交通安全を祈願し続けた人 兵頭寛一氏作品集
西宇和郡伊方町川永田に生まれた兵頭寛一氏(1928〜2000)は、娘さんの交通事故をきっかけとしてコンクリート像の制作を始めました。最初に制作した「交通安全ノ碑」の台座に、氏自身が碑の制作意図を記しています。
氏は、以後も常に「交通安全」を祈願して創作活動を続け、多くの作品を伊方町内外に奉納しています。本稿は、氏が制作した作品を取材した記録です。制作順にまとめていきますので、どうぞご覧ください。
昭和44(1969)年5月吉日
⭕️ 交通安全ノ碑〔伊方町川永田〕
昭和42〔1967〕年11月8日、川永田集落の入り口であるこの場所で発生した交通事故により一人の女の子が亡くなりました。小学四年生であったそうです。この碑が建つ場所を地図で確認しましょう。
現在、佐田岬半島の主要な交通路は国道197号(佐田岬メロディーライン)ですが、事故発生当時は存在せず、「交通安全ノ碑」が立つ海岸線に沿った道が国道で、佐田岬半島を往来する車すべてがこの道を通っていました。ちなみにこの道は江戸時代の頃も主要な街道で、「交通安全ノ碑」から西へ数m進んだところには宇和島藩が一里〔約4km〕ごとに植えた一里松の切り株が残されています。
現在はほとんど車が通らない静かな道になっていますが、当時は非常に通行量が多く、事故が起きやすい場所だったのかもしれませんね。『広報伊方町第107号(昭和44年6月1日刊行)』に碑の除幕式についての記事が掲載されていました。記事の一部を引用します。
交通安全の碑できる
(前略)二度とこうした惨事を繰り返さないようお父さんが像の建立を思いつき、3カ月がかりでコツコツと鉄筋コンクリートに愛児の像を彫刻したものです。娘さんとともに事故にあった児童が幕を引くと重さ700キロ、高さ1.7メートルのランドセルを背負ったおかっぱ姿の像があらわれ、国道を走る運転手さんたちに「交通事故はもうやめて………」と訴えています。(後略)
『広報伊方町第107号』 ※ 人物名が記された箇所は、引用者が変更しています。
この像は兵頭寛一氏の亡くなられた娘さんだったのですね。自動車を運転する私たちは、兵頭氏がこの像に込めた思いの重さを常に念頭に置いておかなければいけません。
昭和50(1975)年9月20日
⭕️ 交通安全道祖神〔伊予市大平 大平交差点〕
『広報伊方町第209号』によれば、伊予市交通安全協会の依頼を受けて制作したものだそうです。交通安全を祈願して創作活動を行った兵頭氏の思いが伊予市に届いたのですね。像の場所を地図で確認しましょう。
なお、ブログ「気功的整体師の奮戦記」の記事によれば、元はもう少し松山寄りの場所に建立されており、道路拡幅の際に現在地に移転されたとのことです。
昭和51(1976)年9月3日
⭕️ のぼり竜〔伊方町湊浦 伊方八幡神社境内〕
昭和52(1977)年8月28日
⭕️ 不動明王像〔伊方町川永田 弘法大師堂〕
【弘法大師堂全景】
昭和53(1978)年9月吉日
⭕️ 八尺龍〔伊方町川永田 八尺(やさか)神社境内〕
昭和54(1979)年6月吉日
⭕️ 弘法大師像〔金山出石寺 駐車場付近〕
【参考】金山出石寺ホームページ
昭和55(1980)年6月吉日
⭕️ 二宮金次郎像〔伊方町立伊方小学校〕
【参考】伊方町立伊方小学校ホームページ
昭和58(1983)年
⭕️ 不動明王像・修行僧像〔伊方町湊浦 妙楽寺境内〕
なお、これらの像の背後には、伊方町有形文化財に指定された五輪塔がありました。被葬者が明確で、年号が判明する五輪塔としては、伊方町最古のものだそうです。
【解説板】
昭和59(1984)年2月吉日
⭕️ 修行大師像〔伊方町河内 河内公園内〕
【寄贈年が刻まれたコンクリート】
【アクセス】
平成元(1989)年旧3月21日
⭕️ 空海像〔伊方町川永田〕
【奉納日が記された石板】
空海像の側にあった大乗妙典供養塔と三界萬霊地蔵様。寛政11年とありますから、寛政の飢饉の死者を祀るために奉納されたものでしょうか?
平成11(1999)年8月
⭕️ 伊方町特別養護老人ホーム「つわぶき荘」入り口に立つ鶴と亀の像〔伊方町湊浦〕
兵頭寛一氏がお亡くなりになったのは平成12〔2000〕年です。この作品は最晩年の作品ということになりますね。
いかがでしたか。佐田岬半島ミュージアムの高嶋副館長さんによれば、兵頭寛一氏が制作した作品が各地に点在しているとのこと。これは探索しなければいけませんね。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
【参考文献等】『佐田岬民俗ノート』
『佐田岬デジタル博物館(仮)Facebookページ』
『広報伊方町第107号(昭和44年6月1日刊行)』
『広報伊方町第209号(昭和54年8月10日刊行)』