「松山札辻より◯里」里塚石を探索せよ!Part.2-今治街道・波止浜街道編⑤-

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 皆さんは下の写真の場所を訪れたことはありますか?「札之辻」と刻まれた石碑が2種類建てられている場所です。

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 左側写真に写っている「里程」碑の裏面に、札之辻の由来が刻まれています。

札之辻の由来

 松山札之辻は、松山城と大林寺(城主代々の墓所)を結ぶ紙屋町の通りと、江戸時代松山随一の繁華街であった本町通りとの交差点にあたり、当時松山藩の制札所(高札場とも言う)のあった所で、伊予国の交通の起点となっていた。「松山叢談」によれば、ここから五大街道の里程が始まる。

 「松山札之辻より何里」の石の里程標は、寛保元年(1741年)松山藩主第六代松平定喬公の時に、祐筆の水谷半蔵に書かせたものと伝えられている。

 いま里程標は、各街道に合計三十数本が残存している。

  昭和60年10月 建設省 松山工事事務所

          (社)  四国建設弘済会

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 上の写真にも写っていますが、松山札之辻を出発点とする各街道の名称と各地点までの距離を以下に記します。

金毘羅街道 小松まで十一里 金毘羅まで三十一里

土 佐 街 道 久万まで六里  土佐まで二十五里

大 洲 街 道 中山まで七里  大洲まで十三里

今 治 街 道 北条まで四里  今治まで十一里

高 浜 街 道 三津まで一里  高浜まで二里

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 「札之辻の由来」にもある通り、ここを起点に延びた街道沿いには、道路の方向や距離などを示すため、一里〔約4km〕ごとに「里塚石〔りつかいし〕」が建てられました。この石が昭和60年当時、30数本残存しているというのです。

「松山藩道路元標」と刻まれている
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 これは、その里塚石を求めて探索した記録です。当時の各街道が現在のどの道にあたるのかも含めてまとめていきます。第2回は松山市から今治市に向かう今治街道を巡ります。この街道は今治市大西町で今治市市街地方面と波止浜方面とに分岐し、後者は波止浜街道とも呼ばれています。それでは始めましょう。

【参考資料】ブログ「四国の古道・里山を歩く」今治街道を歩く

Part.2 今治街道及び波止浜街道沿いに建てられた里塚石⑤

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 前回は「七里」里塚石までのルートとその途上にある史跡を紹介しました。本稿では、「七里」里塚石から「十里」里塚石までのルートと史蹟を紹介していきます。今治市菊間町-今治市大西町-旧今治市間のどのルートが今治街道だったのでしょうか?それでは始めましょう。

松山札辻より八里」里塚石

「松山札辻より八里」里塚石〔今治市立亀岡小学校にて撮影〕
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 「八里」里塚石は現在、今治市立亀岡小学校にありますが、元は別の場所に建てられていました。元の場所も含め、「七里」里塚石からここまでのルートを地図に示します。

「七里」里塚石から「八里」里塚石までのルート〔青線が今治街道。国土地理院電子国土基本図から作成〕
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 「七里」里塚石がもとあった場所は「JR早山(葉山)トンネル」付近で、カフェランチ・マムの手前の道を「あばらこ池」に向かって進んだ所です。この付近の道について、『伊予の遍路道(平成13年度)』に次のような記述がありました。

「七里」里塚石がもとあった場所付近の道について

 八幡〔注:八幡大神神社のこと。カフェランチ・マムの西側に神社の地図記号がある〕前辺りの道は幾分上りであるが、山を削り下げて明治43年(1910年)に開通した。葉山・高田へと続く海岸線の道で、現国道へと発展したものである。それ以前の道は、この八幡前辺りから右側の山道に入って、旧な坂道を上がり「あばらこ池」の土手に出ており、「松山札辻より七里」の里程石はこの池の下の葉山トンネルの葉山側辺りにあったという。〔中略〕

 『今治街道』によると、旧街道は里程石の辺りから東に下ってJR線と国道を横切り高田集落に入るとしているが、東側に下る道は消滅して確認できないとも記している。

『伊予の遍路道(平成13年度)』 ※ 注釈・下線及び太字は引用者による
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 カフェランチ・マムから先の現国道196号になっている道は、明治43〔1910〕年までなかったのですね。なお、消滅したとされる東側に下る道とは、「あばらこ池」と墓地との間にある道のことです。

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 なお、『今治街道を歩く(3)』によれば、現在、「あばらこ池」から高田集落へ続く別ルートがあるとのことです。記事を引用します。

高田集落へ続く道

 あばらこ池で左折した先の墓地手前左手に墓地の背後へ上がる道があり、登って行くと峠まで農道が続いており、峠には葉山から車道が上がってきているので、山越えできることが分かった。

『今治街道を歩く(3)』
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 先の地図に記した街道のルートは、この記述を参考にしています。さて、峠を越えた後、今治街道は葉山バス停付近で国道196号を離れ、高田集落を通過しました。

高田集落の街道筋に建てられた遍路道標
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 上の写真は、太陽石油(株)四国事業所の入り口に建てられている遍路道標です。刻まれている文字から、この道標は中務茂兵衛が建立〔明治25年〕したものであることが分かりますね。街道は写真の奥から手前へ、さらに現 太陽石油菊間製油所の敷地内へと続きました。

【参考】四国遍路情報サイト「四国遍路」中務茂兵衛標石記事まとめ

太陽石油菊間製油所敷地内へと延びる今治街道
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 敷地内に入ることができませんので、街道がどのように続いていたかは分かりません。この先にお遍路さんの休憩所としても活用されている青木地蔵堂があることから、地蔵堂西側の道に出ることは間違いないでしょう。

弘法大師と青木のお地蔵さん

青木地蔵堂の南側にある「青木水」と呼ばれる弘法大師の御加持水がある場所
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 青木地蔵堂の由来が「今治商工会議所ホームページ 今治地方の伝説集」に記載されています。

青木地蔵堂の由来

 菊間町の種に円福寺の境外寺として知られる青木地蔵堂があります。昔、弘法大師が四国巡行の途中、この地に立ち寄られ、村人に有難い仏の道についてご説教されるとともに御手ずから地蔵菩薩像を納められました。後の人が「青木地蔵」(青木のお地蔵さん)と呼ぶようになったのはその際、記念に青木を植えられたからだと言われています。昔ほどではないにしても、今でも青々とした木々が茂っています。

「今治商工会議所ホームページ」今治地方の伝説集
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 そしてこの地には、上の写真にある「御加持水」の伝説も伝えられています。先述の「今治商工会議所ホームページ 今治地方の伝説集」の記事を見てみましょう。「御加持水」は「青木水」とも呼ばれているようです。

「弘法大師 御加持水」の由来

 丁度弘法大師がお立寄りになった頃、このあたり一帯は大日照りで、井戸水もかれてしまい人々は飲み水の不足で困っていました。このことを知った弘法大師は、ご祈とうをされ災難を除き願いをかなえられるように杖でもってこの地をたたかれ、村人に掘ってみるように教えられました。村人が指さすところを少し掘ると泉のような清水がこんこんとわき出ました。それ以来、どんな日照りの時でも水がかれることなく四季を通じてきれいな水が出るので、人々に大変喜ばれています。弘法大師が、この水を加持して病人に施されると病気がたちまち治ったそうで、今でも、この青木のお地蔵さんにお参りして御加持水を飲むと病気がよく治ると言われています。特に、下の病には霊験あらたかと言われ、「腰・下のお地蔵さん」とも呼ばれます。〔後略〕

「今治商工会議所ホームページ」今治地方の伝説集 ※ 下線は引用者による
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 同ホームページによれば、御加持水を瓶に入れてもって帰る人や、願いがかなえられ治ったお礼としてぞうり、松葉杖・普通の杖・とれたギプス等を献納する人もいるそうです。また、毎月24日は縁日とされ、参詣者で賑わうそうです。


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 さあ、今治街道の旅を続けましょう。青木地蔵堂からさらに北へ上がると、太陽石油で寸断された街道の続きに出ます。右に曲がって進むとすぐ国道196号です。しばらく国道を進むと、国道が左へカーブする所に直進する細い道〔県道167号=伊予亀岡停車場線〕があるので、この道に入ります。この道をしばらく進むと、亀岡小学校に到着します。「八里」里塚石は、正門の左の庭園内に建てられています。

「八里」里塚石がもとあった場所までのルートと史蹟

「七里」里塚石から「八里」里塚石までのルート〔青線が今治街道。国土地理院電子国土基本図から作成〕
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 「八里」里塚石がもとあった場所は、高城の変電所付近だったそうです〔地図の右上に示す〕。この間にもいくつか史蹟がありましたので紹介します。

ア.亀岡蔵本跡

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 亀岡小学校前の道〔今治街道〕を東進すると亀岡郵便局がありますが、その手前20mほどの左側、金網フェンスの駐車場東南隅「亀岡蔵本跡」の石碑が建っています。

「亀岡蔵本跡」碑
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 ブログ「楽しく遍路 四国遍路のアルバム」に亀岡蔵本跡についての解説がありましたので引用します。

亀岡蔵本跡

 亀岡蔵本跡は、亀岡小学校の原点、宮ノ下学校が在った所でもあります。近隣三ヶ村(種村、佐方村、別府村)が共有する郷倉(蔵本)が当所に有り、宮ノ下学校は、それに敷設して明治7(1874)、開校されました。郷倉とは、上納前の年貢や救荒食糧の保管、貯蔵場所です。

 宮ノ下学校は、明治11(1878)、廃校となり、別途、佐方には中曽根学校、種には協和学校が新築されますが、前述のように、種村・佐方村が合併。学校も統合されて、亀岡尋常小学校が誕生しました。

ブログ「楽しく遍路 四国遍路のアルバム」元遍照院跡から青木大師、亀岡、大西、獅子舞
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 ここは年貢米等が収納されていた場所であり、学校でも在ったのですね。「今治街道を歩く(4)」ではこの他に、「犯罪者を収容する施設もあり、収監されることを『お蔵入り』と言った」と記載されています。今治街道は、亀岡蔵本跡を過ぎてさらに東へ続きます。

今治街道〔佐方集落〕

イ.中務茂兵衛の遍路道標

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 上の写真の場所からさらに東進すると、集落のはずれに三叉路があり、そこに中務茂兵衛が建立した遍路道標が建てられています。

中務茂兵衛が建立した遍路道標
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 この遍路道標は大正2〔1913〕年に建立されたもので、「新道」というのは明治43〔1910〕年に完成した道(現国道196号の原型)を指します。なお、遍路道標の右側に延びる道が今治街道で、この道を真っ直ぐ進むと国道196号を横断して高城集落に入ります。

ウ.遍路道標と常夜燈

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 高城集落に入ってすぐ右手に遍路道標と常夜燈が建てられていました。

遍路道標には「円明寺」及び「延命寺」の寺名が刻まれている。
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 この前の道を真っ直ぐ進むと国道196号に再び合流しますが、その前に高城の変電所があります。この辺りに「八里」里塚石があったと言われています。

「松山札辻より八里」里塚石があった場所。

松山札辻より九里」里塚石

「松山札辻より九里」里塚石と遍路道標〔今治市大西町宮脇にて撮影〕
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 「九里」里塚石は、今治市大西町宮脇の今治街道沿いにあります。「八里」里塚石からここまでのルートと史跡を確認しましょう。

「八里」里塚石から「九里」里塚石までのルート〔青色の線が今治街道。国土地理院電子国土基本図から作成〕
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 「八里」里塚石がもとあった高城変電所付近から再び国道196号を東進します。しばらく行くと右手に「田中仏光堂」の看板が見えるので、そこを過ぎた所で右に入る細い道に入ります。これが今治街道です。この道を真っ直ぐ進み、旧道と現国道とが再び合流する地点に史跡がありますので紹介します。

碇掛八幡宮

菅原道真イラスト
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 碇掛は「いかりかけ」と読みます。碇掛八幡宮は菅原道真を祭神としているのですが、どのような関係があるのでしょうか?

碇掛八幡宮 御由緒

 仁和四年(888)三月讃岐の国の国守であった菅原道真公は官命により此の国の風俗を御視察のため瀧宮の官舎を御出立なさって、伊豫の国宇摩、新居、周布、久米、浮穴、温泉、和泉、風早、伊豫、喜多の地を巡り和気郡御津の港より海路にてお帰りの時、急に風が起こり波は荒れ船は木の葉の様に揺れ漸く此の浦に碇を止め危難を遁れ上陸され、コガの大木の茂れる下に紀伊の国より勧請せる天津神熊野皇太神を始め天穂日命を斎祀る古宮に菅公幣を奉り一首を詠じられた。

 波乱波乱(ばらばら)と 霰(あられ)ふる家の板疵 苔むすかたに音なしの宮 〔後略〕

 

「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」ホームページ 碇掛天満宮  ※ 下線及び文字の着色は引用者による
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 「碇掛」という名称は、嵐から船等を守るために碇を下ろして船をつけたという伝説がその由来だったのですね。伊予国と菅原道真との関係は、以前当ブログでも紹介しています。リンクを貼っておきますので、ご一読ください。

【参考】伊予国における菅原道真の足跡をたどろう!綱敷天満宮〔今治市〕と履脱天満宮〔松山市〕

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 この後国道196号を進み、星の浦海浜公園付近で再び旧道に入ります。下の写真が旧道への入り口です。

旧道への入り口付近〔今治市大西町〕
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 速度制限時速30kmの標識の右側に細い道がありますね。現在は県道15号〔大西波止浜港線〕となっていますが、これが旧今治街道です。この道を真っ直ぐ進み、今治市立大西小学校付近で踏切を越えるとすぐ左手に「九里」里塚石があります。

「松山札辻より九里」里塚石と遍路道標〔今治市大西町宮脇にて撮影〕※ 右側には遍路道標も建てられている。
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 「九里」里塚石の側に建てられている解説板には、里塚石が建てられている場所が記されていました。

「九里」里塚石の側に建てられている解説板
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 記されている里塚石のうち、波方小学校の所にある「十一里」里塚石のみ発見できておりません。もし所在をご存知の方は、コメント欄にてお知らせいただければ助かります。「発見」と言えば、「九里」里塚石の対面にある渡部石材の敷地内二宮金次郎像がありました。

渡部石材の敷地内にある二宮金次郎像〔今治市大西町宮脇〕
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 次は「十里」里塚石です。

松山札辻より十里」里塚石

「松山札之辻より十里之地」里塚石〔今治市阿方にて撮影〕
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 「十里」里塚石は、JAおちいまばり乃万支店前〔今治市阿方〕にあります。「九里」里塚石からここまでのルートを地図で確認しましょう。

「九里」里塚石から「十里」里塚石までのルート〔青色の線が今治街道。国土地理院電子国土基本図から作成〕
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 「九里」里塚石から街道を真っ直ぐ進み、JR大西駅を過ぎた所で右折します。あとは真っ直ぐ進めば「十里」里塚石が建てられているJAおちいまばり乃万支店です。この間にある2つの史跡を紹介しますね。

ア.旧大庄屋井手家

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 門前に設置された解説板には、次のように記されていました。

天水瓶のある旧大庄屋井手家

 江戸の初期、徳川方に味方した大庄屋井手家は、その功績により「何んでも望みをかなえてやる」とのお達しで、わらぶきの屋根を瓦に変え、防火用として屋根に天水瓶を置くことを許された。

 その後、松山藩主の参勤交代の時には本陣(定宿)となっていた。

 昭和9年(1934)に大井村が譲り受け、同18年内部や窓などを大改造し、役場として使用され同50年(1975)まで続いた。その後、農協や漁協にも利用されたこともある。

       大西町史談会

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 なるほど。本陣や役場などにも使用されていた屋敷なのですね。なお、ブログ「レトロ旅えひめ巡り」によれば、現存する古民家で屋根に天水瓶があるものは全国的にも珍しいとのこと。天水瓶をズームで撮影しましたのでご覧ください。

旧大庄屋井手家の天水瓶

【参考】ブログ「レトロ旅えひめ巡り」なぜ屋根に天水瓶。庄屋屋敷の謎。【3-1】

【参考】ブログ「レトロ旅えひめ巡り」なぜ屋根に天水瓶。庄屋屋敷の謎。【3-2】

【参考】ブログ「レトロ旅えひめ巡り」なぜ屋根に天水瓶。庄屋屋敷の謎。【3-3】

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 全国的に貴重な建築物であるようですが、現在では全く使用されていないようにも見受けられます。建物の保存・活用をお願いしたいところです。

イ.高札場跡及び遍路道標

今治街道〔右折〕と波止浜街道〔直進〕との分岐点
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 この場所は、かつて「大井新町札場」と呼ばれ、藩政時代の大制札場〔藩の掟・条目・禁令などを書いた板札を立てた場所〕であったそうです。ここから真っ直ぐ続く道が波止浜街道右折して続く道が今治街道になります。この場所を右折し、しばらく進めば「十里」里塚石に到着します。

「松山札之辻より十里之地」里塚石〔今治市阿方にて撮影〕

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 本稿は以上です。次回は波止浜街道筋に建つ里塚石を紹介します。いよいよ今治街道・波止浜街道編の最終回。どうぞご期待ください。

Forward.今治街道・波止浜街道編④

Next.今治街道・橋浜街道編⑥

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