる場所があるのです。次の写真を見てください。
この写真のどこに注目すればよいですか?
マンションの左側に連なる住居の1階部分とマンションの駐車場の高低差に注目してください。
あっ、マンションの駐車場の位置が低いですね。
その通り。マンションの左側に連なる住居は砂土手跡に建てられたものです。そしてこれらの住居に沿って南へ進むと、松山東高校の西側に至ります。
⑦ 徳力川の暗渠
ここで徳力川について触れておきましょう。松山東高校グラウンドの北側にある水路がそれで、暗渠になってグラウンドの地下を流れ、松山東高の西側へ続きます。この川は、昔の石手川の流路だったのではないかと言われています。
先生、この川と砂土手にどんな関係があるのですか?
『温泉郡地図 地誌付』(制作年不明)を見ると、砂土手の東側にいくつか堀が描かれていて、そのうちの一つ砂溜北堀に向かって斜めに流れているのです。
【参考】愛媛県立図書館デジタルアーカイブス『温泉郡地図 地誌付』(伊予史談会所蔵)
図書資料掲載等申請書 整理番号276062346503
本当だ。地図に描かれている斜めの流路がこの写真と同じ場所なのですね。
そう考えてよいと思います。グラウンドの下を流れる川が再び現れる所を確認しましょう。
本当だ。
徳力川は南方へ流れ、中ノ川に合流します。
言われなければ分からないけど、ここも松山の歴史を感じることができるスポットですね。
そうですね。徳力川の西側にはかつて砂土手がありました。高低差を確認することができる場所がすぐ近くにありますから、見てみましょう。
はい。
⑧ 松山東高校西側に見られる砂土手跡
砂土手と堀の位置(Apple Mapから作成)
もう一度地図「砂土手と堀の位置」を見てみましょう。これから紹介するのは⑧番の現況です。
この場所の高低差はどうなっているんだろう?
写真で確認しましょう。
道路の左側が下り坂になっている!
はい。この道路から右側が砂土手跡です。この坂を降りてみましょう。
右側の住居が左側のマンションよりも高い位置にありますね。
そうでしょう。この住居の列は、松山地方気象台のところで紹介した住居に繋がっているんですよ。
なるほど。
砂土手はここからさらに松山商業高校の東側へと続いたのです。
⑨ 松山商業高校東側に見られる砂土手跡
写真の中央奥に見えるネットは松山商業高校のものです。ネットから東側が砂土手跡ですが、宅地開発が進んでいるために跡だとは全く分かりませんね。
そうですね。
伊予史談会の柚山先生によれば、松山商業高校のグラウンドは周囲の土地よりも低い位置にあるそうです。また、昭和48〔1973〕年3月29日に敷地の南側に新設された校舎は土地が高い所に建設されたので「高台教棟」と呼んでいるそうですよ。
松山商業高校の中も探検してみたいですね。
今回のテーマ『「砂土手」跡を探訪しよう!』は、令和6年11月23日(土)に開催されたイベント「おとなの散歩道」(松山市文化創造支援協議会主催)で御教授いただいた内容をもとにまとめました。講師を務められた伊予史談会副会長 柚山俊夫先生には大変お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。
【「もっと知りたい!参考サイト】
◯ 愛媛県歴史文化博物館Blog -村上節太郎写真31 念斎堀