自然災害伝承碑を訪ねて…15 昭和18年7月24日に発生した土砂災害の記憶・西予市宇和町河内

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 皆さんは上の地図記号を見たことがありますか?この地図記号は「自然災害伝承碑」といい、国土地理院が令和元年6月19日から地理院地図上に公開を始めたものです。「自然災害伝承碑」とは何か、国土地理院ホームページから引用します。

自然災害伝承碑」について

◆ 過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に係る事柄(災害の様相や被害の状況など)が記載されている石碑やモニュメント。※ これまでは、概念的に記念碑(ある出来事や人の功績などを記念して建てられた碑やモニュメント)に含まれていました。

◆ これら自然災害伝承碑は、当時の被災状況を伝えると同時に、当時の被災場所に建てられていることが多く、それらを地図を通じて伝えることは、地域住民による防災意識の向上に役立つものと期待されます。

『国土地理院ホームページ』より

【参考】国土地理院ホームページ 「自然災害伝承碑」について

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 この「自然災害伝承碑」の記載は国土地理院が全国の自治体と連携して進めていますが、各自治体からの申請があったものに限られています。そのため、記載されている数はほんの一部に過ぎません。そこで、取材中に撮影した自然災害伝承碑と罹災状況について、当ブログにて紹介していきたいと思います。

 今回は、昭和18年7月24日に発生した土砂災害の記憶を伝える自然災害伝承碑を紹介します。

昭和18年7月24日発生、土砂災害の記憶 〜西予市宇和町河内探訪〜

昭和18年7月24日 大雨災害被災者慰霊碑
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 昭和18年7月24日の大雨災害とは台風4309号の停滞による豪雨によるもので、県下各地に甚大な被害をもたらしました。台風4309号の特徴について、『愛媛県史』の記述を引用します。

昭和18年の大水害

 昭和18年7月に発生した水害は、県史上で空前の大災害をもたらした。7月21日に四国南方800kmの海上に達した台風は、迷走・停滞したあと、24日に愛媛県下を北上して中国地方から日本海に去った。中・四国地方と九州東海岸では、台風と不連続線の活発な活動により、21日から24日にかけて降雨が続き、各地で記録的な豪雨となり、大水害を引き起こしたのである。4か日間の降雨量(24日午前10時観測)をみると、宇和島942mm、野村905mm、城辺870mm、宇和町746mm、松山540mm、東予平地部300~400mmであり、八幡浜・大洲は洪水のため観測値が出ていない(気象要覧)。
 肱川上流における雨量は700~800mmに達したものとみられ、大洲における水位は23日26尺、24日には28尺となり、大洲盆地は一大湖水と化し、街は水中に浮かび、舟によって救援が行われた(なお、肱川出水量記録としては、明治19年9月11日の32.4尺が計測されている)。罹災の特に激甚なところは松山市以西南地域県下一帯にわたり、特に重信川・肱川流域において激甚をきわめた。被害状況をみると、死者114人、行方不明20人、家屋の全壊一1,132戸、半壊1,453戸、流失911戸、床上浸水2万7,020戸、田畑流失5,896ha、浸水1万8,290ha、堤防の決壊1,074か所、道路の損壊2,012か所など、惨状をきわめた。
 さらに9月20日、台風が高知県宿毛付近から四国に上陸、岡山・鳥取両市を経て、翌21日に日本海へ出た。本県では、19日から風雨が強くなり、20日は暴風雨となって全般に風水害を受けた。被害状況をみると、死者・行方不明8人、家屋の全壊・流失163戸、床上浸水3,773戸、田畑の流失324町歩、浸水6,540町歩などとなっていた(気象要覧)。

『愛媛県史 社会経済6 社会』 ※ 太字及び下線は引用者による
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 当ブログでは、これまでに砥部町高尾田と伊予郡松前町で発生した風水害について紹介しています。リンクを添付しますので、お時間がございます時にご一読ください。

【これまで取り上げた昭和18年7月災害】

自然災害伝承碑を訪ねて…11 昭和18年7月23日に発生した風水害の記憶・砥部町高尾田

昭和18年7月23日、それは起こった〜重信川水害の記憶①

昭和18年7月23日、それは起こった〜重信川水害の記憶②

昭和18年7月23日、それは起こった〜重信川水害の記憶③

昭和18年7月23日、それは起こった〜重信川水害の記憶④

昭和18年7月23日、それは起こった〜重信川水害の記憶⑤

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 それでは、西予市宇和町河内で発生した土砂災害について確認していきます。まず最初に、大雨災害被災者慰霊碑が建てられている場所を地図で見てみましょう。

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 三方が急峻な山に囲まれていて、土砂災害が発生しやすい場所であることが地図を見るだけで分かりますね。では次に、昭和23年3月30日に米軍が撮影した航空写真を見てみましょう。災害発生から約5年後の河内地区を撮影したものですが、自然災害の爪痕を確認することができます。

昭和23〔1948〕年3月30日米軍撮影の宇和町河内付近 ※ 赤丸は、現在「大雨災害被災者慰霊碑」が建てられている場所
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 いかがでしょうか。現在慰霊碑が建てられている場所付近の山を見てみると、山肌が削られている箇所が随所に見られますよね。昭和18年7月の豪雨について、『多田郷土誌』に多田小学校の日誌が引用されていました。

昭和18年7月の豪雨

 当時の多田小学校の日誌によると、

 7月22日(木)雨  昨日以来の大降雨で出水甚だし。

 7月23日(金)大雨 引き続いてのはげしい降雨にて、出水ひどく、児童登校止む。登校した児童も2、30名あれど直ちに組合別に係の訓導のもと退校す。

 7月24日(土)大雨 引き続いての大雨にて出水ひどし、登校する児童なし。出水のため、大三校舎の土間、被害ひどし。

『多田郷土誌』 ※ 太字は引用者による
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 台風が停滞することで豪雨が続いて出水がひどく、河内地区が罹災した7月24日には子どもたちは登校しなかったようですね。なお、この間至る所で山崩れが発生したことも『多田郷土誌』は記述しており、鳥越では大サコ山が崩壊して田畑4町歩(4ha)が流出、埋没したそうです。河内地区の罹災状況はどうでしょうか。

河内地区の罹災状況

 河内部落では、通称正月森一帯に降った雨が、尾根伝いの山道を大川となって流れ下り、字堂山の堆積地の杉山の辺りに集注し、24日の11時過ぎ、遂に大崩壊を起こした

 尾根の東側では信里字あやの木の谷の池や田畑を埋め、西側では崩土が泥流となって、満水の水田の上を杉の大木等を乗せたまま、約300メートルも疾走して、字奥の谷の民家を襲った

 結局民家五戸、十五棟が倒壊して押し流され三戸が壁や床等を打ち破られたこのため成人4名と幼児1名が埋められて死亡し、十数名が泥土や倒された家の下からはい出して、辛くも一命を取りとめたが、田畑も深い所で3メートルも泥土を被り、飼牛三頭が埋められた。崩壊したのはちょうど昼前でこの状況を目撃した人は多く、人の走る速さの二倍にも及ぶ泥流の速さや、異様な物音と情景のすごさを口々に物語って、自然災害の恐ろしさを伝えていた。

『多田郷土誌』 ※ 太字及び下線は引用者による
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 「満水の水田の上を杉の大木等を乗せたまま、約300mも疾走」…。想像するだけでも恐ろしい。急傾斜の地ですから、そのスピード、その勢いももの凄かったでしょうね。『多田郷土誌』の記述は、ここで復旧の話に移ります。

災害からの復旧

 復旧については遠く西条、今治方面からの応援もあり、中あげての勤労動員であった。いうまでもなく戦時中とて近郷近在よりの奉仕隊は毎日2、300人をこえた。これらの指揮監督に当たった当時村吏の菊池文蔵によれば、「現在のようにブルドーザなどはなく、一鍬一鍬一簀一簀みんなの力による他に手段がなかった。土方の親分のような任務で一夏をすごした。」という。

『多田郷土誌』 ※ 太字及び下線は引用者による

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 以上で『多田郷土誌』の記述をもとにした河内地区の罹災状況の説明を終わります。現地を訪れて見ましたが、土砂災害が起きやすい場所であることは今も変わりなく、現に土砂災害(特別)警戒区域に指定されています。「大雨災害被災者慰霊碑」付近の風景をご覧ください。

「大雨災害被災者慰霊碑」付近から北方向を望む
「大雨災害被災者慰霊碑」と共にある観音様
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 豪雨が続いた時には、勢いをつけた泥流が流れ下る様子が目に浮かんできますね。なお、昭和51〔1976〕年に刊行された『宇和町誌』を読んでみましたが、自然災害の項目は戦後からとなっており、この時の災害に関する記述はありません。ですから、誰かが語り継がなければ忘れ去られてしまいます。今回の記事を多くの方に読んでいただくことで、河内地区の自然災害の記憶を共有させていただきたいと思います。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。

【参考:土砂災害〔特別〕警戒区域地図】 ※ 愛媛県ホームページから引用

下梶尾谷川〔土石流〕

十丁川〔土石流〕

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