伊予鉄道の歴史③ 松山電気軌道会社との対立Ⅰ
今回は、伊予鉄道のライバル会社として競争を繰り広げた松山電気軌道会社を紹介します。
僕は全く聞いたことがありません。いつ頃のことですか?
松山電気軌道会社は明治40〔1907〕年に設立された会社で、明治44〔1911〕年から大正10〔1921〕年まで三津浜-道後間に軌道および電気事業を経営し、当時は「松電〔まつでん〕」と呼ばれていました。
100年ほど前にあった会社ですか!それは知らないはずです。
この会社は最終的に伊予鉄道が吸収合併しましたが、松山電気軌道の路線の一部は伊予鉄道が現在でも利用していますよ。地図で路線を確認してみましょう。
あっ!札の辻から一番町を過ぎたところまでと六角堂から道後までは今の伊予鉄道の路線とほぼ同じだ!
その通りです。松山電気軌道会社がどのような背景のもとに設立され、伊予鉄道とどのような競争を展開したのか、これから確認していきましょう。
① 三津浜と高浜
松山電気軌道会社は、三津浜の人々が伊予鉄道に反発して設立させた会社です。
なぜ、三津浜の人々は反発したのだろう?
それについては、その背景を前回の講義で話しているのですが、覚えていますか?
【参考】伊予鉄道の歴史② 路線の延長
確認しました!伊予鉄道が高浜へ線路を延伸した理由として、次の2点が挙げられていました。
- 当時は船が大型化しつつあり、そのような船が停泊できる港が必要だった。
- 興居島が自然の堤防の役割を果たしたため、高浜は台風等の影響をほぼ受けることがなかった。
そうか!三津浜は松山の海の玄関として発展してきたところだから、人々は地域の衰退を恐れたのですね。
Takashi君、その通りです。伊予鉄道の社長も務めた井上要が、著書「伊予鉄電思い出ばなし」の中で三津浜について記述しているので、見てみましょうか。
三津浜について
三津浜は数百年来松山地方一帯の大玄関、瀬戸内海屈指の要津として発達したもので、殊に商港として慇懃〔いんぎん。非常に親しく交わること。〕を極めて居る。故に此地の人々が此商港・此郷土を愛護して他に奪わるることなく益々其繁栄を計らんと熱望するは、固より当然のことであらねばならぬ。併し昔の帆船時代なれば兎に角、世は汽船の時代となった。三津浜は遠浅で且西風強く、港湾殆ど其用をなさず、乗降と積卸しの不便極まることは周〔あまね〕く世人の実験し痛感する處〔ところ〕である。
『伊予鉄電思い出ばなし』 ※ 注釈及び太字は引用者による
やはり三津浜は時代の流れに適合しなくなっていたのですね。「三津浜は遠浅で且西風強く、港湾殆ど其用をなさず」とありますが、自然災害に関して何か事例があるのですか?
はい。明治17〔1884〕年8月に発生した台風によって、三津浜付近は大きな被害を被っています。井上要は著書の中で次の通り記述しています。
明治17年の暴風雨
明治十七年八月暴風雨あり三津港を破壊す。翌年復旧工事費(約5万円)県会に出づ。同港は到底一県の要港たる資格なきにより、県下永遠の為め此際高浜に築港すべしとの議論を以て、県会は原案を否決せしに、知事関新平は不認可執行せり。
『伊予鉄電思い出ばなし』 ※ 太字及び下線は引用者による
高浜に港をつくろうとの議論が県議会で出ていますね。復旧工事費の原案も否決されているし、三津浜の人々は相当焦ったでしょうね。
その通りです。この時の高潮で亡くなった人々を悼んでつくられた招魂碑が、三津厳島神社の参道沿いと大可賀にそれぞれ建てられていますよ。
【参考】ブログ『愛媛の伝承文化』〜愛媛県の自然災害伝承碑 松山市大可賀〜
記録を見てみると、この時の高潮は広範囲に及んでいますね。こんな大災害が身近なところで起きていたんだなあ。
そうですね。ただ、この時の被害によって高浜築港に拍車がかかり、伊予鉄道もその流れに乗るのです。
② 伊予鉄道による高浜港整備
明治17〔1884〕年に発生した自然災害以後、高浜に港湾を整備するという計画が実現に向けて動き始めます。これに対し、伊予鉄道がどのように動いたか、一つ一つ確認していきましょう。
ア 小林信近と高浜
高浜築港に向けての伊予鉄道の動きが、『愛媛県史 近代 上』に次のように記載されています。
三津ー高浜間の延伸
明治一九年七月、小林信近らは高浜築港の目的をもって、道路改修・海面埋め立てを出願して県の許可を得、梅津寺の寄洲に沿って道路を改修し、高浜の一部を埋め立てて桟橋を架設した。この高浜築港の推進は、明治二〇年九月に創設された伊予鉄道会社の路線拡張とも関連し、同社社長となった小林は、同二六年四月に松山~三津区間の鉄道路線を高浜まで延長した。
『愛媛県史 近代 上』
なるほど。高浜へ線路を延伸する背景にはこういった事情があったのか。
さらに、井上要も高浜築港に向けて活動を開始しています。
イ 井上要と高浜
『愛媛県史 近代 上』の記述を確認しましょう。
高浜築港期成同盟会 設立
井上要らは、同二七年七月高浜築港期成同盟会を設立し、同三〇年と翌三一年の通常県会に内務大臣に対する高浜港の特別輸出港及び外国貿易港指定を要望する建議を提出し、可決を得ていた。こうした動きは、井上ら進歩党系愛媛同志会の手によって進められてきたが、同三一年八月の憲政党愛媛支部の結成を機に自由党系の藤野政高らが同盟会に加わることとなり、高浜築港は超党派の運動に発展した。
『愛媛県史 近代 上』 ※ 太字及び下線は引用者による
「超党派の運動に発展」というのはどういうことでしょうか?
党派的利害をこえて、関係者が一致協力することをいいます。
なるほど、愛媛県の政治家が協力して高浜築港を推し進めたということですね。三津浜の人々は気が気ではなかったでしょうね。
そうでしょうね。その後の展開を確認しましょう。
高浜港開港式挙行へ
その後、中央政界における憲政党の分裂により県政界も二大政派に再び分裂したが、県会で多数派を占める井上要ら憲政本党非増租派は、明治三五年三月臨時県会に上程された一〇か年継続土木事業案に、高浜の四十島と陸地をつなぐ防波堤工事を内容とする高浜築港を加え、これを可決した。ついで井上の奔走によって、翌三六年三月大阪商船豊浦丸が高浜寄港を開始し、同三七~三八年の日露戦争中にあっては、松山・高知連隊の出征、ロシア兵俘虜の輸送などに同港が使用され、宇和島運輸会社の商船なども高浜のみに寄港するようになった。これに伴い、海岸埋め立て、道路改修、新桟橋の架設が進められ、明治三九年九月一日高浜港開港式が挙行されるに至った。
『愛媛県史 近代 上』 ※ 太字及び下線は引用者による
こうして現在の高浜が誕生したのですね。
そうです。この時の伊予鉄道の動きは次の通りです。
- 明治35〔1902〕年 海陸接続の計画を実行 … 高浜線の線路を延長、停車場を海岸へ移設、用地買収及び海岸の埋立。
- 明治36〔1903〕年 高浜に桟橋を架設。
- 明治39〔1906〕年 高浜港開港式を挙行。
こうして、高浜-宇品間の航路、山陽鉄道の各駅と幹線主要駅との旅客・荷物の連帯運輸が始められ、伊予鉄道の目標であった高浜の海陸連絡拠点化が完成したのです。
三津浜の人々は、これに対してどう動いたのですか?
反対運動が巻き起こりました。詳細は次回説明しますね。
はい。