正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう! 石手川堤へ①
『散策集』吟行ルート
- 9月20日 石手・道後方面へ … 柳原極堂とともに
- 9月21日 御幸寺山麓へ … 柳原極堂、中村愛松、大島梅屋とともに
- 10月2日 中の川、石手川堤へ … 子規ひとりで
- 10月6日 道後湯之町へ … 夏目漱石とともに
- 10月7日 雄郡・今出・余戸へ … 子規ひとりで村上霽月を訪れる
今回は10月2日に石手川方面への吟行ルートを確認しましょう。
先生、前回の吟行からかなり時間が経っています。何かあったのですか?
実は、前回の吟行後に子規の体調が悪化してしまったのです。また、雨天が続いたこともその理由です。
えっ、そうなのですか?
そうなのです。このことについて子規自身が『散策集』に記載しています。記述を確認しましょう。
吟行の期間が空いてしまった理由
明治28年10月2日 子規子
前月の末より日毎日毎雨のみふりまさりたるが、二三日〔9月23日〕は逆上の気味にて寝つ起きつ運坐連俳〔うんざれんはい〕などに心をつからせしめたためにや、二五日〔9月25日〕の朝鼻血したたかに出でたり。やがて血もとまりければ、其日も例の如く連俳運坐に暮らし、二六日〔9月26日〕の朝は
逆上の人 朝がほに 遊ぶべし
など戯れしが、此日も前日の如く血おびただしく出でぬ。さりとて訪来る〔おとずれきたる〕人をことわらん程にもあらねば、午後は連俳の衆に向ひかにかくと説きつ笑ひつする程に、ともすれば鼻血一滴二滴落つる事多く、つひに一坐をことわりて却〔かえ〕りて人々に介抱せられなどす。27日〔9月27日〕ハいささかながら鼻血時々やまず、此日よりハ安静を守りて臥し居りしかば、廿八日〔9月28日〕には全くやミぬ。それより四五日を経て、天気順にをさまると共に我病も癒えたり。さらば例の散歩に出かけまほしくて、十月二日只ひとり午後より寓居〔愚陀仏庵のこと〕を出で藤野に憩ひ、大原にいこひ、そこより郊外に出でんとて、中の川を渡り八軒家を過ぎ、汽車道に添ふて石手川の土手に上る道々の句。
『子規遺稿 散策集』 ※ 注釈は筆者が加筆
※ 運坐連俳 … 多数の人が集まり一定の題によって句を作り互選する会のこと。
大病を経験した子規にとって、二日続けて長距離を歩いたことは、やはり相当体に負担をかけてしまっていたのですね。
そうですね。最悪のコンディションであるにもかかわらず、俳句を学びに来る仲間たちのために一緒に取り組もうとする姿勢は、子規の仲間たちへの思いやりと句作への執念を感じますね。
本当にすごいですね、僕にはできないな…。先生、記述の最後の方に出てくる「藤野」「大原」とは何ですか?
二人とも子規の叔父です。二人の履歴を確認しましょうか。
- 「藤野」… 藤野 漸〔すすむ〕。第五十二銀行〔現 伊予銀行〕の創立・経営に携わった。自宅が三番町にあった。
- 「大原」… 大原恒徳〔つねのり〕。子規の父が亡くなったあと正岡家の後見人として経済的援助を続けた。藤野漸と同様第五十二銀行の創立・経営に携わり、支配人も務めた。自宅が中の川子規旧居址付近にあった。
なるほど。二人とも子規の人生に大きく関わった方々なのですね。
その通りです。ちなみに、藤野漸の自宅は、現在大原観山住居跡の説明板がある辺りにありました。子規旧居址の場所とともに地図で確認しておきましょう。
非常に近いですね。
そうですね。子規はこの日、二人の自宅に立ち寄ってから石手川の土手を目指しています。現況の様子を写真で確認しましょう。子規旧邸跡のやや西側に「子規母堂令妹住居跡」もありますので、合わせて見てみましょうか。
さて、子規がたどった吟行の道を確認していきましょう。『散策集』の記述では「藤野」「大原」「中の川を渡り」「八軒家を過ぎ」「汽車道に添ふて」などのキーワードが書かれていますが、これだけではルートの推測ができません。柳原極堂著『友人子規』の記述に頼りましょう。
柳原極堂の回想
二番町の上野〔愚陀仏庵のこと〕を南へ出で、三番町を少し西へ下り、五十二銀行の角を南へ曲りて千舟町に出でんとする少し手前左側の四十八番地なる藤野漸氏方を訪ひ、それより千舟町を少し西へ下り、又左折して湊町四丁目に出で少し西へ歩みて又左折し行くこと一町足らずにて俗に新丁と稱〔しょう。称と同じ。〕する十字路あり、其處を西へ数十歩にして左側なる十番地の大原恒徳氏方に著したるべし。
『友人子規』 ※ 注釈は筆者が加筆
うわーっ、細かい!極堂はよく憶えていましたね。
いえ、これは当時の町並みを思い出しながら、極堂が吟行ルートを推測したものです。でも彼は松山で暮らしていましたから、ここまで細かく憶えているのですね。
確かに、私も自分の生活圏の道はよく知っています。
極堂が推測した吟行ルートを現在の地図に当てはめて見ると、次のようになります。
なるほど。
このルートが正確かどうかは誰にも分かりません。しかし、昭和18年に刊行された『友人子規』の記述を現在の地図に当てはめてみるのはなかなか楽しいですね。松山中央郵便局の南側に建てられている「第五十二国立銀行跡」碑を確認しましょうか。
大原恒徳邸を出た子規は、中の川を渡って石手川の土手を目指しました。次はその吟行ルートを確認していきましょう。
[つづく…]