「松山札辻より◯里」里塚石を探索せよ! Part.4-大洲街道編-




ここ〔引用者注:松山市和泉北3丁目にある荒神社と泉永寺のこと〕からは大略南西方向に重信川の出合橋まで3km余り進むのだが、明治から大正にかけて耕地整理がおこなわれたため旧街道はほぼ消滅している。
『大洲街道を歩く(1)』
- 区間①:松山札之辻から荒神社・泉永寺まで
- 区間②:荒神社・泉永寺から出合橋まで
- 区間③:松前町内の旧街道
区間①:松山札之辻から荒神社・泉永寺まで

- 萱町:茅職人〔=屋根職人〕の集団が集住した場所
- 松前:現在の伊予郡松前町の有力商人を地租免除という特権を与えて集住させた場所
- 味酒:職業としての「味酒部〔うまさけべ〕」が由来。お酒の醸造が盛んだった。
- 古町:古い時代に商業地域として繁栄していた。

阿沼美神社

この地方の総鎮守として、往古勝山の峰(現在の城山)に鎮座していた。久米氏の氏神で、延喜式内名神大社である。その後、越智氏が国司となり、越智氏の氏神も祀る。慶長年間加藤嘉明により現在地に移遷される。味酒神社と呼ばれていたこともある。藩制時代、松山藩の崇敬社であった。旧県社。それぞれの時代の統治者の尊崇を受ける。
『愛媛県神社庁』ホームページ 阿沼美神社
【栗田樗堂】


栗田樗堂は、松山市松前町酒造業豊後屋後藤昌信の三男として寛延2年(1749)8月21日生まれる。本名政範、通称貞蔵、俳号は、はじめ畹室・蘭芝、のち息陰・樗堂と改めた。同町酒造家廉屋こと栗田家に入夫し、7代目与左衛門専助と称し、5代目与左衛門政恒(俳号・天山)が初代二畳庵を興したのを継いで、二畳庵を再興した。栗田家は松山きっての造り酒屋で、近年まで、その銘酒「全世界」・「白玉」・「呉竹」の名は有名で、他店の酒よりも値がよかった。樗堂は、家業の酒造業で財をなした外に、明和8年より町方大年寄役見習、大年寄、大年寄格となり、享和2年(1802)53歳の時、病のため辞したが、その間、大年寄であること通算20数年に及んだことでも、彼の人柄と人望の程がうかがえることがわかる。その間、俳諧に親しんで、天明6年(1786)当時の全国諸芸の達人を示した書「名人異類鑑」に、38歳の樗堂は、早くも「俳諧上々、廉屋左衛門」と記された。天明7年、京都に上がり、加藤暁台に学び、近世伊予の第一の俳人と言われた。小林一茶は、その師竹阿の旅の跡をたどり、寛政7年(1795)と翌年の二度、樗堂を訪ねており、名古屋の同門井上士朗も親交があり彼を訪ねている。
寛政12年(1800)(庚申の年)、松山城の西、味酒の地に「古庚申」と称する青面金剛を祀る祠の近くに、その年の「干支」との祠の名に因んで「庚申庵」を建てて、風雅な生活を楽しみ「庚申庵記」を書いた。寛政1年(1789)妻の没後、安芸(広島県)三原藩の宇都宮氏より後妻を迎えた縁で、安芸の御手洗島(大崎下島)へ移り、ここにも二畳庵をいとなんで没する迄の約10年間この地で過ごした。
「一畳は浮世の欲や二畳庵」・・樗堂
味酒二丁目にある庚申庵入口に句碑があり、「草の戸の古き友なり梅の花」、樗堂を訪ねた年若い小林一茶は、寛政7年・8年と二度二畳庵(現、阿沼美神社にあったとされる樗堂の最初の庵)に滞在し、生涯の交友を結んだのはこの庵であった。樗堂は、常々私の名はあまり外に出さぬようにと言っていたそうだ。当時伊予松山に俳人樗堂ありとはあまり知られていなかった。芭蕉や多くの文人がしたように、「名誉を求めず一介の旅人として」御手洗の島で亡くなった。66歳であった。
ブログ『EEKの紀行 春夏秋冬』俳句の街松山の句碑巡り 17 栗田樗堂 ※ 太字及び下線は引用者による
【参考】ブログ『EEKの紀行 春夏秋冬』俳句の街松山の句碑巡り 17 栗田樗堂
【参考】庚申庵史跡庭園ホームページ
【松尾芭蕉】


大林寺

当寺は浄土宗月照山崇源院大林寺と称し、寛永4年〔1627年〕松山城主藩主蒲生忠知公の創建に成り禅宗見樹院と称す。
蒲生家断絶後寛永12年〔1635年〕、松平(久松)定行公伊勢桑名より転封後菩提寺として浄土宗大林寺と改名して今日に至る。山内に在りし金森相阿弥作の心字の庭園、智徳院、智光院、法正院等の塔頭寺院も戦災の為焼失して現存せず。境内には弘安の役の勇将河野通純等の墓碑有り。又梵鐘文化15年〔1818年〕作は愛媛県指定文化財なり。
大林寺 解説板 ※ 下線は引用者による
慶長10年~寛永11年(1605~1634)加藤嘉明の会津転封後の松山へは、出羽国上ノ山4万石の蒲生忠知が本領の近江国日野牧(現蒲生郡日野町)を合せて24万石を得て入部した。寛永4年(1627)5月7日のことであった。当主忠知は23歳の青年で主従400人は三津に着船、帯同した家臣は蒲生源三郎らの重役はじめ高禄者以下50石以上の者であった。
蒲生氏は藤原秀郷七代の後裔惟賢が鎌倉時代初期に近江国蒲生郡に移住し、蒲生を称したに始まるとされる。戦国時代に日野城を築いた定秀から賢秀、氏郷の三代の居城となった。氏郷の子秀行は父の跡を嗣ぎ会津60万石を領し、妻は家康の娘振姫であったが、『当代記』は人となりを常々大酒・放埓と記すが30歳で死去、二子あって兄忠郷に父の跡を受け、弟忠知は寛永3年22歳で出羽国上ノ山4万石を与えられた。
寛永3年の暮れ、忠郷は庖府を患い、弟の忠知は上ノ山から来て看病に努めたが空しく翌4年、正月に25歳で死去、会津60万石は公収された。忠知は兄会津60万石と自らの4万石の家臣を松山24万石で扶養しなくてはならない。一般には会津知行高の三分の一と想定されたが一律ではなかった。そのためであろうか、重臣間に対立が激化し将軍家光の裁決を仰ぐという蒲生騒動が寛永7年3月に起こっている。然し民政一般についての幕府隠密の報告を見ても蒲生の風評は悪くないし徳威原の開墾計画などは池溝を作り立派であったが十分な完成結果は見られない。
寛政11年8月18日疱瘡にて卒す29歳とのみで参勤の途上か、死去の地も定まらない。末広町興聖寺境内の墓碑は城西大林寺から移したものという。本領の滋賀県日野町には荒れ果てた日野城址と蒲生家を祀る小さな涼橋神社がある。
『愛媛県史 人物』
【参考】道後湯之町初代町長 伊佐庭如矢の集客戦略に学ぼう!①

かつて領界石があった場所

雄郡神社

社伝によれば、戦国時代に兵火に罹った折に記録を失ったため、主祭神の天宇受売命の創祀の時期は不明であるが、後に用明天皇元年〔586年〕、筑紫の宇佐八幡から八幡三神を勧請したという。元慶2年〔878年〕に従五位の下の神階を受け、延久5年〔1073年〕に源頼義により松山八社八幡の4番社に定められる。慶長5年〔1600年〕、毛利氏による三津刈屋口の戦いにて焼失したため、同19年に松山藩初代藩主加藤嘉明が社殿を復興した。元禄6年〔1693年〕、松山藩松平家4代藩主定直により再建。
Wikipedia 雄郡神社
【参考】Wikipedia 雄郡神社



かつて郡境石があった場所

馬神社

調べていくと「馬神社」というのは、全国各地にあることがわかりました。その言われまでは不明ですが、古来から馬は神の乗り物とされ、神社に馬を奉納する習わしがあったそうです。こうして奉納され神社で飼われていた馬は神馬(シンメ)と呼ばれ、亡くなったあと霊を祀ったのが「馬神社」ではないかと思われます。神社で馬を飼っていた名残は、今でも多くの神社の境内にある神馬舎(シンメシャ)に見られます。いまだ神馬舎で生きた馬を飼っているところもありますが、ほとんどは木馬や銅像などを安置しています。あのパワースポット・大山祇神社にも、神馬舎とその傍らに「馬神社」が祀ってあります。なので、和泉北の「馬神社」は、もしかしたらかつて近くに大きな神社があったのが、神仏習合や神仏分離で主神社が消えて「馬」を祀る祠(ほこら)だけが残ったものなのかもしれません。
『まんきんたんブログ』新年あけましておめでとうございます ※ 下線及び太字は引用者による
【参考】『まんきんたんブログ』新年あけましておめでとうございます
郡境石と力石




荒神社



泉永寺

【小野川刀淵水門開祖之碑】

【追遠記念碑】


区間②:荒神社・泉永寺から出合橋まで
【松山歴史まちあるき 余土編Part3「4つの街道」】



【参考】碑文から歴史を紐解く!〜出合荘前に建てられている句碑の碑文から歴史を知ろう!〜
区間③:松前町内の旧街道




【動画① 重信川河畔-「想い通り」間】(3分17秒)
三津街道

【茂川啓次郎氏頌徳碑】

【「三津の渡しまで五丁」碑】

【沖神社】

沖神社由来
応安八〔1375〕年、北川原開発奉行重川武衛門が塩どめを祈って小社を建立、三神〔表筒男命・中筒男命・底筒男命、総称して住吉神という〕をまつって明神社と称した。後に沖神社と改称した。古来住吉の神は、海路を守り給うといわれ航海者はたいへん尊敬し、また中古以来和歌の神とたたえられ、詠歌者の尊信するものが多かった。伝説によると、この神は沖より出現した神霊で、古来疫病回復の神として霊験があるといわれる。
稲荷神社の境外末社である。 松前町教育委員会


【「北川原の渡し跡」標柱】


「松山札辻より二里」里塚石



【動画② 「想い通り」-藩境碑間〔5分56秒〕】
ひびけしさまと常夜燈

大昔西古泉に大火事があり、民家の大半が焼失した。再び災禍に遭遇しないようにと、「ひびけしさま」をお祀りした。明治の耕地整理時、玉生八幡大神社に移したら、村に火事がよく起きるので元の場所に戻した。
『松前町の史跡・文化財等』ホームページ

- 石鉄山大権現 = 石鎚信仰を示す
- 金毘羅大権現 = 香川県琴平町の象頭山の金刀比羅宮に祀られる神
- 天照皇太神宮 = 皇大新宮〔伊勢神宮内宮〕の別名。天照大神を祀る
- 秋葉大権現 = 秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神。火防の霊験で広く知られ、近世期に秋葉講と呼ばれる講社が結成された
- 瑜伽大権現 = 備前国瑜伽〔ゆが〕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神


「義農作兵衛終焉之地」碑

矢野地蔵と筒井門礎石

藩境碑

