正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう! 今出へ③
『散策集』吟行ルート
- 9月20日 石手・道後方面へ … 柳原極堂とともに
- 9月21日 御幸寺山麓へ … 柳原極堂、中村愛松、大島梅屋とともに
- 10月2日 中の川、石手川堤へ … 子規ひとりで
- 10月6日 道後湯之町へ … 夏目漱石とともに
- 10月7日 雄郡・今出・余戸へ … 子規ひとりで村上霽月を訪れる
前回は小栗神社〔雄郡神社〕を訪れたところまで紹介しました。今回は土居田・余戸における吟行の道をたどります。
雄郡神社から西へ向かったのですよね。どの道を歩いたんでしょうか?
その前に、一つ質問があります。子規が雄郡神社を訪れたのは何時頃のことだと思いますか?
子規が詠んだ句から推測すると、午前中だと思います。具体的な時間は分かりません。
雄郡神社までに子規が詠んだ句をもう一度見てみましょう。
子規が詠んだ句
朝寒や たのもとひびく 内玄関
男ばかりと 見えて案山子の 哀れ也
稲筵 朝日わつかに 上りけり
鉄砲の かすかにひびく 野菊哉
御所柿に 雄郡祭の 用意哉
秋茄子 小きはものの なつかしき
稲の穂や うるちはものの いやしかり
六尺の 庭にふさがる 芭蕉哉
『子規遺稿 散策集』
「朝寒や」「朝日わつかに上りけり」とあるので、午前中のかなり早い時間帯ですよね。
そうですね。柳原極堂も『友人子規』の中で句の同じ箇所を取り上げ、「此行は午前しかも早朝であつたと察せらる。」と記述しています。そして、別の人物の回想を紹介しているのですが、この人物がこの日子規と出会っているのです。
えっ、本当ですか?それは誰でしょう?
余戸に住んでいた子規の友人で、森円月といいます。明治2年に生まれ、教員・ジャーナリストとして活躍したことが知られています。松山中学校での教員時代には、文部大臣を務めた安倍能成が教え子の中にいたそうですよ。
なるほど。森円月はこの日のことをどのように回想しているのですか?
『友人子規』の記述を見てみましょう。
森円月の回想
自分は松山に用があつて余戸の宅から今出街道を上つてゐた。土居田村の一本松を過ぎて雄郡神社に近づいた頃偶然居士に邂逅した。其時居士は俥を下りて適意徒歩、車夫は車を曳て其後に従つてゐた。「何處へ行かるるか」と尋ねしに、「今日は今出に霽月子をたづねる。歸りには貴宅へも寄るつもりだ」と答へられた。自分は早く歸つて待つてゐるから是非立寄つてくださいと言つて別れたが、其時刻は九時ごろであつたと思ふ。
『友人子規』 ※ マーカー及び太字は筆者が記入
9時ごろ!では愚陀仏庵をかなり早く出発したのですね。
移動の時間と正宗寺に立ち寄ったことを考えると、8時ころには出発していたかもしれませんね。
先生、森円月の回想の中に「今出街道」と「土居田村の一本松」が出てきました。これは何ですか?
柳原極堂が『友人子規』に書いていますよ。記述を見てみましょう。
今出街道と土居田村の一本松
雄郡神社の前を西に土居田村をぬけて下る道路が當時の今出街道であつた。松山から今出まで約一里もあらうか。〔中略〕
雄郡神社を西に下り暫くして左折し又右曲し行けば、道の左側に御旅所の松、一名土居田の一本松と呼ばるる古松があつたが今は無くなつた。
『友人子規』 ※ マーカー及び太字は筆者が記入
一里は約4kmですね。また、神社の祭礼において巡行の途中で神輿を休憩させる場所のことを御旅所といいます。
なるほど。御旅所の松までの道筋が詳しく述べられていますが、この道は残っているのですか?
はい。昭和22〔1947〕年に撮影された航空写真を見てみましょう。
柳原極堂の記述にある「雄郡神社の前を西に土居田村をぬけて下る道路」がはっきり分かりますね!御旅所の松は雄新中学校の近くにあったのか!
そのようですね。これを現在の地図に当てはめると、次のようになります。
現在の地図でも同じ道が確認できますね。道のカーブ具合も全く同じです。
そうでしょう。ただし、御旅所の松以西の土居田・余戸については耕地整理によって道筋が大きく変わってしまっていますので、子規の吟行の道は現存する建築物や石碑などでたどるしかありません。
そうですか。子規は『散策集』にどのように書いているのですか?
では、確認しましょう。
土居田・余戸 吟行の道
かねて叔父君のいまそかりし時、余戸に住みたまひしかば、我をさなき頃は常に行きかひし道なり。御旅所の松、鬼子母神、保免の宮、土井田の社など皆昔のおもかげをかへずそぞろなつかしくて。
鳩麦や 昔通ひし 叔父が家
をさなき時の戯れも思ひ出だされたり。竹の宮の手引松は今猶残りて、二十年の昔にくらべて太りたる體〔てい〕も見えず。
行く秋や 手を引きあひし 松二木
『子規遺稿 散策集』 ※ 句読点、太字及び注釈は筆者が加筆
たくさんの語が出てきましたね。
「御旅所の松」は先ほど紹介しましたね。それ以外は次の通りです。
- 叔父君 … 正岡子規の父、常尚の長兄で佐伯政房のこと。
- 鬼子母神 … 安産・子育〔こやす〕の神様。土居田町の善復寺境内にお堂がある。
- 保免の宮 … 保免西1丁目にある日招八幡大神社のこと。
- 土井田の社 … 土居田本村にあった素鵞神社のこと。現在社はなく、土居田本村公園になっている。
- 竹の宮 … 余戸東5丁目にある三島大明神社のこと。竹の宮は、かつての地名。
- 手引松 … 二本の松が地上6mのところでH形に繋がり、手を引き合った姿に似ていることからそう呼ばれていた。
なるほど。それらの場所を地図で見てみると、自ずと吟行の道が見えてくるかもしれませんね。
そうですね。地図で場所を確認してみましょう。
こうして見ると、子規の吟行の道が想像できますね。先生、地図中の☆は何ですか?
これは、昭和45〔1970〕年8月に建てられた、「子規居士を偲ぶ道」と刻まれた石柱の場所を指しています。
ということは、この石柱の前の道を子規が通ったと考えられるのですね。
そうです。現在の各地の様子を写真で確認してみましょう。
日招八幡大神社のみが離れた場所にあります。子規はここを訪れたのですか?
いいえ。おそらく子規の目に神社の杜が見えたのでしょう。当時は田園風景が広がっていましたから、神社の杜はすぐに見えたでしょうし、幼い頃から何度も来たことがある場所ですから、杜を見るだけで神社名が分かったのだと思います。
そうか。子規自身が「皆昔のおもかげをかへずそぞろなつかしくて。」と書いていますもんね。
善復寺と三島大明神社には、この時子規が詠んだ句の句碑が建てられていますよ。
ちなみに、「行く秋や」の句碑は昭和8年に建立されたもので、出合橋付近にある「若鮎の 二手になりて 上り希〔け〕り」の句碑とともに、子規の句碑第1号と言われています。「若鮎の」句の詳細は、松山市立子規記念博物館ホームページにありますので、見ておいてください。
はい。先生、手引松は今もありますか?
いいえ。残念ながら松食い虫の被害によって昭和54〔1979〕年に枯死してしまいました。現在は、「手引」の部分のみが現地に展示・保存されています。
残念ですね。枯死する前の姿を見ることはできませんか?
愛媛文化双書の一冊に『写真集 子規と松山』という本があります。この中に手引松の写真がありますよ。
そうします。先生、土居田・余戸での吟行の道について、柳原極堂は『友人子規』の中で推測していませんか?
もちろんその記述がありますよ。見てみましょう。
柳原極堂の推測
雄郡神社を西に下り暫くして左折し又右曲し行けば、道の左側に御旅所の松、一名土居田の一本松と呼ばるる古松があったが今は無くなった。其處を通り過ぎて暫くして左折し、右折すれば右側に善福寺(真言宗)鬼子母神(法華宗)あり、又行きて左折し右曲するところ土居田本村である。それより左に又右に折れて行かば其處は土居田新屋敷にして土居田の社は道の右側に在り、又左に折れ右に曲りて余土村保免に入る。保免の宮日招八幡神社の森を道の左方に見つつ行くこと少時にて右側に竹の宮三島大明神社鎮座す。程なく伊豫鐵道郡中線の余戸驛に達す。
『友人子規』 ※ 太字は筆者が加工
やはり詳しいですね。この推測を昭和22年の航空写真に当てはめたらどうなりますか?
準備していますよ。見てみましょう。
やはり現在の地図で見るよりも、こちらの方が吟行の道を推測しやすいですね。
そうですね。今回はこれで終わりにしましょう。次回は、今出での子規と霽月について解説します。
ありがとうございました。