正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう! 御幸寺山麓へ②
【前回の投稿】『散策集』吟行の道をたどろう! 御幸寺山麓へ①
『散策集』吟行ルート
- 9月20日 石手・道後方面へ … 柳原極堂とともに
- 9月21日 御幸寺山麓へ … 柳原極堂、中村愛松、大島梅屋とともに
- 10月2日 中の川、石手川堤へ … 子規ひとりで
- 10月6日 道後湯之町へ … 夏目漱石とともに
- 10月7日 雄郡・今出・余戸へ … 子規ひとりで村上霽月を訪れる
今回は、子規たちが常楽寺を訪れたあとの吟行ルートをたどりましょう。柳原極堂の回想を再確認しますね。
はい。
柳原極堂の回想
二番町を東に上り小唐人町〔大街道のこと〕を北に曲り毘沙門坂を爪先あがりに進んで東雲神社下に出で、其處から東へ道後道を少したどりて、常楽寺〔六角堂のあるところ〕の角を北に周り、数町にして御幸山の麓へ出で、帰路は練兵場を横切り杉谷方面を通り再び東雲神社下に出て往路と同じ道を戻って来た。此行程は往復約20町である。毘沙門坂は其後開鑿〔かいさく〕されて今は無くなった。
『友人子規』 ※注釈は筆者が加筆
常楽寺を出た子規たちは北へ進んでいます。「数町にして御幸山の麓へ出で」とありますが、これは現在松山赤十字病院、松山市立東雲小学校、松山市立東中学校、愛媛大学理学部が連なる東側の道を通って護国神社前の道まで到達したということです。
明治28年にそれらの学校はあったのですか?
いいえ。極堂の回想に「練兵場」という語があるでしょう。現在、松山大学と愛媛大学の敷地がある辺りは「城北練兵場」と呼ばれる陸軍(歩兵第22連隊)の演習用地だったのです。
そうだったのですね。極堂の回想に「帰路は練兵場を横切り」とありますが、自由に入ることができたのですか?
はい。ここは広大な野原で、立ち入りが禁止されていた訳ではなかったので、子供たちが遊んだりイベントを開催されたりもしていたようです。子規たちが歩いたのは練兵場の東端側の道です。地図で確認しましょう。
子規たちは六角堂を訪れたあと北進し、護国神社前の道を西に進んで千秋寺に立ち寄り、練兵場を横切って愚陀仏庵へ帰っています。『散策集』の記述を見てみましょう。
常楽寺から護国神社前の道に至るまでに子規が詠んだ句
箒木〔ほうきぎ〕の 箒にもならず 秋暮れぬ
ところところ 家かたまりぬ 稲の中
稲の花 四五人語りつつ 歩行く
道の辺や 荊〔いばら〕かくれに 野菊咲く
堂崩れて 地蔵残りぬ 草の花
道はたに 蔓草〔つるくさ〕まとふ 木槿〔むくげ〕哉
叢〔くさむら〕や きよろりとしたる 曼珠沙花
『子規遺稿 散策集』 ※注釈は筆者が加筆
石手寺への吟行ルートを学習した時も思いましたが、当時の松山近郊には農村風景が広がっていたのですね。
その通りです。例えば、現在松山東警察署があるところは当時松山農学校で、その周辺は桑畑でした。その証拠に、東署の門前に「愛媛農学教育発祥之地碑」が建てられていますよ。
本当だ。先生、四番目の句にある「堂崩れて」とありますが、これは何ですか。
これは松山市道後一万集会所前にある地蔵堂のことです。当時はここが松山の町の北東端でした。
現在、この地蔵堂は修復されているのですね。
はい。現在の地蔵堂の写真を見てみましょう。
護国神社前の道に到達した子規たちは、西進して千秋寺に向かいます。ちなみに大川沿いのこの道は遍路道としても知られていて、道標が建てられていますよ。
本当だ。
千秋寺に至るまでに子規は二つの句を詠んでいます。
常楽寺から護国神社前の道に至るまでに子規が詠んだ句
秋水二句いづれかに定め侍らん
静かさに 礫〔つぶて。小石のこと〕うちけり 秋の水
投げこんだ 礫沈みぬ 秋の水
『子規遺稿 散策集』 ※注釈は筆者が加筆
吟行の途中で川に小石を投げたりもしたのですね。どっちの句にしようかと考えている子規の姿が面白いです。
確かにそうですね。吟行をしながら子規が何を見て、何を考えたかがすぐに分かるのも『散策集』のよいところです。さて、千秋寺に到着した子規は、二つの句を詠んでいますよ。
千秋寺にて子規が詠んだ句
千秋寺にて
山本や 寺は黄檗〔おうばく〕 杉は秋
秋の水 天狗の影や うつるらん
『子規遺稿 散策集』 ※注釈は筆者が加筆
句に詠まれた「山本や」「黄檗」「杉は秋」「天狗の影」って何でしょうか?
これらは松山の歴史と信仰に関わることです。一つ一つ確認していきましょう。
- 「山本や」… 御幸寺山のこと。千秋寺が御幸寺山の麓にあることをこのように表現している。
- 「黄檗」 … 日本三大禅宗の一つ黄檗宗のこと。千秋寺は黄檗宗の寺院。
- 「杉は秋」… かつて千秋寺の山門の側に杉林があり、松山の名所の一つであった。
- 「天狗」 … 御幸寺山の頂上には岩場があることから、山に天狗が住んでいると信じられていた。
なるほど。初めて聞くことばかりです。
『散策集』の内容を調べてると、松山の歴史や伝承について知ることができるでしょう。
そういう意味では、これも『散策集』がキセキの書であることの証かもしれませんね。
そう思います。では、現在の千秋寺の現況を写真で確認しましょう。子規の句碑が建てられていますよ。
このあと子規たちは、練兵場を横切って東雲神社へ至り、そこから往路と同じ道をたどって愚陀仏庵へ帰っています。その間に子規が詠んだ句をみてみましょう。
千秋寺からの帰路、子規が詠んだ句
松山の 城を載せたり 稲むしろ
草の花 練兵場は 荒れにけり
秋の日の 高石懸〔たかいしがけ〕に 落ちにけり
武家町の 畠になりぬ 秋茄子
人もなし 杉谷町の 藪の秋
『子規遺稿 散策集』 ※注釈は筆者が加筆
先ほど出てきた練兵場が句に出てきましたね。「高石懸」と「杉谷町」は聞いたことがありません。
これらの語句の意味は次のとおりです。
- 「高石懸」… 松山城の北廓があったところ。現在ホテル太平別館やダイキがある辺り。
- 「杉谷町」… 現在の松山市緑町一帯の古名。藩政時代には下級武士の屋敷があった。4句目の「武家町」はこのことを指している。
正岡子規は慶應3年の生まれですから、藩政時代の頃松山の風景が多く残る中で生活をしていたのですよね。『散策集』って明治の頃の松山について学ぶのに適していますね。
その通りです。では、松山市内に建てられている子規の句碑を紹介して講座を終わりましょう。
はい。ありがとうございました。