自然災害伝承碑を訪ねて…③ 明治17年高潮の記憶・松山市

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 皆さんは上の地図記号を見たことがありますか?この地図記号は「自然災害伝承碑」といい、国土地理院が令和元年6月19日から地理院地図上に公開を始めたものです。「自然災害伝承碑」とは何か、国土地理院ホームページから引用します。

自然災害伝承碑」について

◆ 過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に係る事柄(災害の様相や被害の状況など)が記載されている石碑やモニュメント。※ これまでは、概念的に記念碑(ある出来事や人の功績などを記念して建てられた碑やモニュメント)に含まれていました。

◆ これら自然災害伝承碑は、当時の被災状況を伝えると同時に、当時の被災場所に建てられていることが多く、それらを地図を通じて伝えることは、地域住民による防災意識の向上に役立つものと期待されます。

『国土地理院ホームページ』より

【参考】国土地理院ホームページ 「自然災害伝承碑」について

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 この「自然災害伝承碑」の記載は国土地理院が全国の自治体と連携して進めていますが、各自治体からの申請があったものに限られています。そのため、記載されている数はほんの一部に過ぎません。そこで、取材中に撮影した自然災害伝承碑と罹災状況について、当ブログにて紹介していきたいと思います。

 今回は、明治17年8月に発生した台風により生じた高潮による被害の記憶を伝える2つの自然災害伝承碑を紹介します。

明治17年8月、高潮の記憶 〜松山市探訪〜

【左】豫州溺死者招魂碑〔松山市元町2丁目〕        【右】大可賀溺死者招魂碑〔松山市大可賀2丁目〕
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 これらの招魂碑は、明治17年8月25日に襲来した台風で生じた高潮による大被害について記したものです。まずは罹災状況から確認しましょう。

1 罹災状況

明治17年の台風

 (明治)17年8月25日西日本を襲った台風は、高潮による被害をもたらした。なかでも温泉郡山西村の大可賀新田では、午後11時ごろ、高潮のため北西の堤防が一時に決壊、一帯は潮が充満し、戸数約70戸のうち溺死者53人、家屋の流失49戸、田畑流失53㌶の被害を一瞬のうちこうむり、部落壊滅の大惨状となった。

『松山市史 第3巻』より

【参考】「四国災害アーカイブス」明治17年の台風

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 「大可賀新田」とは、藩政時代の末期に当時の山西村西部の海岸一帯を干拓してできた新田のことです。松山藩士・奥平貞幹が和気郡代官であったとき、山西村の庄屋・一色義十郎が干拓の計画書を提出、藩の許可が出てこの新田が開発されました。嘉永5年(1852)起工、安政2年(1855)造成工事終了、同5年(1858)落成式。時の松山藩主がこの新田の完成を喜び、「大いに賀す可(べ)し」と言ったことから「大可賀新田」の名がついたといわれています。

【参考】「伊予松山・今治一色系図」ホームページ 大可賀新田記

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 アイテムえひめの北側に「大可賀新田記碑」と「大可賀新田起工五十年紀念碑」が建てられています。撮影してきましたのでご覧ください。

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 「大可賀新田記碑」の碑文は、右の解説版に〔解読〕があります。内容は下の写真で確認してください。

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  それでは、「大可賀」の場所を地図で確認しましょう。

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  地図中に赤線で示されている範囲が「大可賀」です。現在は埋立や工場誘致等がなされたために「大可賀新田」が造成された場所だと言われても全く分かりませんね。では、同じ場所を昭和23年に米軍が撮影した航空写真で確認してみましょう。

昭和22年の大可賀付近〔国土地理院ホームページから引用したものを加工〕
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 こうして見てみると、埋め立てにより海岸部が大きく変貌していることがよく分かりますね。被害が及んだ範囲について、ブログ「三津浜のげんたろう(その1)」に次の記述がありましたので紹介します。 

明治17年8月25日、高潮の被害が及んだ範囲

 台風と満潮とが重なったのであろうか、古三津、船ヶ谷、松ノ木あたりまで被害が及んだらしい。二百数十名の死者と、多くの家畜や人家もやられたらしい。

ブログ「三津浜のげんたろう(その1)」豫州溺死者招魂碑  ※ 太字は引用者による。

【参考】ブログ「三津浜のげんたろう(その1)」豫州溺死者招魂碑

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 これらの地名を上の航空写真に当てはめてみると、次のようになります。

上記航空写真に3つの地名を加えたもの〔国土地理院ホームページから引用したものを加工〕
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 これが事実だとすると、高潮の被害は本当に広範囲に及んだのですね。それでは次に、それぞれの碑がある場所を確認しましょう。

2 石碑が建てられている場所

上記航空写真に石碑の位置等を加えたもの〔国土地理院ホームページから引用したものを加工〕

⑴ 豫州溺死者招魂碑〔松山市元町2丁目〕

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 宮前川に架かる須賀橋を渡り、三津厳島神社へ向かう途中にあります。この場所は、伊予の関ヶ原の合戦と言われる「苅屋畑の戦い」の死者を弔うために元町地蔵が建立された場所でもあります〔享保元年7月24日のこと〕。

【参考】ブログ「三津浜のげんたろう(その2)」元町地蔵尊の由来

【アクセス】

⑵ 大可賀溺死者招魂碑〔松山市大可賀2丁目〕

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 TSUTAYA WILL三津店の東側に、この災害により亡くなられた方の供養・納骨のために地域の方が建設された「御名号堂」という御堂がありますが、その境内にあります。建立は犠牲者の3回忌にあたる明治19年のことです。

【参考】ブログ「愛媛の伝承文化」愛媛県の自然災害伝承碑 松山市大可賀

【アクセス】


【One more thing…】

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 この高潮の被害により三津浜港は壊滅し、県議会では高浜に港をつくろうとの議論がなされます。伊予鉄道はこの流れに乗って三津-高浜間の路線延伸・高浜築港を進めますが、これに危機感を抱いた三津の人々と伊予鉄道との関係が悪化し、のちに政治闘争へと発展していきます。これについては、当ブログの記事に詳細をまとめていますので、合わせてご覧ください。

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 ここまでご覧いただき、ありがとうございました。海岸部が埋め立てられているとはいえ、全く罹災しない訳ではありません。過去の事例を教訓として、普段から災害対策をしておきたいですね。

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