「松山札辻より◯里」里塚石を探索せよ! Part.4-大洲街道編-

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 皆さんは下の写真の場所を訪れたことはありますか?「札之辻」と刻まれた石碑が2種類建てられている場所です。

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 左側写真に写っている「里程」碑の裏面に、札之辻の由来が刻まれています。

札之辻の由来

 松山札之辻は、松山城と大林寺(城主代々の墓所)を結ぶ紙屋町の通りと、江戸時代松山随一の繁華街であった本町通りとの交差点にあたり、当時松山藩の制札所(高札場とも言う)のあった所で、伊予国の交通の起点となっていた。「松山叢談」によれば、ここから五大街道の里程が始まる。

 「松山札之辻より何里」の石の里程標は、寛保元年(1741年)松山藩主第六代松平定喬公の時に、祐筆の水谷半蔵に書かせたものと伝えられている。

 いま里程標は、各街道に合計三十数本が残存している。

  昭和60年10月 建設省 松山工事事務所

          (社)  四国建設弘済会

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 上の写真にも写っていますが、松山札之辻を出発点とする各街道の名称と各地点までの距離を以下に記します。

金毘羅街道 小松まで十一里 金毘羅まで三十一里

土 佐 街 道 久万まで六里  土佐まで二十五里

大 洲 街 道 中山まで七里  大洲まで十三里

今 治 街 道 北条まで四里  今治まで十一里

高 浜 街 道 三津まで一里  高浜まで二里

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 「札之辻の由来」にもある通り、ここを起点に延びた街道沿いには、道路の方向や距離などを示すため、一里〔約4km〕ごとに「里塚石〔りつかいし〕」が建てられました。この石が昭和60年当時、30数本残存しているというのです。

「松山藩道路元標」と刻まれている
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 これは、その里塚石を求めて探索した記録です。里塚石が置かれた場所だけでなく、里塚石付近に残る史跡も紹介していきます。第4回は大洲街道です。松前町と伊予市との境がかつての松山藩と大洲藩の藩境ですので、松山藩が街道筋に設置した里塚石は松山市二基・松前町一基の計三基です。それぞれの里塚石の場所を地図で確認しましょう。

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 大洲街道は、松山札之辻を起点として松前町・伊予市・犬寄峠・中山町・千部峠・内子町・泉ヶ岡峠を通り大洲に至るルートです。しかし、現在は旧街道の全てを辿ることはできません。なぜなら、消滅してしまった区間があるからです。これについて、『大洲街道を歩く(1)』の記述を引用します。

 ここ〔引用者注:松山市和泉北3丁目にある荒神社と泉永寺のこと〕からは大略南西方向に重信川の出合橋まで3km余り進むのだが、明治から大正にかけて耕地整理がおこなわれたため旧街道はほぼ消滅している。

『大洲街道を歩く(1)』
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 ですので、本稿では大洲街道のルートと街道筋の史跡を次の3つの区間に分けて紹介したいと思います。

  • 区間①:松山札之辻から荒神社・泉永寺まで
  • 区間②:荒神社・泉永寺から出合橋まで
  • 区間③:松前町内の旧街道
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 今回は、松山藩領と大洲藩領との境に建てられている藩境の碑までをまとめました。それでは始めましょう。

【参考資料】ブログ「四国の古道・里山を歩く」大洲街道を歩く/『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』

区間①:松山札之辻から荒神社・泉永寺まで

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 この区間の旧街道のルートは、下の地図の通りです。

松山札之辻から荒神社・泉永寺までの旧街道のルート〔国土地理院電子国土基本図から作成〕
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 旧街道は松山札之辻から約200m程西進して左折し、萱町商店街を南へ下ります。この辺りは加藤嘉明が城下町を建設した際に町人町とした所で、それを語源とする地名が今でも残されています。列挙しますね。

  • 萱町:茅職人〔=屋根職人〕の集団が集住した場所
  • 松前:現在の伊予郡松前町の有力商人を地租免除という特権を与えて集住させた場所
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 なお、古代まで遡ることができる地名は次の通りです。

  • 味酒:職業としての「味酒部〔うまさけべ〕」が由来。お酒の醸造が盛んだった。
  • 古町:古い時代に商業地域として繁栄していた。
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 なお、大洲街道の起点付近であるこの辺りは城下町松山の西端でもあります。昭和22年に米軍が撮影した航空写真を見てみると、現在とは住宅の分布が全く異なることが分かります。

昭和22〔1947〕年の松山〔国土地理院ホームページ掲載の航空写真より〕
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 伊予鉄道古町駅及び線路の東西で土地利用が全く異なっていますでしょう。この辺りは町人町として形成されただけでなく、松山の歴史を学ぶ上で必ず訪れるべき寺社があります。旧街道を辿る前に、この辺りに鎮座する寺社についてまず紹介しますね。

阿沼美神社

阿沼美神社
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 「あぬみじんじゃ」と読みます。この神社は、創建当初は現在松山城がある勝山に鎮座していたそうです。「愛媛県神社庁」ホームページから神社由緒を引用します。

 この地方の総鎮守として、往古勝山の峰(現在の城山)に鎮座していた。久米氏の氏神で、延喜式内名神大社である。その後、越智氏が国司となり、越智氏の氏神も祀る。慶長年間加藤嘉明により現在地に移遷される。味酒神社と呼ばれていたこともある。藩制時代、松山藩の崇敬社であった。旧県社。それぞれの時代の統治者の尊崇を受ける。

『愛媛県神社庁』ホームページ 阿沼美神社

【参考】「愛媛県神社庁」ホームページ 阿沼美神社

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 久米氏といえば、松山市久米町という地名の由来となった古代豪族です。藤原宮から出土した7世紀後半の木簡に「久米」の名が記されているとのこと。以後、各時代の権力者の尊崇を受けている由緒ある神社です。境内には、多くの俳人の句碑が建てられていました。

【栗田樗堂】

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 栗田樗堂〔1749〜1814〕は造り酒屋に生まれ、同業の栗田家に入婿後、7代目の戸主として家業に励むかたわら松山藩の町方大年寄として町政に尽力した人物です。彼と俳句との関係について、ブログ『EEKの紀行 春夏秋冬』の記事を引用します。

 栗田樗堂は、松山市松前町酒造業豊後屋後藤昌信の三男として寛延2年(1749)8月21日生まれる。本名政範、通称貞蔵、俳号は、はじめ畹室・蘭芝、のち息陰・樗堂と改めた。同町酒造家廉屋こと栗田家に入夫し、7代目与左衛門専助と称し、5代目与左衛門政恒(俳号・天山)が初代二畳庵を興したのを継いで、二畳庵を再興した。栗田家は松山きっての造り酒屋で、近年まで、その銘酒「全世界」・「白玉」・「呉竹」の名は有名で、他店の酒よりも値がよかった。樗堂は、家業の酒造業で財をなした外に、明和8年より町方大年寄役見習、大年寄、大年寄格となり、享和2年(1802)53歳の時、病のため辞したが、その間、大年寄であること通算20数年に及んだことでも、彼の人柄と人望の程がうかがえることがわかる。その間、俳諧に親しんで、天明6年(1786)当時の全国諸芸の達人を示した書「名人異類鑑」に、38歳の樗堂は、早くも「俳諧上々、廉屋左衛門」と記された。天明7年、京都に上がり、加藤暁台に学び、近世伊予の第一の俳人と言われた。小林一茶は、その師竹阿の旅の跡をたどり、寛政7年(1795)と翌年の二度、樗堂を訪ねており、名古屋の同門井上士朗も親交があり彼を訪ねている

 寛政12年(1800)(庚申の年)、松山城の西、味酒の地に「古庚申」と称する青面金剛を祀る祠の近くに、その年の「干支」との祠の名に因んで「庚申庵」を建てて、風雅な生活を楽しみ「庚申庵記」を書いた。寛政1年(1789)妻の没後、安芸(広島県)三原藩の宇都宮氏より後妻を迎えた縁で、安芸の御手洗島(大崎下島)へ移り、ここにも二畳庵をいとなんで没する迄の約10年間この地で過ごした

「一畳は浮世の欲や二畳庵」・・樗堂

 味酒二丁目にある庚申庵入口に句碑があり、「草の戸の古き友なり梅の花」、樗堂を訪ねた年若い小林一茶は、寛政7年・8年と二度二畳庵(現、阿沼美神社にあったとされる樗堂の最初の庵)に滞在し、生涯の交友を結んだのはこの庵であった。樗堂は、常々私の名はあまり外に出さぬようにと言っていたそうだ。当時伊予松山に俳人樗堂ありとはあまり知られていなかった。芭蕉や多くの文人がしたように、「名誉を求めず一介の旅人として」御手洗の島で亡くなった。66歳であった。

ブログ『EEKの紀行 春夏秋冬』俳句の街松山の句碑巡り 17 栗田樗堂  ※ 太字及び下線は引用者による

【参考】ブログ『EEKの紀行 春夏秋冬』俳句の街松山の句碑巡り 17 栗田樗堂

【参考】庚申庵史跡庭園ホームページ

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 小林一茶とも交流があった人なのですね。ちなみに、二畳庵はこの句碑が建てられている辺りにあったそうです。また、御手洗島へ移る前に彼が暮らしていた庚申庵は今なお当地に残されています。彼の終焉の地となった御手洗島を訪れましたので、写真をご覧ください。

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 彼のお墓は、満舟寺の境内にあります。このお寺の石垣は戦国時代と江戸時代にそれぞれ築かれたものがそのまま残されていて、時代による石垣造りの技法の違いを学ぶことができます〔呉市指定文化財〕。

【参考】呉市豊町観光協会ホームページ 見たらいい町・御手洗

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 樗堂は松尾芭蕉を慕い、蕉風復興に尽くしたとのことですが、阿沼美神社境内に芭蕉の句碑が二基建てられているのは樗堂との関わりがあってのことなのでしょうか?

【松尾芭蕉】

【参考】『芭蕉翁顕彰会』ホームページ 俳聖 松尾芭蕉

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 次は大林寺です。

大林寺

大林寺寺名石
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 ここも松山の歴史上非常に大切な寺院です。寺名石傍に立つ解説板の記載を引用しましょう。

 当寺は浄土宗月照山崇源院大林寺と称し、寛永4年〔1627年〕松山城主藩主蒲生忠知公の創建に成り禅宗見樹院と称す。

 蒲生家断絶後寛永12年〔1635年〕、松平(久松)定行公伊勢桑名より転封後菩提寺として浄土宗大林寺と改名して今日に至る。山内に在りし金森相阿弥作の心字の庭園、智徳院、智光院、法正院等の塔頭寺院も戦災の為焼失して現存せず。境内には弘安の役の勇将河野通純等の墓碑有り。又梵鐘文化15年〔1818年〕作は愛媛県指定文化財なり。

大林寺 解説板  ※ 下線は引用者による
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 松山藩第2代藩主として知られる蒲生忠知が創建した寺院なのですね。彼は若くしてなくなり、その死後に家名断絶となりました。その生涯を確認しましょう。

 慶長10年~寛永11年(1605~1634)加藤嘉明の会津転封後の松山へは、出羽国上ノ山4万石の蒲生忠知が本領の近江国日野牧(現蒲生郡日野町)を合せて24万石を得て入部した。寛永4年(1627)5月7日のことであった。当主忠知は23歳の青年で主従400人は三津に着船、帯同した家臣は蒲生源三郎らの重役はじめ高禄者以下50石以上の者であった。

 蒲生氏は藤原秀郷七代の後裔惟賢が鎌倉時代初期に近江国蒲生郡に移住し、蒲生を称したに始まるとされる。戦国時代に日野城を築いた定秀から賢秀、氏郷の三代の居城となった。氏郷の子秀行は父の跡を嗣ぎ会津60万石を領し、妻は家康の娘振姫であったが、『当代記』は人となりを常々大酒・放埓と記すが30歳で死去、二子あって兄忠郷に父の跡を受け、弟忠知は寛永3年22歳で出羽国上ノ山4万石を与えられた。

 寛永3年の暮れ、忠郷は庖府を患い、弟の忠知は上ノ山から来て看病に努めたが空しく翌4年、正月に25歳で死去、会津60万石は公収された。忠知は兄会津60万石と自らの4万石の家臣を松山24万石で扶養しなくてはならない。一般には会津知行高の三分の一と想定されたが一律ではなかった。そのためであろうか、重臣間に対立が激化し将軍家光の裁決を仰ぐという蒲生騒動が寛永7年3月に起こっている。然し民政一般についての幕府隠密の報告を見ても蒲生の風評は悪くないし徳威原の開墾計画などは池溝を作り立派であったが十分な完成結果は見られない。

 寛政11年8月18日疱瘡にて卒す29歳とのみで参勤の途上か、死去の地も定まらない。末広町興聖寺境内の墓碑は城西大林寺から移したものという。本領の滋賀県日野町には荒れ果てた日野城址と蒲生家を祀る小さな涼橋神社がある。

『愛媛県史 人物』
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 29歳とは本当に若すぎる死です。興聖寺境内の墓碑を撮影していますので、ご覧ください。

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 なお、松山藩第3代藩主となった松平定行は、藩財政の活性化を鑑みて道後温泉諸施設の充実を図った人物としてよく知られています。当ブログで以前取り上げていますので、そちらをご覧ください。

【参考】道後湯之町初代町長 伊佐庭如矢の集客戦略に学ぼう!①

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 次の写真は、大林寺境内にて撮影したものです。ご覧ください。

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 こうして見てみると、この地域は松山の歴史を学ぶ際には必ず確認をしなければならない場所であることが分かりますね。それでは旧街道の話に戻ります。旧大洲街道のルートを地図で再確認しましょう。

松山札之辻から荒神社・泉永寺までの旧街道のルート〔国土地理院電子国土基本図から作成〕
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 このルートを実際に自転車で走り、動画を撮影しました。次の動画をご覧ください〔3分31秒〕。

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 それでは、この区間にある史跡を紹介していきます。

かつて領界石があった場所

松山市湊町7丁目 ※ 奥に見える寺院は長正寺
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 ここは伊予鉄道高浜線の線路から約250m進んだ所で、中の川に架かる土橋がある交差点です。『大洲街道を歩く(1)』によれば、この辺りに「従是松山」の領界石があったそうですが、現在は行方不明とのことです。残念ではありますが、かつてはここが雄郡村と松山との領界であったのです。

雄郡神社

雄郡神社
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 雄郡神社は旧県社で、松山八社八幡の1社として知られている神社です。由緒を確認しましょう。

 社伝によれば、戦国時代に兵火に罹った折に記録を失ったため、主祭神の天宇受売命の創祀の時期は不明であるが、後に用明天皇元年〔586年〕、筑紫の宇佐八幡から八幡三神を勧請したという。元慶2年〔878年〕に従五位の下の神階を受け、延久5年〔1073年〕に源頼義により松山八社八幡の4番社に定められる。慶長5年〔1600年〕、毛利氏による三津刈屋口の戦いにて焼失したため、同19年に松山藩初代藩主加藤嘉明が社殿を復興した。元禄6年〔1693年〕、松山藩松平家4代藩主定直により再建。

Wikipedia 雄郡神社

【参考】Wikipedia 雄郡神社

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 用明天皇といえば、憲法十七条等を定めた聖徳太子の父として知られている人物です。これが本当なら非常に古い時代から鎮座する神社だということになりますね。それから三津刈屋口の戦い「三津浜夜襲」とも言われ、関ヶ原の戦いの混乱に乗じて伊予国の領土切り取りを図った毛利氏が、河野氏の旧臣や瀬戸内の水軍衆に働きかけて蜂起させた事件です。これは加藤嘉明らによって鎮圧されました。

【参考】三津厳島神社ブログ 三津浜・刈屋畑の合戦

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 雄郡神社の境内には、「左馬殿〔加藤嘉明のこと〕の松」といい、加藤嘉明が手植えしたと伝えられる松の木が残されていました〔現在は二代目〕。

左馬殿の松〔昭和37年11月松山市指定文化財〕
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 なお、雄郡神社は正岡家のうぶすな〔氏神様〕でもあり、正岡子規の家族・親戚が何度も訪れた場所でもあります。境内には子規の句碑が二基建てられていました。

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 左の句は、明治28〔1895〕年10月7日に今出の村上霽月を訪ねた際、雄郡神社に立ち寄った子規が詠んだ句です。この日の子規の行動については、当ブログで以前紹介しました。リンクを添付しますので、お時間がある時にご一読ください。

正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう!

かつて郡境石があった場所

松山市和泉北2丁目にて撮影
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 富士薬局があるこの辺りが久米郡と温泉郡との境で、郡境碑が建てられていました。この郡境碑は、現在石井公民館和泉分館前に移設されています。

馬神社

馬神社
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 国道56号を渡って南環状線の高架下をくぐって少し進んだ所を右折し、しばらく進んだ所にある小さな祠です。その由来については記録が残されていないようで、よく分かりません。『まんきんたんブログ』に次のような推測が記されていましたので引用します。

 調べていくと「馬神社」というのは、全国各地にあることがわかりました。その言われまでは不明ですが、古来から馬は神の乗り物とされ、神社に馬を奉納する習わしがあったそうです。こうして奉納され神社で飼われていた馬は神馬(シンメ)と呼ばれ、亡くなったあと霊を祀ったのが「馬神社」ではないかと思われます。神社で馬を飼っていた名残は、今でも多くの神社の境内にある神馬舎(シンメシャ)に見られます。いまだ神馬舎で生きた馬を飼っているところもありますが、ほとんどは木馬や銅像などを安置しています。あのパワースポット・大山祇神社にも、神馬舎とその傍らに「馬神社」が祀ってあります。なので、和泉北の「馬神社」は、もしかしたらかつて近くに大きな神社があったのが、神仏習合や神仏分離で主神社が消えて「馬」を祀る祠(ほこら)だけが残ったものなのかもしれません

『まんきんたんブログ』新年あけましておめでとうございます  ※ 下線及び太字は引用者による

【参考】『まんきんたんブログ』新年あけましておめでとうございます

郡境石と力石

郡境石と力石
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 石井公民館和泉分館前に移設されている郡境石です。壁に掲示してある解説板を見てみましょう。

「郡境標と力石」解説
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 この郡境石は、先ほど紹介した富士薬局付近に建てられていたものです。他の面にも文字が刻まれていましたので確認しましょう。

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 ここから西へ少し進めば、区間①の終着点である荒神社・泉永寺に到着します。

荒神社

荒神社
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 先程の「馬神社」と同様、この神社の由緒等は全く分かりません。ただ、境内には古い常夜燈がありましたので紹介します。

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 文化9〔1812〕年8月に建てられた常夜燈。正面には「金毘羅」「伊豫村」「大神宮」「村三社」「石手山」の文字が刻まれていました。210年の歴史を刻む常夜燈です。

泉永寺

泉永寺
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 真言宗豊山派に属する寺院です。地域の歴史を現在に伝えてくれる石碑が二基ありましたので紹介します。

【小野川刀淵水門開祖之碑】

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 この碑は明治25〔1892〕年に森六次郎氏が建てたもので、先祖である森宗勘氏の業績を現在に伝えてくれています。森宗勘氏は刀淵水門だけでなく、石手川から水を引くための水路である「百間樋」も完成させた人物で、農業用水確保のために尽力した方なのだそうです。

【追遠記念碑】

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 この碑は、明治2〔1869〕年に和泉村と朝生田村との間で起こった水争いの記録です。これら二基の石碑の詳細については、松山市立双葉小学校ホームページにある資料をご覧ください。

【参考】松山市立双葉小学校ホームページ 泉永寺

区間②:荒神社・泉永寺から出合橋まで

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 この区間は、明治から大正にかけて行われた耕地整理のために街道がほぼ消滅してしまっています。しかし、松山市が余土公民館の方にヒアリングして作成した動画の中に、かつての旧街道のルートが示されていました。まずはこの動画をご覧ください〔8分56秒〕。

【松山歴史まちあるき 余土編Part3「4つの街道」】

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 動画内の地図を参考にして、地理院地図に街道のルートを記してみました。ご覧ください。

大名通り〔赤〕と大洲街道〔青〕(動画内の地図をもとに国土地理院電子国土基本図から作成
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 動画によれば、大名が通る「大名通り」一般の人々が通る「大洲街道」の二種類のルートがこの区間にはあったとされていましたね。『大洲街道を歩く(1)』によれば、日招八幡大神社に向かう参道と旧街道との交差点〔地図中の青□〕に「松山札辻より壱里」里塚石が建っていたとのことです。大名通りの方には里塚石は設置されていなかったのでしょうか?なお、「壱里」里塚石は伊予鉄道余戸駅南隣の松山市役所余土支所の前にひっそりと建っています。

「松山札辻より壱里」里塚石〔松山市余土支所前にて撮影〕
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 出合までやって来た人々は「出合の渡し」を利用して重信川を渡り、現松前町へ入りました。なお、出合橋の袂には、出合橋の親柱の隣に「出合渡 松山札辻より一里十四丁」の里塚石が建てられています。

「松山札辻より一里十四丁」里塚石
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 重信川の渡しについては、当ブログにて紹介していますので、ご一読ください。

【参考】碑文から歴史を紐解く!〜出合荘前に建てられている句碑の碑文から歴史を知ろう!〜

区間③:松前町内の旧街道

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 下の写真は「出合の渡し」跡の現況を撮影したものです。

「出合の渡し」跡〔松山市方面を望む〕
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 これは松前町側から松山市方面を撮影したもので、河畔に「重信川渡し跡」と記された標柱が立てられています。重信川を舟で渡った人々は、ここからさらに大洲方面へと歩み続けました。この場所から松前町方面を見ると、下の写真の風景が眼前に広がります。

「出合の渡し」跡〔松前町方面を望む〕
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 自転車の右側に川下へ降りる細い道がありますね。昭和18〔1943〕年の大水害後に堤防工事が行われ、堤防の高さが以前よりも高くなっているので藩政時代当時の風景とは異なりますが、重信川を渡った人々はここから重信川堤防を下り、写真中央に映っている松前町立岡田小学校(青い屋根の校舎)北側の道を通って現在の県道326号〔=旧大洲街道〕に出ました。松前町内の旧街道のルートを地図で確認しましょう。

松前町内の旧街道〔青:大洲街道、赤:三津街道〕 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
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 昭和22〔1947〕年に米軍が撮影した航空写真から旧街道のルートを確認してみましょう。上の地図と比較してみてください。旧街道のルートがよく分かりますよ。

昭和22〔1947〕年の松前 ※ 国土地理院ホームページから引用
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 東レから重信川方面へ真っ直ぐ伸びる道路がないなど、現在の松前町とはかなり道路事情が異なっていますね。次は、旧街道の現況を動画で確認しましょう。平成23〔2011〕年3月に完成した「想い通り」によって旧街道が分断されていますので、動画を2つに分けました。どうぞご覧ください。

【動画① 重信川河畔-「想い通り」間】(3分17秒)

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 この区間の史跡といえば、やはり三津街道と「松山札辻より二里」里塚石です。一つひとつ確認していきましょう。

三津街道

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 地理院地図中に赤線で示したルートで、大洲街道から分岐して重信川まで続きます。街道筋に建てられた解説板を見てください。

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 解説板にある「お墓の東の竹やぶ下」の三津の渡しとは北川原の渡しのことです。三津街道を自転車で走ってみましたので、動画をご覧ください〔2分41秒〕。

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 それでは、三津街道筋にある史跡を紹介していきましょう。

【茂川啓次郎氏頌徳碑】

茂川啓次郎氏頌徳碑
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 県道から三津街道に入ってすぐのところに建てられています。解説板の文字の多くが風化のために消えてしまって読みにくいのですが、旧岡田村の職員として、また伊予郡会議員として地域の発展のために尽くした方であるようです。この場所からすぐのところにあるのが「三津の渡しまで五丁」碑です。

【「三津の渡しまで五丁」碑】

「三津の渡しまで五丁」碑
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 この碑から1分ほど進んだ所に、旧岡田村の歴史を現在に伝えてくれる重要な史跡があります。

【沖神社】

沖神社拝殿
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 現地に建てられた解説板に沖神社の由来が記されています。引用しますね。

沖神社由来

 応安八〔1375〕年、北川原開発奉行重川武衛門が塩どめを祈って小社を建立、三神〔表筒男命・中筒男命・底筒男命、総称して住吉神という〕をまつって明神社と称した。後に沖神社と改称した。古来住吉の神は、海路を守り給うといわれ航海者はたいへん尊敬し、また中古以来和歌の神とたたえられ、詠歌者の尊信するものが多かった。伝説によると、この神は沖より出現した神霊で、古来疫病回復の神として霊験があるといわれる。

 稲荷神社の境外末社である。       松前町教育委員会

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 沖神社の境内には、明治43〔1910〕年に行われた耕地整理の記念碑が建てられています。

耕地整理記念碑
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 そして、この時の耕地整理に関わり、旧岡田村を農業模範村として称揚される原動力として尽くした忽那栄左氏の生涯を綴った解説板も建てられています。

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 沖神社から重信川に向かってしばらく進み、河畔にある墓地付近に「北川原の渡し跡」の標柱があります。

【「北川原の渡し跡」標柱】

「北川原の渡し跡」標柱
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 以上で三津街道沿いにある史跡の紹介を終わります。それでは再び県道に戻り、「松山札辻より二里」里塚石へ向かいましょう。立開始までのルートを地図で再確認しましょうね。

松前町内の旧街道〔青:大洲街道、赤:三津街道〕 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成

「松山札辻より二里」里塚石

「松山札辻より二里」里塚石
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 玉生八幡神社の参道入口にありますが、これは再建されたものです。里塚石に刻まれた文字を見てみましょう。

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 もとの里塚石は、残念ながら行方が分かりません。所在をご存知の方はコメント欄にてお知らせください。さあ、「思い通り」を越えて松山藩領と大洲藩領の境に建つ郡境の碑まで進みましょう!

【動画② 「想い通り」-藩境碑間〔5分56秒〕】

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 それでは、この区間にある史跡を確認していきましょう。

ひびけしさまと常夜燈

ひびけしさまと常夜燈
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 「想い通り」を越えて数100m進んだ四つ角にあるこの石柱には、次のような伝承があります。『松前町の史跡・文化財等』ホームページから引用します。

 大昔西古泉に大火事があり、民家の大半が焼失した。再び災禍に遭遇しないようにと、「ひびけしさま」をお祀りした。明治の耕地整理時、玉生八幡大神社に移したら、村に火事がよく起きるので元の場所に戻した。

『松前町の史跡・文化財等』ホームページ
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 この碑は、過去の大火の記憶を今に伝えるために建てられたのですね。そういえば、防火に関する神様が刻まれていたような…。碑に刻まれている文字を見てみましょうか。

「ひびけしさま」の碑
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 右から「石鉄山大権現」「金毘羅大権現」「天照皇太神宮」「秋葉大権現」「瑜伽大権現」と記されていますね。一つひとつ確認してみましょう。

  • 石鉄山大権現石鎚信仰を示す
  • 金毘羅大権現香川県琴平町の象頭山の金刀比羅宮に祀られる神
  • 天照皇太神宮皇大新宮〔伊勢神宮内宮〕の別名。天照大神を祀る
  • 秋葉大権現  = 秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神。火防の霊験で広く知られ、近世期に秋葉講と呼ばれる講社が結成された
  • 瑜伽大権現  = 備前国瑜伽〔ゆが〕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神
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 「秋葉大権現」が火防の神ですね。それにしてもこの地には多くの信仰があったことがよく分かります。こちらに記されているので、隣の常夜燈には「石」「金」などの文字はありませんでした。

「義農作兵衛終焉之地」碑

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 義農作兵衛とは、享保の飢饉の際に自らの命を犠牲にして地域の人々の命を守った偉人です。彼の生涯については、松前町ホームページの該当記事をご一読ください。

【参考】松前町ホームページ 郷土の偉人 義農作兵衛

矢野地蔵と筒井門礎石

右の祠が矢野地蔵。道路左側にある◯形のコンクリートが筒井門礎石跡
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 この場所は加藤嘉明が統治していた頃の松前城の筒井門があった場所で、○形のコンクリートの場所が礎石跡です。右の祠は矢野地蔵といい、松山城築城のために松前城の筒井門を解体していた時に棟木を縛っていた綱が切れ、棟木の下敷きになり圧死した方の霊を祀っています。そして、いよいよ藩境碑です。

藩境碑

「依是南大洲領」と記された藩境碑
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 藩境碑については、解説板の文章をご一読ください。

「藩境の碑」解説板

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 以上で、松山藩が大洲街道筋に建てた三基の里塚石の紹介を終わります。このあと大洲街道は旧郡中町の中心部から犬寄峠を越え、大洲まで続きました。大洲藩領の街道筋にも遍路道標や常夜燈がたくさん建てられていますので、別の機会に記事にしたいと思います。ここまでご一読いただき、ありがとうございました。

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