正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう! 今出へ①
『散策集』吟行ルート
- 9月20日 石手・道後方面へ … 柳原極堂とともに
- 9月21日 御幸寺山麓へ … 柳原極堂、中村愛松、大島梅屋とともに
- 10月2日 中の川、石手川堤へ … 子規ひとりで
- 10月6日 道後湯之町へ … 夏目漱石とともに
- 10月7日 雄郡・今出・余戸へ … 子規ひとりで村上霽月を訪れる
今回は、子規が明治28年10月7日に行った今出〔いまづ〕への吟行の道をたどります。いよいよ最後ですね。
今出というのは松山市のどの辺りにあるのですか?
現在の地名は松山市西垣生町です。港や郵便局などの名称に今出という地名がみられます。地図で確認しましょう。
松山空港のすぐ南側じゃないですか?愚陀仏庵からかなりの距離がありますよ!まさか子規はここまで歩いたのですか?
どうでしょうか?『散策集』の記述を見てみましょう。
10月7日冒頭文
明治28年10月7日 子規子
今出の霽月〔せいげつ〕一日我をおとづれて、来れといふ。われ行かんと約す。期に至れバ連日霖雨濛々〔りんうもうもう。何日も雨が降り続き、心がぼんやりとしているさま。〕、我亦褥〔しとね。布団のこと。〕に臥す。爾後十余日、霽月書を以て頻〔しき〕りにわれを招く。
今日七日ハ天気快晴、心地ひろくすがすがしければ、俄に思ひ立ちて人車をやとひ、今出へと出で立つ道に一宿を正宗寺に訪〔とぶら〕ふ。同伴を欲する也。
『子規遺稿 散策集』
友人の霽月が自宅に来てくれと子規を誘ったのですが、連日の降雨で行くことができなかったのですね。そして、10月7日が快晴だったので「よし行こう!」と思い立ち、人力車を雇って今出へ向かったということです。
ああよかった!さすがにこの距離は歩いて行きませんよね。先生、霽月というのはどういう人ですか?
村上霽月という人物です。南堀端のJA愛媛前に彼の胸像がありますよ。彼の経歴を確認してみましょう。
村上霽月〔1869〜1946〕略歴
- 明治 2(1869)年 伊予郡西垣生村今出に生まれる。
- 明治24(1891)年 叔父急死のため、学校を退学して今出絣株式会社の社長になる。
- 明治25(1892)年 この頃から正岡子規や内藤鳴雪の指導を受け、俳句を作り始める。
- 明治29(1896)年 夏目漱石、高浜虚子とともに新仙俳句を創始する。
- 明治30(1897)年 伊予農業銀行を作り、頭取となる。『ホトトギス』に参加し、選者となる。今出吟社をつくる。
- 大正 2(1913)年 愛媛信用組合連合会を結成し、会長となる。
- 昭和 3(1928)年 経済恐慌に伴う銀行の苦境を救うため、全財産を投げ出して責任をとる。
- 昭和21(1946)年 死去。
※ 参考資料:『愛媛県史 人物』
俳句だけじゃなくて、愛媛県の産業発展に尽くした人なのですね。
その通りです。西垣生町の三島神社前に、村上霽月邸の長屋門が修復されて今もあります。
この日、子規はここを目指したわけですね。
そうです。『散策集』の記述に戻りましょう。
「今出へと出で立つ道に一宿を正宗寺に訪ふ」とありますね。正宗寺は現在子規堂があるお寺ですか?
その通りです。地図で場所を確認しましょう。
やはりそうですね。愚陀仏庵からここまではどの道を通ったのでしょうか?子規は書いていませんよね。
柳原極堂が、『友人子規』の中で推測していますよ。
柳原極堂の推測
子規は先づ其寓居を三番町に出で、西に榎町に突き當って左に曲り、湊町四丁目を西に末広町に出で、それを南に取り中の川を渡って正宗寺に達したのであろう。
『友人子規』
この推測を現在の地図に当てはめてみると、おそらくこのルートではないかと思います。
榎町という地名がありませんが、このルートで正しいのですか?
池田洋三著『新版 わすれかけの街 松山戦前戦後』では、「榎にちなんだ町名であった」とし、八俣榎大明神の逸話とともにかつての再現図を掲載しています。この場所で間違いないでしょう。
なるほど、分かりました。先生、子規が正宗寺に尋ねた「一宿」について教えてください。
「一宿」とは本名を山本良孝〔1868〜1945〕、法名を「釈仏海」といった人物で、子規よりも1歳年下です。子規の死の前日、虫が知らせたのか、「倒れんと案山子の動く嵐かな」の句を添えて見舞いのハガキを送った人物で、これが子規生前の子規宛書簡の最後のものとなりました。
虫が知らせるなんて、子規とはかなり関わりの深い人物だったのですね。
そのようですね。
「同伴を欲する也」ということは、子規は一宿と一緒に霽月のところへ行こうと誘ったわけですね。結局どうなったのですか。
はい。それについては、子規が『散策集』に書いています。続きを見てみましょう。
子規が一宿を誘ったが…
一宿故ありて行かず
朝寒や たのもとひびく 内玄関
『子規遺稿 散策集』
結局、一緒には行かなかったのか。子規にとっては残念でしたね。
そうですね。でも子規が「俄に思ひ立ちて」と書いていることから、事前に連絡をしていなかったのでしょうね。
そうかもしれませんね。
正宗寺は子規の自宅から近いこともあり、幼い頃から何度も訪れていましたし、句会なども行われていたそうです。境内には、この時に詠んだ句を刻んだ句碑が建てられていますよ。
子規が一宿に声をかけた時の様子が目に浮かんできます。
正宗寺には、子規と友人たちに関わるものがたくさんあります。今回は、それらを撮影した写真を見て終わりにしましょう。