道後湯之町初代町長 伊佐庭如矢の集客戦略に学ぼう!①

Teacher

 「シリーズ 愛媛にゆかりのある人物」第4回は、道後湯之町初代町長 伊佐庭如矢〔いさにわ ゆきや 1828〜1907〕を紹介します。

Eriko

 正岡子規『散策集』のところで登場した人物ですね。道後温泉本館を現在の形に改築した人です。

【参考】正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう! 道後湯之町へ①

Teacher

 その通りです。彼が残した数々の業績は、どのようにすれば地域の歴史遺産を活用できるかを教えてくれます。一つ一つ確認していきましょう。

Eriko

 はい、よろしくお願いします。

白鷺のオブジェはなぜ入り口の方を向いていない?

Teacher

 Erikoさん、下の写真を見てください。

玄関棟と事務所棟
Eriko

 道後温泉の入り口ですね。これがどうかしましたか?

Teacher

 本館の上に白鷺のオブジェがありますよね。このオブジェはなぜ入り口の方を向いていないのでしょうか?

Eriko

 そういえばそうですね。なぜだろう?

Teacher

 では、本館を正面から撮影した写真を見てください。2枚の写真を比較すると見えてきますよ。

Eriko

 えっと、本館の方が先に建てられたからじゃないですか?

Teacher

 ご名答!本館は明治27〔1894〕年に、玄関棟は大正13〔1924〕年にそれぞれ建てられました。

Eriko

 ということは、入口棟ができるまでは、本館側からお客さんが入っていたということですか?

Teacher

 その通りです。1階の部分に軒唐破風の屋根が3つありますよね。これは本館改築前に入口が3つあったことの名残りなのです。

Eriko

 それは知りませんでした。道後温泉の歴史を詳しく知りたいです。

Teacher

 分かりました。現在の道後温泉本館の原型が江戸時代にできていますので、その辺りから説明しましょう。

藩政時代の道後温泉

Teacher

 【公式サイト】道後温泉ホームページに、藩政時代の道後温泉を描いた絵が掲載されています。ちょっと見てみましょうか。

Eriko

 図の下の方にある大きな平屋の建物が、今の本館にあたると考えていいでしょうか?

Teacher

 その通りです。他に気付くことはありますか?

Eriko

 平屋の建物から右に住居が立ち並んでいて、途中で鉤型に曲がっています。これは現在の道後商店街ですね。

Teacher

 さすがです。もっと見付けましょう。

Eriko

 平屋の建物の奥にある小高い丘は、現在湯神社がある冠山、その上に続く長い石段と建物は伊佐爾波神社でしょう。

Teacher

 ご名答!よく気付きましたね。

Eriko

 実は小学生の頃にTakashi君たちとともに道後温泉について調べたことがあるんです。

Teacher

 そうでしたか。少しだけ補足しておきましょう。

  • 平屋の建物の左側に描かれている白くて丸いもの … 玉の石
  • 平屋の建物の右側に描かれている四角い窪地   … 牛馬湯
  • 図の右側に描かれている大きな窪地       … 放生池〔現在、カラクリ時計等がある放生園になっている〕
Eriko

 玉の石は現在も本館脇にありますね。

玉の石
Teacher

 はい。現在の道後温泉の原型をつくったのが、松山藩主 松平定行〔1587〜1668〕です。彼の略歴を紹介しましょう。

  • 天正15〔1587〕年 三河国で誕生。徳川家康は叔父にあたる。
  • 慶長12〔1607〕年 遠江国掛川城主となる。
  • 元和 3〔1617〕年 父 定勝に伴い、桑名に移る。
  • 寛永元 〔1624〕年 父の死後、桑名城主となる。
  • 寛永12〔1635〕年 伊予国松山城主となる。
  • 寛永14〔1637〕年 島原の乱の際、松山藩からも出兵。
  • 寛永15〔1638〕年 道後温泉の諸施設の充実に着手。
  • 寛永16〔1639〕年 松山城の5層の天守を3層に改築。
  • 正保元 〔1644〕年 長崎へ出向。
  • 万治元 〔1658〕年 子に家督を譲り、東野の地に別荘「東野御殿」をつくる。
  • 寛文 8〔1668〕年 逝去
Eriko

 徳川家康の甥にあたる人物なんですね。現在の道後温泉の原型ができた寛永年間といえば、江戸幕府が貿易相手国や貿易場所を制限していた頃ですね。

Teacher

 その通りです。『愛媛県史 近世 上』に、松平定行による整備状況が記載されています。

道後温泉の大改造

 寛永十五年、定行は道後温泉の諸施設の充実に着手した。まず浴場の周囲に垣を設け、砌石〔みぎりいし〕などを整備した。浴槽は六室に分かれ、一之湯は士族・僧侶用に、二之湯は婦人用に、三之湯は庶民男子に供された。この浴槽のほか、東側に「十五銭湯」と呼ぶ士人の妻子用「十銭湯・養生湯」と呼ぶ旅客雑人用のものがあり、さらにそれらの下流に馬湯があった(伊予史料)。

 この地には、寛文年間の初めまで奉行が置かれ、徒歩目付格である中川大右衛門・城野源助らがその任にあった。その後奉行は廃止され、道後御茶屋番がその任務を遂行した。なお道後御茶屋は定行が温泉入湯のために造った別荘であって、そこにいた御茶番屋が温泉を監督した。元禄のころまで、お茶番屋に今井作右衛門・永田門兵衛らが勤務したが、その後これに代わって明王院が温泉の鍵を預かるようになった(松山俚人談)。なお明王院は修験道場で、今の温泉の北側にあった。

『愛媛県史 近世 上 ー松平定行の入国と守成事業-』 ※ 注釈及び太字は筆者が加筆
Eriko

 なるほど。先ほど写真で見た道後温泉本館の三つの軒唐破風は、一之湯、二之湯、三之湯に分かれていた頃の名残りなのですね。また、身分別に入湯していたのですね。

Teacher

 その通りです。もう一度、現在の道後温泉本館の写真を見てみましょう。

Eriko

 先生、明治維新で江戸幕府が滅亡した時、道後温泉はどうなったのですか?

Teacher

 はい。『四国松山 湯の町 道後隅々案内』という本の中に次の記述があります。

道後温泉、町営となる

 大政奉還後、道後温泉の土地は藩を離れ国有となる。明王院の任は解かれ、湯之町四組の組頭が世話人となって合議で温泉経営にあたることとなる。老朽化した一・二・三之湯の改築が決定され、明治5年(1872)初めての二層楼の建物が完成。同8年、町では温泉を経営する団体「原泉社」を結成した。

 道後では一之湯を一時間限定の貸し切り湯「幕湯」としても使っていた。しかし他の入浴客の迷惑になるため、上等浴客用の浴室を新築することを決定。一之湯の東側に三層楼の「新湯」が建てられた。これは後に霊の湯および又新殿となる。

『四国松山 湯の町 道後隅々案内』 ※ 太字は筆者が加筆
Eriko

 伊佐庭如矢よりも前に本館の改築があったことは知りませんでした。

Teacher

 伊佐庭如矢が行った本館改築ついては、次回解説しましょう。

Eriko

 はい。楽しみにしています。

[つづく…]

フォローお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。