伊予鉄道の歴史⑤ 松山電気軌道会社との対立Ⅲ
明治40〔1907〕年3月、三津浜の人々は、伊予鉄道に対抗して松山電気軌道会社を設立しました。
いよいよ、伊予鉄道との競争の話ですね。
はい。その前に電気軌道敷設工事の苦労についてお話ししますね。
工事の苦労?何だろう?
① 軌道敷設工事を始めたものの…
時期的に厳しい状況の中、松山電気軌道会社内でもゴタゴタが続いたのです。『愛媛県史 近代 上』の記述を見てみましょう。
時代の波に翻弄される軌道敷設工事
まず、明治三十九年三月、清家久米一郎外二六名の連名で、三津浜を起点とし松山市内経由道後に至る電気軌道の敷設が出願され、同年九月特許状が下付された。それを受けて、清家らは四〇年三月三十一日資本金三一万円をもって松山電気鉄道を設立、社名は九月に松山電気軌道と改められた。社長には夏井保四郎、取締役には清家久米一郎外数名が就任した。こうして同社は四一年八月より軌道工事に、同十二月より電気工事に着手したが、おりから日露戦争後における経済不況の中で、資金調達が予定通り進まず、また、役員間の意見対立などもあって、工事は容易に進展をみなかった。そのような中で明治四二年一二月社長に就任した渡邊修は、福沢桃介の出資を得ることに成功し、ようやく順調な工事進ちょくをみることができるようになった。そして、同四四年九月一日より道後〜札ノ辻間及び本町〜住吉間の営業を開始し、残る区間についても翌四五年一月までに工事を完了した。
『愛媛県史 近代 上』 ※ 太字及び下線は引用者による
そうか!日露戦争には勝利したものの、ポーツマス条約で賠償金が得られなかったのでしたね。
はい。日露戦争の戦費は、内債・外債等を合わせて17億円4,600万円だと言われています。賠償金を獲得できなかった結果、日本は借金を抱えた債務国となってしまったのです。
国がこれだけの借金を抱えてしまうと、銀行から資金を借りること自体が難しかったでしょうね。
その通りです。資金難に直面した松山電気軌道会社は、意見対立の果てに夏井保四郎社長が退職し、続いて清家久米二郎もこの事業を投げ出してしまいます。
なるほど。会社設立当初から課題ばかりですね。先生、『愛媛県史』に渡邊修と福沢桃介の名前がありますが、彼らについて教えてください。
渡邊修〔1859〜1932〕について
渡邊修は、宇和郡泉村岩谷〔現 北宇和郡鬼北町〕に生まれた衆議院議員、実業家です。福澤諭吉が設立した慶應義塾に学び、明治15〔1882〕年以来農商務省・外務省・逓信省の官吏や愛媛県内務部長・佐世保市長を歴任し、役人生活を20年経験しました。明治43〔1910〕年には宇和水力電気を創立して社長になり、南予に電気を灯しました。
【参考】データベース『えひめの記憶』地域学習教材資料館 渡邊修
松山電気軌道会社の社長に就任した時期と宇和水力電気会社の社長に就任した時期が近いですね。愛媛の電力事業に深く関わった人なのですね。福沢桃介はどういう人ですか?
福澤桃介〔1868〜1938〕について
福澤桃介は明治から昭和初期にかけて活動した実業家で、旧姓は岩崎といいます。福澤諭吉の婿養子となって以降は福澤姓を名乗りました。主として電力事業に関与し、名古屋鉄道を買収して社長となり、木曽川などで水力発電を手掛けています。これらの電力事業での活動から、「電気王」「電力王」とも呼ばれた人物です。
【参考】Wikipedia 福澤桃介
福澤桃介も日本の電力事業の発展に深く関わった人なのですね。なるほど。福澤桃介が出資を承諾したことも分かるような気がします。
そうですね。これで軌道の工事が順調に進み、松山電気軌道会社は開業できたのです。
② 伊予鉄道と松山電気軌道との乗客争奪戦
松山電気軌道会社の開業は、伊予鉄道にとって脅威的存在でした。理由は次の通りです。
- 松山電気軌道の軌間1,435mmは伊予鉄道の軌間762mmよりも広いため、車両が安定している。
- 伊予鉄道の客車よりも大型であるため、より多くの旅客を運搬できる。
- 愛媛県初の電車である。
- 松山電気軌道の路線が伊予鉄道の路線に並行するように計画されていた。
伊予鉄道としては見逃せませんね。これにどう対応したのですか?
はい。次の2点です。
- 旧道後鉄道の軌間を762mmから1067mmへの改軌を行った。
- 古町-道後間、一番町-道後間を電化した。
なるほど!伊予鉄道も電化したのですね。
明治44〔1911〕年8月8日のことです。松山電気軌道の開業が明治44年9月1日ですから、伊予鉄道の方が約1ヶ月早く電車を走らせたことになります。
伊予鉄道としても必死ですね。これは三津浜の人も黙っていないでしょう。
はい。伊予鉄道と松山電気軌道との間で激しい乗客争奪戦が始まったのです。『愛媛県史 近代 下』の記述を確認しましょう。
両社による乗客争奪合戦
その後の両者の競争は、激烈を極め、往復乗車券の割引、更に運賃の割引をはじめ、鉄電の梅津寺海水浴場に対抗して、松電は三津浜海水浴場・知新園を開発して宣伝した。また一番町と道後の両駅では、駅舎が並んでいたため、電車の発車前に駅員は鈴を振って客集めをする珍風景が話題となった。また市街地では電灯合戦が展開し、隣同志で鉄電と松電の違った電灯がともる有り様であった。伊予鉄は三津―道後間以外に、郡中・横河原・森松などの路線があったのに対し、松電は他の収入を持たなかったので、次第に赤字が累積した。
『愛媛県史 近代 下』 ※ 太字及び下線は引用者による
鉄道事業だけではなく、海水浴場などのレジャーにおいても競争を繰り広げたのですね。先生、知新園とは何ですか?
知新園〔ちしんえん〕は、松山電気軌道会社が衣山5丁目付近に開業した遊園地です。
どのような遊園地だったのですか?
『松山案内』と『松山市史』に記述があります。引用しましょう。
知新園について①
西山の北、衣山にある花卉〔かき。観賞用に栽培する植物のこと〕園で、松山電車の停留所もある。規模大ならざれど動物園もありて、恰好の遊園地である。之に隣れる金刀比羅宮は、由緒ある社で、其山上の唐土台は、展望を以て聞ゑて居る。
『松山案内』 ※ 太字、注釈及び下線は引用者による
知新園について②
松電は、伊予鉄の梅津寺海水浴場に対抗して、三津浜海水浴場を設置しただけでなく、衣山に知新園という見世物用の動物舎を含む遊園地を作り、四国唯一の動物園と称して乗客の誘致に努めた。
『松山市史 第3巻』 ※ 太字及び下線は引用者による
遊園地といっても、ジェットコースターなどで遊ぶものではなかったようですね。どの辺りにあったのだろう?
『松山案内』に「衣山」「之に隣れる金刀比羅宮」との記述がありますね。これと松電の路線のルートを照合すると、金刀比羅宮の東側にあったのではないかと推測します。
なるほど。知新園の写真は残っていないのですか?
「Pokkoriesオフィシャルサイト」松山電気軌道廃線跡調査01 概要の中に、みつはまレトロ店内に掲示されている写真が掲載されていますので、確認してみましょう。
【参考】「Pokkoriesオフィシャルサイト」松山電気軌道廃線跡調査01 概要
先日、この場所を訪れて撮影をしてきましたが、現在は住宅地になっていて、残念ながら知新園の跡を見つけることはできませんでした。
そうですよね。100年ほど前にあった遊園地ですからね。
はい。このように、乗客争奪合戦を繰り広げた結果、伊予鉄道・松山電気軌道会社ともにどんどん経営が苦しくなっていったのです。
③ 乗客争奪戦の果てに…
松山電気軌道会社は、大正10〔1921〕年に伊予鉄道に吸収合併されることになり、伊予鉄道と松電の競争は終わりました。合併に至る経緯を確認しましょう。
松山電気軌道会社の終焉
両社の運転開始以前から識者の間では、松山・三津浜・道後をめぐっての両者の抗争を無謀とするものが多かった。そのため両社の幹部の間では、合併して合理化する案が討議されたが、松電の株主総会では、感情上の問題から合併を承認しなかった。松電では経営不振から社長が度々交替した。ついに松電は経営維持が困難となり、大正一〇年五月に伊予鉄電に吸収合併され、抗争に終止符が打たれた。その後、伊予鉄電では併行線の整理を行い、松電の道後―一番町間を廃止し、一番町―江ノ口間の線路を三フィート六インチに改築して、鉄電の道後―一番町の線路に連結したので、同一二年五月から全線が直通運転された。
『愛媛県史 近代 下』 ※ 下線は引用者による
これを見ると、松山電気軌道会社の経営が相当苦しかったことが分かりますね。
その通りです。吸収合併後、伊予鉄道は松電の一部路線を組み込み、現在の伊予鉄道の路線として活用していくのです。
先生、松山電気軌道の廃線跡はどこかに残されていますか?
わずかですが確認できる場所がありますよ。
あっ、同じ形式の煉瓦積みがありますね!
次回は、松電の路線跡をたどりましょう。
はい。よろしくお願いします。