昭和18年7月23日、それは起こった 〜重信川水害の記憶⑤〜
午後2時頃、夫婦橋を決壊させた濁流が海へ流れ出すと、それまで溜まっていた水が一気に引いていき、人々は急死に一生を得ました。最終回は、その後の復旧作業についてまとめましょう。
重信川水害の記憶 Contents
戦時中だったので、復旧作業は女性、子ども、老人を中心に地域住民総出で行われたのでしたね。
そうです。この水害は全県に及ぶものでしたから、愛媛県が早速行動を開始します。まずは県の動きから見ていきましょう。
⑤ 水害からの復旧
ア 愛媛県の動き
『愛媛県史 社会経済6 社会』の記述をまとめると、次のようになります。
台風が日本海へ抜けた翌日に臨時災害対策本部を設置している!この時の愛媛県知事はどなたですか?
はい、相川勝六氏です。『愛媛県史』に災害発生時の相川知事のことが記載されていますよ。引用しましょう。
【参考】日本の銅像探偵団ホームページ ※ 宮崎県宮崎市の平和台公園に建立されている氏の銅像の写真が掲載されている。
乗船中に水害発生を知る
災害当時、地方長官会議に出席していた相川知事は帰任の途、尾道よりの乗船中に最初の水害状況報告を受けた。既に今治・松山間の鉄道が不通のため、特別仕立ての船により同日夜松山へ帰着、ただちに幹部会議を開催し、迅速なる復旧を行うことや現場の状況調査に当たることを命ずるとともに、必要物資の調達について協議をしていた。
翌二四日、全庁員を召集して水害対策に傾注すべきことを訓示し、通信・交通手段杜絶のため、各罹災地へ二人一組で緊急派遣を命じた。翌二五日、県に知事を本部長とする「愛媛県臨時災害対策本部」を設けるとともに、地方事務所にも「対策本部」を設置した。県では、復興には莫大な労力を要するとの見地から、広く勤労奉仕を勧奨して直接松山市及び付近を中心とする学徒、その他団体や町内会等を動員し、市内のトラックや軍用トラックの融通を受けて、これらの勤労報国隊を現地に輸送した。
『愛媛県史 社会経済6 社会』 ※ 下線及び太字は引用者による
乗船中に水害発生を知ったにもかかわらず、迅速に行動されていますね。
上の図中にもありますが、7月29日までに勤労奉仕に参加する人が延2万人にも及びました。
ということは、4日間でそれだけの人が集まったということですね。
そうです。愛媛県教育委員会が編纂した『下線流域の生活文化』という書籍には、重信川復旧のために割り当てられたある1日の学徒勤労隊の内訳が掲載されています。
さまざまな学校の生徒たちが各所で復旧作業に当たっていますね。
相川知事は自らモッコを担いで土砂の運搬作業を手伝うとともに、復旧作業に集まった人々に激励の言葉をかけています。
相川知事、激励の言葉
この現状は涙なくして見られない。誠にお気の毒に存じます。国家の現状、戦局の現段階、諸君の想像以上に急迫している。戦闘に負けないためにはどうしても食糧を増産せねばならない。
諸君、これしきのことで悄気〔しょげ〕てはならぬ。気を落としてはならぬ。私も大いにやる。
『松前町誌』
自分も復旧作業を手伝うなんて、えらい方ですね。
こうして、多くの人々の協力によって、耕地の復旧は僅か2年で成し遂げられました。
茫然自失の状態だったでしょうに、僅か2年で完了したのですか?
そうです。これも早く復旧させたいという人々の思いの表れなのです。重信川の改修工事もどんどん進みました。
重信川の改修工事
- 昭和20〔1945〕年5月〜 内務省中心に改修工事始まる。
- 昭和25〔1950〕年〜 建設省中心に本格的な改修工事が始まる。
本格的な改修工事が始まる前に約5年間もかかってしまっているのは何故ですか?
地域の方によれば、被害が甚大ですぐに改修工事を始めることができず、土のうを積み上げただけの状態が続いたそうですよ。
そうか。堤防が何ヵ所も決壊しましたし、土砂の堆積も激しかったでしょうからね。
地域の方が、重信川の改修工事に尽力した末松栄さんという方を紹介してくださいました。引用しましょう。
重信川改修に尽力した末松栄さん
末松栄さんは八束さん〔教育長を務めておられた八束英誉さんこと〕の旧制松山中学時代の同級生で、東北大学卒業後、戦後には中国四国建設局長を務めていました。昭和22、23年(1947、48年)ころ、南海大地震後の復興対策を担当するために松山市に来て、八束さんの自宅に宿泊したそうです。その時、水害や地震等の被害を受けた重信川の状況を見て、『子どものころよく泳いでいたこの川の復興を何とかせんといかん。』と決意したことが、戦後の本格的な重信川改修の始まりでした。以後、下流から上流へ向けてどんどん土手が改修されていき、現在の姿になっていったのです。当時、出合橋を渡ってすぐの所に、50坪(約165m²)ほどの小さな工事事務所があったことをよく憶えています。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 注釈、太字及び下線は引用者による
なるほど。そんな方もいらっしゃったのですね。
そうです。こうした人々の尽力もあり、松前町で大きな水害は全く起こっていません。さて、現松前町内の復旧作業の様子についてまとめましょうか。
はい。
イ 徳丸地区の復旧作業
まず徳丸地区の復旧作業の様子を確認しましょう。徳丸地区では農地の復旧を優先させ、皆で協力して土砂を一つの場所に集めました。その場所は現在団地になっています。
上の図に書かれている徳丸天王団地ですね。
そうです。昭和22〔1947〕年に米軍が撮影した航空写真からその位置を確認しましょう。
あまりよく分からないけど、田畑ではないことは見てとれます。
この場所へ土砂を搬入する作業について、地域の方は次のように話してくださいました。
土砂堆積場跡にできた徳丸天王団地
徳丸天王団地が造成されている場所は、耕地を復旧する際に除去した土砂を各地から集めた所です。耕地に堆積していた大量の土砂の除去作業は地域に残る者全員総出で行いましたが、戦時中のことなので勤労奉仕という形でした。旧制松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)や旧制北予中学校、松山工業学校などの多くの生徒が作業を手伝いに来てくれて、スコップで土砂を除去したり、土砂をモッコで運んだりしてくれたことを私はよく憶えています。この作業は終戦後もしばらく続き、耕地から完全に土砂が除去され、田植えが再開されたのは昭和20年(1945年)のことです。僅か2年で作業を終えることができたのは、全員の協力があったからだと思います。徳丸天王団地が造成されるまで、この場所は高さ5m、幅100mくらいの砂利山の状態がかなり長い間続きました(徳丸天王団地の造成は昭和49年〔1974年〕以降のこと)。高度経済成長期に入り、建設業者が砂と砂利石に分けて少しずつ砂利山を削り取って運び出していましたが、数年前までこの山の一部がまだ残っていました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
結構最近まで土砂が残っていたのですね。
徳丸天王団地の現況写真がありますよ。
高さ5mの砂利山があったなんて考えられないほど整地されていますね。
復旧作業の際は人々の争いが全くなかったと地域の方は言っておられました。
争いが起こらなかった耕地復旧
濁流と土砂によって田と田の境目が分からなくなっていたにも関わらず、全ての人がかつての記憶を辿りながら協力して整地し直し、喧嘩などの争い事は一つも起こりませんでした。洪水の被害を受けたのはかなりの広範囲なので、区長の指揮だけでは徹底できないし、今のように重機があるわけではないので、全て手作業で行わなければなりませんでした。やはり、『早く元に戻して農業を再開したい』という強い思いを全員が持っていたので、相談しながら復旧作業を進めることができていたのだと思いますし、誰一人として農地の範囲をごまかしてやろうという人はいませんでした。これはすばらしいことだと私は思います。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 太字は引用者による
本当に素晴らしいことですね。
私もそう思います。中川原地区でも復旧作業が進められ、地区の人々は素鵞神社の境内に「水害復興記念碑」を建立して水害の記憶を後世に伝えたのです。
右側の石だけ高さが異なるのは、この時の濁流の水位の高さを表したのでしたね。
その通りです。それでは、筒井・新立地区の復旧作業の話に移りましょう。
ウ 筒井・新立地区の復旧作業
筒井・新立地区も濁流が堰き止められて池のようになりましたから、土砂の除去作業は大変だったようです。現在警察学校がある辺りの復旧作業について、地域の方は次のように話してくださいました。
現警察学校西部に堆積した泥を除去
警察学校(当時はまだ現在地にはない)の西側に広がる農地は、濁流によって運ばれてきた大量の泥が堆積していた場所です。昭和18年(1943年)10月の秋祭りのころから地均しが行われ、農家の方がスコップを入れて泥を掘ってみると、7月の洪水で倒された稲が、緑色のままで出て来たことを私はよく憶えています。泥を別の場所へ移す作業は、松山工業学校(現愛媛県立松山工業高等学校)と旧制北予中学校の生徒が手伝いに来てくれました。戦時中ですから、ズボンにゲートル、戦闘帽という服装です。泥は、現在の義農公園の方へ運びました。水害の前は湿地帯を利用したレンコン畑(義農公園西側の内海付近)だったのですが、濁流のために土地がおげて(削れて)しまい、松前保育所辺りまで一帯が湖のようになってしまっていたので、埋め立てをする必要がありました。泥の運搬は、筒井の八幡神社に来た大工さんがつくってくれたトロッコを6、7台使用していました。距離にして1kmくらいですが、泥が堆積していた所から現在の義農公園付近まで、筒井公民館前の道に幅60cmくらいのレールを敷き、役場の方や手伝いに来てくれた学生たちがトロッコを手で押しながらどんどん泥を運び、何度も往復していたことを憶えています。この作業は半年ほど続き、昭和23年(1948年)に県が浚渫工事を行ってきれいに整地をしてくれました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
義農公園の土地がこの時の泥を運んでできたものだとは知りませんでした。
昭和22〔1947〕年に撮影された航空写真で筒井地区付近を確認しましょう。
なるほど。
現在の義農公園付近の地図も見て見ましょうか。
かなり宅地造成が進んだけど、よく見ればトロッコが泥を運んだ道も分かりますね。
地域の方のお話によれば、この時使用したトロッコとレールは昭和18〔1943〕年に泥を運んだものと同じ形だったそうですよ。
終わりに…
戦後、松前町で大きな水害が発生することはなかったのですが、平成29〔2017〕年9月の台風18号襲来に伴う豪雨は出合水位観測所で5.65mを観測し、戦後初めて避難勧告が出されるなど、大変な状況になりました。
確かにその時以降、豪雨のたびに重信川の水位が上がり、頻繁に避難勧告が出されるようになりましたよね。
このことについて、地域の方々は危機意識を持っています。地域の方は、次のように話してくださいました。
下流域の川幅の狭さに対する不安
現在、重信川の下流域では土手の内側に建物を建てたり畑を作ったりして、上流と比較して下流の方の川幅がかなり狭くなっていることに、私は危機感を感じています。重信川の川幅はもともと広く、さまざまな河川と合流して大量の水が流れて行きますし、流路は短く急勾配で水の勢いも強いので、今のような狭い川幅では水量を支えきれないのは当たり前です。
また、足立重信が重信川を改修して塩屋の方へ流れるように流路を変えましたが、本来は松前港の方へ向かって流れていました。自然の流路を人の力で無理やり変えているのですから、やはりどこかで無理が生じているでしょうし、人間の力は自然の力には叶わないと思うのです。昭和20年(1945年)9月に枕崎台風が来た時には、現在の中央高校(愛媛県立松山中央高等学校)側の堤防が決壊しましたが、これもその証明だと考えています。松前町内で泉がある所はかつての流路に沿った所だと聞いたことがあります。やはり、水は昔の流路を憶えているのでしょうし、地下水は昔の流路を今でも流れているのです。多くの人に同じ意識を持ってもらいたいと思います。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
おっしゃられているように、重信川は流路延長が短く、河床勾配が急であるという特徴がありました。だから、侵食された土砂が堆積しやすいのですよね。
そうです。ですから、土砂を除去する作業が行われていますよね。さらに別の方は、次のように話してくださいました。
足立重信が定めた川幅の意味を理解すべき
先日NHKの番組を見て知りましたが、重信川は日本にある河川の中ではかなり勾配がきつい川で水の流れも早いため、しっかりとした堤防を造っておかないとすぐに決壊する危険があるそうです。足立重信が流路を改修した時、『この川はこれだけの川幅が必要である。』と言って今の川幅に決めたそうですが、本当にこの川のことをよく知っていたのだと私は感心しています。しかし、今は堤防の内側のいたる所に畑や建物がどんどん作られています。
今、徳丸地区の土地の高さと重信川の河床の高さを比べると、圧倒的に重信川の河床の方が高くなってしまっています。先日の増水でさらに高くなってしまいました。早く川さらいをして河床の高さを低くすれば水の流れも良くなりますし、増水時の危険も少なくなるはずです。しかし現実は、暗渠や橋が傷むという理由で行われていないそうです。
重信川の川幅は、足立重信が『これだけの幅が必要だ。』ということで造られたはずですが、現代の人々がゴルフ場や畑などを開いて川幅を勝手に狭めています。それは結局水位の上昇につながるだけでなく、洪水の危険性をどんどん高めてしまっているのです。私たちはそのことに早く気づき、早急に対応しなければならないと強く思います。」
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
この方も同じことを主張されていますね。川の特徴を現代の私たちが知っておかなければならないということですね。
その通りです。川の特徴だけではありません。自分が生活している場所の地形的特徴もよく理解しておけば、水害を防ぐ対策も事前に行うことができます。私たちはそうあるべきです。
そうですね。私も普段から心掛けたいと思います。
終