自然災害伝承碑を訪ねて…② 明治32年8月別子大水害の記憶 Part.2

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 皆さんは上の地図記号を見たことがありますか?この地図記号は「自然災害伝承碑」といい、国土地理院が令和元年6月19日から地理院地図上に公開を始めたものです。「自然災害伝承碑」とは何か、国土地理院ホームページから引用します。

自然災害伝承碑」について

◆ 過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に係る事柄(災害の様相や被害の状況など)が記載されている石碑やモニュメント。※ これまでは、概念的に記念碑(ある出来事や人の功績などを記念して建てられた碑やモニュメント)に含まれていました。

◆ これら自然災害伝承碑は、当時の被災状況を伝えると同時に、当時の被災場所に建てられていることが多く、それらを地図を通じて伝えることは、地域住民による防災意識の向上に役立つものと期待されます。

『国土地理院ホームページ』より

【参考】国土地理院ホームページ 「自然災害伝承碑」について

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 この「自然災害伝承碑」の記載は国土地理院が全国の自治体と連携して進めていますが、各自治体からの申請があったものに限られています。そのため、記載されている数はほんの一部に過ぎません。そこで、取材中に撮影した自然災害伝承碑と罹災状況について、当ブログにて紹介していきたいと思います。今回は、明治32年8月に発生した別子大水害の2回目です。四国中央市にもこの災害を後世に伝える碑があるのです。

別子大水害の記憶 Part.2 〜四国中央市探訪〜

八坂神社〔四国中央市土居町藤原〕にある関川改修復興記念碑
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 まず最初に、八坂神社の位置を確認しておきましょう。神社付近の風景に注目してください。

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 神社のすぐ南側を古小川が流れ、神社の東方で別の河川と合流しています。実際に八坂神社を訪れてみたのですが、堤防のすぐ傍に神社があることに驚かされました。

八坂神社の鳥居と拝殿。古小川は堤防の右側を流れる。
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 関川は、八坂神社の西方を流れています。明治32年8月28日に発生した別子大水害は、この地域にどのような被害をもたらしたのでしょうか?罹災状況から確認します。

① 四国中央市土居町の罹災状況

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 『土居町誌』にその詳細が記述されています。引用しますね。

関川堤防の決壊と復興

 当地方は特有のやまじ風を受け、毎年その被害に苦しんだ。長津村・小富士村・土居村は特にひどかった。この定期的にくる台風まがいの強風とは別にこの地方に襲来した大暴風雨のうちで、明治32年8月28日から降り始めた雨は風をともなって、名実ともに大暴風となり、関川・西谷川・浦山川・その他すべての小川にいたる迄堤防を流し、溢れて、田畑・家屋を損壊し流失させた。そして、原野瓦礫の河原と化してしまった。その被害惨状は前古未曾有のものであった。(中略)

 当時の河川堤防はいたって不完全であった。出水度に大小の被害を受けていたのはそのためであったが、この32年の大水害は予想外のものであった。関川関係では42人の死者を出した。

 現在でも当時の河川敷の変遷を調査探究してその感を深くするものであるが、この大被害によって、関係住民は衣食はもちろん、住から田畑家畜までも失い、路頭に迷ったという記録はうなずけるところである。

『土居町誌』第4章 近代史 第八節 より  ※ 太字・赤色は引用者による。また、漢数字をアラビア数字に改めた。

【参考①】香川大学教育学部・大学院教育学研究科ホームページ「やまじ風」 ※ 森征洋氏が「やまじ風」の特徴をまとめられています。

【参考②】「四国災害アーカイブス」明治32年8月の台風〔愛媛県四国中央市土居町〕

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 「原野瓦礫の河原と化す」という表現から被害の甚大さが伝わってきます。しかし、災害からの復興について『土居町誌』は次のように記述しています。

地方民は如何にその復興にとり組み、協力一致、六年後に未曾有の改修大工事を完了した〔以下略〕

『土居町誌』第4章 近代史 第八節 より  ※ 太字・赤色は引用者による。
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 「原野瓦礫の河原と化す」という状況からたった6年で河川の改修工事をやり遂げたというのはすごいですね。それでは次に、災害からの復興について、『土居町誌』の記述を引用しながらまとめていきましょう。

② 災害からの復興

関川堤防の決壊と復興

 まず、この大惨事を受け、復興に献身して、先頭に立ったのは地元出身(土居町)の国会議員合田福太郎であったといえる。

『土居町誌』第4章 近代史 第八節 より  ※ 太字は引用者による。

【参考】NPO法人 紙のまち図書館ホームページ ※ 合田福太郎氏の写真が掲載されています。

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 合田福太郎氏とはどんな人なのでしょうか?氏の生涯を確認しましょう。

合田福太郎(1860〜1921)

 土居村長・県会議員・衆議院議員。宇摩郡土居村(現土居町)で精米・瓦製造業を営む合田基次郎の長男に生まれた。小学校を終えて尾崎山人(星山)の松菊舎に入り、頭角を現し星山の高弟となり天口の号を与えられた。明治12年10月愛媛県師範学校に入り、15年卒業後郷里の小学校で訓導兼校長を務めた。明治22年町村制の実施に伴い初代の土居村村長に推され、24年11月には後援者山中好夫に譲られて県会議員になり、31年まで在職した。明治31年3月進歩党から推薦されて第5回衆議院議員選挙に第4区から立ち当選したが、同年8月の衆院選挙には出馬を辞退して、32年9月県会議員に返り咲き郷里関川の大水害に対する県費復旧運動を展開した。35年8月の第7回衆議院選挙で国会に帰り、36年3月、37年3月の選挙で連続して当選、憲政本党一国民党に所属して犬養毅と親交があった。政界が次第に党利党略に終始するのを嫌い、明治41年5月の衆議院選挙を機に政界を退き、故郷に帰り悠々自適の生活に入ったが、大正7年村民から要請されて再び土居村の村長を勤め、青年たちを教導することを楽しみにした。大正10年5月29日病が悪化して61歳で没した。その墓碑銘は犬養毅が記した。

『愛媛県史 人物』より  ※ 下線は引用者による。
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 犬養毅とも親交があった方なのですね。氏が展開した県費復旧運動について、『土居町誌』は次のように記述しています。

関川堤防の決壊と復興

 この惨状をみた国会議員合田福太郎は、その復興のためには県会議員として予算を獲得することによって郷土に献身する以外になしと決意した。そして、その目的を胸にひめて国会議員を辞し帰郷した。彼は決意どおり県会議員をめざしてその年の10月出馬し当選することになった。この決断は並大ていの人間の出来ることではなかった。

『土居町誌』第4章 近代史 第八節 より  ※ 太字は引用者による。
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 故郷を救いたいという大志を抱いて国会議員を辞職してまで遂行しようという氏の行動力には考えさせられるものがありますね。彼が土居村長の職にも就いていたというのは、地域の方々の氏への信頼が厚かったのでしょう。

 彼は豊富な知識と経験をいかして東奔西走し…

遂に県費17万円という当時としては巨額の復興費を獲得!

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 ちなみに『土居町誌』には、当時の県経常予算の総額も記載されています。なんとその総額は…。

「80万円にもみたなかった」

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 もちろん氏を蔭で応援する多くの人々がいましたが、『土居町誌』には「素封家山中好夫氏が物心両面から力をかした」と記述しています。

【参考①】素封家〔そほうか〕:大金持ち。財産家。 ※ 小学館『大辞泉』より

【参考②】『人事興信録』データベースより 山中好夫

③ 終わりに

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 もう一度、「関川改修復興記念碑」の写真を掲載します。明治時代に建立された古い石碑ですが、そこに刻まれた碑文は今でも読むことができます。ぜひ現地を訪れ、皆さんの目で確認してみてください。

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 もう一つ。「関川改修復興記念碑」の隣には、旧土居町を代表する偉人安藤正楽撰文「日露戦役記念碑」も建てられています。こちらについては本稿とは内容が異なりますので詳細は記しませんが、この石碑にも歴史があります。合わせて現地でご確認ください。

【参考】ブログ「紀行歴史遊学」文字の削られた記念碑

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 ここまでご覧いただき、ありがとうございました。記事についてご意見等ございましたら、コメント欄にてお知らせください。


【One more thing…】

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 四国中央市土居町出身の偉人や歴史について知りたい方は、ぜひ『暁雨館』を訪れてください。分かりやすい展示がなされていて、各種イベントも豊富に開催されています。しかも無料!

【参考】「NPO法人紙のまち図書館」ホームページ 暁雨館

【アクセス】

⇦ Forward Part .1 新居浜市探訪

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