自然災害伝承碑を訪ねて…④ 明治26年、堤防決壊の記憶・西条市禎瑞
皆さんは上の地図記号を見たことがありますか?この地図記号は「自然災害伝承碑」といい、国土地理院が令和元年6月19日から地理院地図上に公開を始めたものです。「自然災害伝承碑」とは何か、国土地理院ホームページから引用します。
「自然災害伝承碑」について
◆ 過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に係る事柄(災害の様相や被害の状況など)が記載されている石碑やモニュメント。※ これまでは、概念的に記念碑(ある出来事や人の功績などを記念して建てられた碑やモニュメント)に含まれていました。
◆ これら自然災害伝承碑は、当時の被災状況を伝えると同時に、当時の被災場所に建てられていることが多く、それらを地図を通じて伝えることは、地域住民による防災意識の向上に役立つものと期待されます。
『国土地理院ホームページ』より
この「自然災害伝承碑」の記載は国土地理院が全国の自治体と連携して進めていますが、各自治体からの申請があったものに限られています。そのため、記載されている数はほんの一部に過ぎません。そこで、取材中に撮影した自然災害伝承碑と罹災状況について、当ブログにて紹介していきたいと思います。
今回は、明治26年10月14日に発生した台風により生じた堤防決壊による被害の記憶を伝える自然災害伝承碑を紹介します。
明治26年10月14日、堤防決壊の記憶 〜西条市禎瑞探訪〜
まず最初に、西条市禎瑞の位置を確認しましょう。下の地図を見てください。
西条市禎瑞は中山川と加茂川の両河川の河口近くに造成された干拓地です。標高を見ると1m内外で、満潮時には海面より低い土地が大部分を占めます。「大地震対策.info」ホームページによれば、地震の際には液状化しやすく、震度6弱以上の地震が64%の確率で発生すると予測されているそうです。
【参考】「大地震対策.info」ホームページ 地盤データと地震予測 愛媛県西条市禎瑞
このような地形的特徴を持つ禎瑞地区の北方、堤防の袂に建てられているのが「堤防決壊記念碑」です。
この碑の位置を地図で確認しましょう。
ものすごい場所に碑が建てられていますね。明治26年10月14日にこの場所で何があったのか、具体的に確認していきましょう。
Contents
① 禎瑞干拓地の堤防建設と集落の特徴
② 明治26年10月14日、大暴風雨の記憶
③ 記念碑付近の見所
① 禎瑞干拓地の堤防建設と集落の特徴
ア.堤防の建設
禎瑞干拓地は、西条藩祖松平頼純が本家の紀州徳川家から拝受した巨額の御払金をもとに造成されたと言われています。堤防の建設について、『愛媛県史』は次のように記載しています。
禎瑞干拓地の堤防工事について
工事の設計監督は郡奉行竹内立左衛門によってなされ、安永7年(1778)に起工、5年の歳月と約2万両の工費、延べ58万人の役夫を投じて、天明元年(1781)に完成した。工事は海岸から2.7km余の沖合いに、舟で土砂を運んで産山(現難波の付近)と名付けた小砂堆を築き、そこを根拠に堤防を構築していった。工事の最難事である潮止め工事は、着工後3年目の安永9年(1780)12月7日に完成した。禎瑞新田御開発覚書には、「其口人足御領分山里共人足都合六千人」と誌されており、当日は領内の各村から百姓を動員して工事が一気に成就したことを物語っている。潮止め工事の完成した翌年には、干拓地内の八幡から黄金水とよばれた清水が湧出した。藩では、「天より嘉瑞を降し給うなり」と歓喜し、禎瑞と称するよう公示したという。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』より 下線及び太字・赤色は引用者による。
『愛媛県史』の記述にあった産山と呼ばれた小砂堆が築かれた場所(現難波)はこの辺りです。
わずかですが集落が形成されていて、集会所や児童公園などもありますね。そして、黄金水が湧出した場所には記念碑が建てられています。
【アクセス:史跡 黄金水跡碑】
『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』によれば、禎瑞新田造成時の堤防は、「押平高2間3歩、馬乗1間3歩、根置9間5歩で、くり石と土で固めたものであり、海に面した部分が石垣、内側は芝草で固定された土手」になっていたそうです。
イ.集落の特徴
禎瑞干拓地への入植は、潮止め工事が完成した天明元年(1781)から享保元年(1801)の間に行われました。様々な地域から入植があり、伊予西条藩領内、讃岐・阿波の両国、対岸の中国筋などからの入植が判明しています。
江戸中期より入植が進み、八幡・高丸・難波・禎瑞上・禎瑞中・禎瑞下の6集落が形成されました。それぞれの集落の位置は、下図の通りです。
こうしてみると、禎瑞の集落は堤防沿いに形成されていることが分かりますね。八幡・高丸・難波は西方の中山川の堤防沿いに、禎瑞上・禎瑞中・禎瑞下は東方の加茂川の堤防沿いにそれぞれ立地しています。これは、次のような理由によります。
堤防沿いに集落が立地している理由
① 堤防沿いが微高地であること。
② 水害に際して最も安全な避難場所であること。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』には、堤防の管理について次のように記載されています。
堤防の管理について
堤防の管理は厳重をきわめ、松平家支配の時代には堤防見廻り人が、農民に堤防の草は肥草一本刈らさなかったといわれている。昭和3年松平家の小作地が解放されて以降は、堤防は禎瑞の住民の管理下におかれ、住民の労力奉仕によって堤防の強化がしばしばなされた。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』より
② 明治26年10月14日、大暴風雨の記憶
では、明治26年10月14日の災害はどのようなものだったのでしょうか。罹災状況について、『西条市誌』の記述を引用します。
罹災状況①
明治26年(1893)は異変の年であった。年のはじめは稀な大雪で、積ること3尺余、夏期は干魃甚しく、更に10月には大暴風雨の襲来に因って各所に堤防の決壊があった。禎瑞海岸も龍神社の西方が94間にわたって崩れ、侵入した海水は住宅の軒を没し、耕地が水底に没すること90日におよんだ。
『西条市誌』第七章 警備より
94間は約171mです。堤防の決壊はかなりの距離に及んでいますね。罹災状況について、『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』には次の記載がありました。
罹災状況②
住民は堤防の応急修理ができるまでの90日間を堤防上で過ごすことを余儀なくされたという。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』より
堤防の決壊部については、大きな帆船に石を積んだものを4隻この切れ口に沈め、数千の人夫を動員し、辛うじて復旧することができたとのことです。そして、決壊した位置に記念碑を建て、当時の惨状を詳細に記し、遺しました。
この碑文の中に、後人を戒めた辞句があります。
いかなる高潮波荒れにも心安く思ひ居たるに、図らずもこの災ひに罹〔かか〕れり、今より後も、天災是はかりかたければ、努め忽〔ゆる〕かせにすべからず
“天災は忘れた頃にやって来る”という諺がありますが、過去の事例に学び、常日頃から災害への備えを忘れないようにしなければいけませんね。
③ 記念碑付近の見所
それでは本稿の最後に、禎瑞堤防付近にある見所を紹介します。ぜひ現地を訪れてみてくださいね。
ア.龍神社
堤防工事の起工から20年後、寛政11年(1799)に建設されました。海の平穏を祈るために、海神大和多津美命〔おおわたつみのみこと〕を祀っています。
この堅固な堤防は、昭和21年の南海地震による地盤沈下からの復旧工場によるものです。高さ3〜5m、コンクリートで外側も内側も強固に巻き上げられています。
イ.南蛮樋の大石樋
南蛮樋は、潮の干満に合わせて、遊水池の水を1日2回排出する役目の樋門です。江戸時代の干拓完成の折、当時の最新の技術、轆轤〔ろくろ〕仕掛けの開閉装置を用いたことから「南蛮樋」と呼ばれるようになったそうです。
西条市ホームページにも禎瑞地区を紹介した記事がありますので、リンクを添付します。こちらも合わせてご覧ください。
【参考①】西条市ホームページ 広報専門委員の気ままに西条歩き Vol.18禎瑞地区(前編)
【参考②】西条市ホームページ 広報専門委員の気ままに西条歩き Vol.17禎瑞地区(後編)
今回は以上です。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。記事の内容についてご意見等いただければありがたいです。よろしくお願い致します。