愛媛鉄道の軌道跡をたどろう② 度重なる計画変更、そして開業へ

Teacher

 前回は、大洲市春賀にある愛媛鉄道の煉瓦アーチ橋を紹介しました。

【参考】愛媛鉄道の軌道跡をたどろう① 大洲市春賀にある煉瓦造りのアーチ橋

Takashi

 103年前に築造されたものが残っていること自体が驚きなのに、それが各所にあるのでしたね。

Teacher

 そうです。

Takashi

 愛媛鉄道の路線ルートはどのようなものだったのでしょうか?

Teacher

 『愛媛県史 社会経済3 商工』に愛媛鉄道路線略図が掲載されています。現在の予讃線の路線と愛媛鉄道の路線がどちらも書かれているので、比較できますよ。引用しましょう。

愛媛鉄道路線略図 ※『愛媛県史 社会経済3 商工』から引用
Takashi

 大洲駅、八多喜駅、伊予長浜駅の場所が現在の予讃線とは違いますね。また、線路が敷設されている場所も一部異なっています。

Teacher

 そうですね。以前紹介した宇和島鉄道もそうですが、鉄道を誘致したいという地元の人々の熱い思いと行動力が愛媛鉄道開業に結実したのです。今回は、愛媛鉄道の歴史を紹介しましょう。

Contents

  • 郡中〔現伊予市〕の有力者、宮内治三郎らによる鉄道敷設計画
  • 「西予電気軌道」から「愛媛鉄道」へ
  • 度重なる計画変更、そして開業

① 郡中〔現伊予市〕の有力者、宮内治三郎らによる鉄道敷設計画

Takashi

 先生、宮内治三郎という人はどんな方だったのですか?

Teacher

 現在の伊予市灘町を開発した宮内九右衛門・清兵衛兄弟の子孫にあたる方です。『愛媛県史 人物』に略歴が記載されていますよ。

宮内治三郎 略歴

 安政4年~明治39年(1857~1906)南予鉄道会社創設者・衆議院議員。安政4年10月26日、伊予郡郡中灘町(現伊予市)の酒造家に生まれた。町の有志と計って明治19年郡中銀行を設立し、のち頭取に就任した。 22年1月県会議員になり、25年3月再選されて副議長に選ばれ27年4月まで務めた。 27年9月第4回衆議院議員選挙で第1区から自由党公認で立ち当選、1期在任した。27年1月には南予鉄道会社を設立して社長になり、29年7月郡中一藤原駅(現松山市駅)間11キロを開通させた。また同年肱川汽船会社を誘致して伊予汽船会社を開業した。明治39年2月13日、48歳で没した。

『愛媛県史 人物』 ※ 太字及び下線は引用者による

【参考】伊予鉄道の歴史② 路線の延長

Takashi

 伊予鉄道郡中線の前身である南予鉄道会社を創設した方ですか。それ以外にも様々な活躍をされていますね。

Teacher

 藩政時代、宮内家は屋号・灘屋を許され、町年寄を務めるとともに酒造を営み、大洲和紙の貿易・販売を公認されていました。元文3〔1738〕年に建てられた宮内邸は国登録有形文化財に指定され、現在は『ミュゼ灘屋』という名称でコミュニティスペースとして活用されています。

宮内家住宅 ※ Wikipediaから引用

【参考】『ミュゼ灘屋』ホームページ

Takashi

 宮内治三郎氏はどのように愛媛鉄道の創設に関わったのですか?

Teacher

 愛媛鉄道の創設に直接関わったわけではありません。南予鉄道を計画した際、南予方面への鉄道敷設についても企画しており、それが紆余曲折を経てのちの愛媛鉄道設立につながるのです。彼を中心とする鉄道敷設の動きを確認しましょう。

南予に鉄道を

 さて、宮内らは松山―郡中間開業に先立ち、同28年12月に郡中-八幡浜間を企画、出願した。同33年3月に仮免状を受け測量に取りかかる。だが、計画はなかなか進まなかった。幼稚な当時の鉄道敷設技術からすれば南予の地形はあまりにも複雑すぎたのだ。

『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 ※ 太字は引用者による。数字の箇所は原本では漢数字である。
Takashi

 計画通りには進まなかったのですね。

Teacher

 そうです。このあと日露戦争が勃発したこともあり、南予への鉄道敷設の動きは一旦終息してしまいます。

② 「西予電気軌道」から「愛媛鉄道」へ

Teacher

 続いて南予方面への鉄道敷設を計画したのが神戸の曽根正命氏らによる西予電気軌道で、松山市在住の清水隆徳氏を代表として資本金400万円で出願しました。明治43〔1910〕年1月のことです。

Takashi

 宮内治三郎氏らが測量に取りかかった10年後のことですね。これは鉄道をどのように走らせる計画だったのですか?

Teacher

 はい、郡中を起点として、中山-立川-内子-大洲-千丈を経由して八幡浜へ至る全長65.5kmの電気軌道敷設計画でした。また、付帯事業として沿線の住民に電力を供給することが織り込まれ、発起人には伊予鉄道の井上要伊予水力電気の才賀藤吉も参画しています。

【左】伊予鉄道の井上要像〔松山北高等学校内にある〕 【右】才賀藤吉〔Wikipediaから引用。パブリック・ドメイン〕
Teacher

 残念ながら、すぐに実現することはありませんでした。『愛媛県史』の記述を引用しましょう。

軽便鉄道法公布に伴う計画変更

 この鉄道は法的には軌道条例により出願されたが、当時の知識では電気軌道は直接道路に敷設し、短距離用のもので、この計画のような長距離路線には不適当である。鉄道院はその翌年に軽便鉄道法が公布〔この記述は誤り。正しくは明治43年公布〕されたのを機に、軽便鉄道への変更を指示してきたなど、関係者は明治44年5月、軽便鉄道法に基づき計画内容を修正、「西予軽便鉄道」と改称して、資本金200万円に減額し、蒸気動力による鉄道とした

『愛媛県史 社会経済3 商工』 ※ 下線、注釈及び太字は引用者による。なお、数字は原本では漢数字である。
Takashi

 路線についてはどのように変更されたのでしょうか?

Teacher

 区間・経路は前とほぼ同じですが、八幡浜-喜須来間約1.6kmが追加され、総延長62.7㎞となりました。そして明治44〔1911〕年6月28日付で軽便鉄道法による許可を得ることに成功したのです。

Takashi

 よかった。これで建設開始ですね。

Teacher

 いいえ。大正元〔1912〕年に「愛媛鉄道」と社名を変更しましたが、なかなか建設開始には至らなかったのです。

Takashi

 何があったんだろう?

③ 度重なる計画変更、そして開業へ

Teacher

 建設開始が遅れてしまった理由は、経済界の不振でした。日露戦争には勝利しましたが、賠償金が得られなかったことで国家財政そのものが危機的状況に陥っていたのです。

日露戦争の戦費の財源 ※ 日本史B資料集から作成
Takashi

 そういえば以前、松山電気軌道の軌道敷設工事のところでも同じ話が出てきましたね。

【参考】伊予鉄道の歴史⑤ 松山電気軌道会社との対立Ⅲ

Teacher

 そうでしたね。結局、経済界の不況によって株式募集が思い通りにいかなかったため、大正5〔1916〕年に当初の予定を大きく変更することで、工事開始に漕ぎ着けることができたのです。

Takashi

 具体的にどのように変更押されたのですか?

Teacher

 郡中以南は海岸線の長浜経由に改めました。そのうち、工事の比較的容易な肱川沿岸の大洲―長浜間(14.6㎞)を選んで工事を行うことにしたのです。

Takashi

 なるほど。大洲-長浜間という愛媛鉄道の路線はこのようにして決定されたのですね。

Teacher

 そうです。しかし、会社の経営はいぜん苦しい状態が続き、第一次大戦の影響で労賃の高騰も加わって、これが開通したのは大正7〔1918〕年2月のことでした。次いで、支線若宮分岐点・内子間(9.7㎞)が大正9〔1920〕年5月に開業します。どちらも軌間762㎜の軽便鉄道でした。

Takashi

 こうして、大正9〔1920〕年に愛媛鉄道のすべての路線が開通したのですね。

Teacher

 そうです。今回はここまでにしましょう。次回は、開業後の愛媛鉄道の様子と終焉について取り上げますね。

Takashi

 はい。よろしくお願いします。

【つづく…】

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