正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう! 今出へ④

『散策集』吟行ルート

  • 9月20日 石手・道後方面へ  … 柳原極堂とともに
  • 9月21日 御幸寺山麓へ    … 柳原極堂、中村愛松、大島梅屋とともに
  • 10月2日 中の川、石手川堤へ … 子規ひとりで
  • 10月6日 道後湯之町へ    … 夏目漱石とともに
  • 10月7日 雄郡・今出・余戸へ … 子規ひとりで村上霽月を訪れる
Teacher

 今回は、今出に到着した子規と霽月についてまとめましょう。

Takashi

 前回は竹の宮の手引松まででしたよね。そこから村上霽月の家まではどの道を進んだのでしょうか?

Teacher

 昭和22〔1947〕年米軍撮影の航空写真をもう一度見てみましょう。

昭和22〔1947〕年米軍撮影の航空写真に地名等を記入したもの  出典:国土地理院ウェブサイト
Takashi

 余戸駅の南に今出まで真っ直ぐ続く道がありますね。この道を進んだのでしょうか?

Teacher

 概ねそうなのですが、柳原極堂は駅の北側に道があったと『友人子規』で述べています。引用しましょう。

余戸駅北側の旧道

 「余戸も過ぎて道は一直線に長し」と記されてゐる通りここからは殆ど一筋道である。余土村も亦耕地整理によりて舊道〔きゅうどう〕は廢〔はい〕されているが、新舊道路略〃〔ほぼほぼ〕併行して其間隔つること僅々である。余戸驛の南側を西行するものが新道であつて、舊道は驛の北側を西に下つてゐたのである。

『友人子規』 ※ 注釈及びマーカーは筆者が加筆
Takashi

 そうなのですね。三島大明神社の南側の道を西へ進んだはずだから…、そこから続く道ですよね。

Teacher

 神社南側の集落を走る道付近の現況を写真で見てみましょう。

子規の吟行の道か?
Takashi

 フェンスで閉じられていますね。

Teacher

 ここ以外に何本か道はあるのですが、集落の場所から考えると、この道が該当すると思うのです。現在の地図でこの場所を確認しましょうか。

Teacher

 愛媛パッケージ(株)の東側に、郡中線の線路前で止まっている道がありますよね。そこが写真に写っている道です。

Takashi

 その道の南側には、線路を越えて西へ続く道がありますね。この道を通ったとも考えられませんか?

Teacher

 その可能性もあります。現在においては想像の域を出ませんが、極堂が回想しているように、余戸駅の北側を進んだことは間違いないようです。

Takashi

 分かりました。郡中線を越えてからの子規について教えてください。

Teacher

 『散策集』の記述を見てみましょう。今出へ向かう道で、子規は三つの句を詠んでいます。

今出街道を進んで

余戸も過ぎて道は一直線に長し

 渋柿の実 勝〔がち〕になりて肌寒し

 村一つ 渋柿勝に 見ゆるかな

 山盡〔つ〕きて 稲の葉末の 白帆かな

『子規遺稿 散策集』 ※ 注釈は筆者が加筆
Takashi

 渋柿を用いた句が二つも!当時は柿の木がたくさんあったようですね。先生、「山盡きて」の山とはどこのことですか?

Teacher

 おそらく垣生山だと思います。余戸から今出に進む間、右手に見えるのがこの山ですから。

Takashi

 なるほど。ということは、この句は今出にだんだん近づいてきて、海が見えてきた様子を詠んだ句なのですね。

Teacher

 その通りです。いよいよ子規は村上霽月の自宅に到着しました。『散策集』の記述を見てみましょう。

村上霽月の自宅へ到着して

霽月の村居に至る。宮に隣り、松林を負ひて倉戸前。いかめしき住居也。

 粟の穂に 雞飼ふや 一構

 鵙〔もず〕木に啼けば 雀和するや 蔵の上

 萩あれて 百舌〔もず〕啼く松の 梢かな

庭前の築山に上れば、遥かに海を望むべし。歌俳諧の話に余念なく、午〔ひる〕も過ぎて共に散歩せんとて立ち出づ。

『子規遺稿 散策集』
村上霽月邸長屋門〔復元〕
Takashi

 先生、「宮に隣り」とは何のことですか?

Teacher

 「宮」とは三嶋大明神社のことです。道を挟んで向かい側に霽月の自宅があるので、「宮に隣り」と詠んだのでしょう。

三嶋大明神社
Takashi

 なるほど。子規の句を見ると、村上霽月の自宅の様子がよく分かりますね。

Teacher

 ちなみに、柳原極堂が著した『友人子規』のなかに、村上霽月の回想がありますよ。

村上霽月の回想

 此日弊盧〔へいろ。荒れた庵のこと。自分の住まいをへりくだって言う時に用いる。〕来訪は豫告なく突然であつた。丁度吾輩は雛雞〔ひなどり〕の痘疽〔とうたん〕に薬を塗つて遣り居る處へ、人力車が門前に停つて子規居士が飄然〔ひょうぜん〕と見えたのであった。シャツの上にネルの単衣を著て兵児帯〔へこおび〕を締めて居られたと記憶する。

『友人子規』 ※ 注釈は筆者が加筆
Takashi

 事前に連絡をしていなかったのですね。それにしても、この日の子規の服装まで覚えているなんて凄いなあ。

Teacher

 子規がそれだけ皆から慕われていたということでしょう。子規が『散策集』に書いている散歩の道についても、霽月が克明に憶えています。見てみましょう。

子規と霽月が歩いた道

 種々談話して午餐〔ごさん。昼食のこと。〕後に今手の濱邊へ四五丁の砂糖蔗〔さとうしょ。サトウキビのこと。〕の畠道を通つて出で、北から南へ數町の海岸を歩き唐樋〔からとい〕といふ小さい漁港に出で、村の南を廻つて歸〔かえ〕つたのである。

『友人子規』 ※ 注釈は筆者が加筆
Takashi

 では、今出の村をぐるっと一周したということですね。

Teacher

 そういうことです。村上霽月が回想した道を昭和22年の航空写真に当てはめてみると、次のようになります。

子規と霽月の散歩道(推測)〔昭和22(1947)年米軍撮影の航空写真を筆者が加工〕  出典:国土地理院ウェブサイト
Takashi

 現在と違って建物が少ないので、村の範囲がわかりやすいですね。

Teacher

 あくまでも推測ですけどね。子規は散歩をしながらたくさんの句を詠んでいます。

霽月と散歩をしながら子規が詠んだ句

 ここは今出鹿摺〔いまづかすり〕とて鹿摺を織り出す処なり。

 花木槿 家ある限り 機の音

 汐風や 痩せて花なき 木槿垣

海辺に彳〔たたず〕めば興居嶋右に聳〔そび〕え、由利嶋正面にあたる。けふは伊予の御崎も見えずとか。

 見ゆるべき 御鼻も霧の 十八里

 夕栄〔ゆうばえ〕や 鰯の網に 人だかり

それより海岸にそふて南に行き、東に折れ、今出村を一周して帰る。

 鶺鴒〔せきれい〕や 波うちかけし 岩の上

 新田や 潮にさしあふ 落し水

 薯蕷〔しょよ。ヤマイモの漢名。〕積んで 中島船の 来りけり

 浜萩に 隠れて低し 蜑〔あま。海人のこと。〕の家

俄かに風吹き起る

 方十町 砂糖木畠の 野分哉

 稲の穂の 嵐になりし 夕〔ゆうべ〕かな

 牛蒡〔ごぼう〕肥えて 鎮守の祭 近つきぬ

 賤〔しず〕か家に 花白粉の 赤かりき

 山城に 残る夕日や 稲の花

 藪寺の 釣鐘もなし 秋の風

『子規遺稿 散策集』 ※ 注釈及び句読点は筆者が加筆
Takashi

 「花木槿 家ある限り 機の音」の句は、鍵谷カナを取り上げた際に紹介されていましたね。

【参考】伊予絣の創始者、鍵谷カナのこと

Teacher

 そうでしたね。上の写真を見ながら句を見ると、どの辺りで詠んだのか推測できますね。

Takashi

 先生、「伊予の御崎」とは何ですか?

Teacher

 はい、「佐田岬半島」のことです。

Takashi

 当時は今出から佐田岬半島が見えたのですか?

Teacher

 それは分かりません。佐田岬半島の方を見ながら詠んだとも考えられますよね。子規の句から分かることは、この日は霧が立ち込めていて、見えなかったということです。

Takashi

 なるほど。子規の句を見ると、畠に植えられていたものとか漁業の様子まで、本当によく分かります。

Teacher

 本当ですね。見るもの全てに興味を持って捉え、そのままを五七五に表現しようとする子規はやはりすごいですね。

Takashi

 本当にそう思います。

Teacher

 さて、霽月と別れた子規は、森円月の家に立ち寄ってから愚陀仏庵に戻っています。『散策集』の記述を見てみましょう。

森円月の家に立ち寄る

夕暮に今出を出で、人車を駆りて森某を余戸に訪ふ。柱かくしに題せよといはれて

 籾干すや 雞遊ぶ 門のうち

席上一詩あり

 雞犬孤村富  松菊三逕間〔正しくは、門がまえに月〕

 南窓倦書起  門外有青山

『子規遺稿 散策集』 ※ 句読点は筆者が加筆
Takashi

 夕暮に出たということは、村上霽月のところにかなりいたことになりますね。

Teacher

 これについては、柳原極堂が異を唱えています。『友人子規』の記述を見てみましょう。

柳原極堂の見解

 〔霽月は回想で〕「濱から歸つて二人の寫生吟を書いて互に俳評などして、吉といふ村の老車夫を雇つて送つたのは夕方であつたかと思ふ。」と。又散策集には「夕暮今出を出で人車を駆りて森某を余戸に訪ふ。」と記されている。両者ながら夕方今出を發〔た〕つたやうになつてゐるが、時間でいふと凡そ何時ごろであつたか、其歸路余戸に森氏を訪日、圓月、河北二氏に會〔あ〕つて雑談もなし揮毫もして後、點燈〔てんとう。灯りをともすこと。〕刻に松山に歸つたといふのであるから、今出の出發はまだ全くの夕暮時ではなかつた筈である。

『友人子規』 ※ 注釈及び太字は筆者が加筆
Takashi

 うーん、確かに。他にこのことについて回想している方は…。あっ、森円月はどうでしょうか?

Teacher

 『友人子規』の中にありますよ。見てみましょう。

森円月の回想

 自分方に来られしは午後三時なりしと思ふ。居士の揮毫とて豫め墨を磨〔す〕つて待つてゐたといふわけでもなければ、来訪後多少雑談もしたり墨を磨つたりして揮毫の後歸られたのだから、少くも一時間以上は宅に居られたと思ふ。

『友人子規』 ※ 太字は筆者が加筆
Takashi

 なるほど、確かにそうですね。でも午前中に村上霽月の家を訪問しているわけですから、かなりの時間を今出で過ごしたことに変わりないですね。

Teacher

 そうですね。そして、いよいよ『散策集』の最後の記述です。

愚陀仏庵へ帰る

直ちに其家を辞す

 白萩や 水にちぎれし 枝のさき

車上頻りに考ふる処あり知らず何事ぞ

 行く秋や 我に神なし 仏なし

點燈寓居に帰る

『子規遺稿 散策集』
Takashi

 最後の句は、子規が大病を患っていることを知っていますから、何か悲壮さを感じます。

Teacher

 そうとも取れます。しかし私は、多くの人々とのふれあいや吟行を通して見た様々な風景を通して、あれもやりたい、これもしたいという気持ちが子規の心に湧いてきた自身の様子を詠んだものであると考えたいですね。

Takashi

 なるほど。

Teacher

 「正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう!」は今回で終わります。最後に、10月7日に子規が詠んだ句を刻んだ句碑をみておきましょう。

Takashi

 はい、ありがとうございました。

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