遍路道標探索の旅Part.8 太山寺から粟井坂までのルートを巡る


「遍路道標探索の旅」の第8弾。今回は、太山寺から円明寺を経て粟井坂に至る遍路道をご紹介します。スタート地点は太山寺一の門です。


ここから粟井坂までの遍路道を地理院地図に追加しました。ご覧ください。

緑色の線が遍路道、茶色の線が今治街道です。なお、遍路道標10で今治街道と遍路道が合流しており、以後は同じルートとなるので緑色の線で示しています。まずは太山寺参道及び境内に建つ遍路道標の紹介から始めます。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
太山寺から円明寺へ
一の門をくぐり、門前町の面影をとどめる参道を約300m西進して国指定重要文化財の二王門を過ぎると、木立の下になだらかな参道が続く。
※ 太字は引用者による

太山寺仁王門は嘉元3〔1305〕年(鎌倉時代!)に建立された歴史的建造物で、その意匠は本当に素晴らしい!写真をご覧ください。

二の門を過ぎて参道を10分ほど歩くと本堂前に到着します。その区間には4つの遍路道標と数々の句碑が建てられています。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
太山寺から円明寺へ
〔注:参道の〕左手に道標1があり、霊場の雰囲気が一段と濃い。本坊を過ぎ参道を登ると、右側に崎屋・布袋(ほてい)屋(もと布川屋)、その先の小坂を上がると左側に木地屋・門(かど)屋(井筒)とかつて呼ばれていた、旧茶屋の建物が並ぶ。これらは宿屋業とともに「あんころもち」や「こんにゃく」を商い、遍路をはじめ多くの参詣人に親しまれていた。ここでの茶屋の歴史は古く、『四国邊路道指南』、『四国徧礼霊場記』などに登場している。また、布袋屋は「ねじれ竹」の伝説で知られ、庭先には、後世のものではあるがねじれ合った竹が生えている。旧門屋の前に道標2が立っていて、前述の山越えの高浜道を案内している。本堂へ行く石段の前面から奥の手水所にかけては様々な石造物が設けられている。その一つに徳右衛門道標3が立つ。また、さらに一段奥に設けられた子安観音堂前には遠くから移された小さな舟形石仏の丁石4がある。このほか、ここに至るまでの長い参道脇では句碑や歌碑を多く目にするが、近年建立されたものが多いようである。
※ 太字、注釈及び道標1、2、3、4は引用者による

太山寺参道沿いに建てられている遍路道標を一つ一つ確認していきましょう。
1 駐車場付近の参道に建つ遍路道標〔松山市太山寺町〕
【駐車場付近の参道に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市太山寺町 |
主な碑文 |
(手印)右へんろ道 |
寸法 |
40〜50×30〜45×80 |
備考 |
太山寺参道半ばにある弘法大師御生誕千二百年記念碑の上手 |
2 旧茶屋の建物付近の三差路に建つ遍路道標〔松山市太山寺町〕
【旧茶屋の建物付近の三差路に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市太山寺町 |
主な碑文 |
左太山寺道/高濱道/土屋嘉太郎(他2名) |
寸法 |
18×15×106 |
備考 |
太山寺山門から参道を100mほど下がった三差路 |

この道標の近くには、かつての遍路宿を改装して設けられた休憩所(写真左)がありました。また、休憩所の傍に昭和27年7月の自然災害を記録した自然災害伝承碑があるのを見つけました。こちらは後日当ブログの記事にしますね。



ここから少し歩けば本堂へ行く石段の前に到達します。そこに遍路道標が二基建てられています。
3 本堂へ行く石段の前に建つ遍路道標(右)〔松山市太山寺町〕
【本堂へ行く石段の前に建つ遍路道標(右)データ】
所在地 |
松山市太山寺町 |
主な碑文 |
(梵字)(大師像)是より圓明寺迄 十八丁 施主 内藤与一右ヱ門/願主 越智郡朝倉上村 徳右衛門 |
寸法 |
25×22×129 |
備考 |
太山寺山門の石段下 |

遍路道標の左側にあるの碑は、なんと寛保3(1743)年に建てられた松尾芭蕉の句碑でした!

次は子安観音堂前に建てられている遍路道標を見てみましょう。
4 子安観音堂の前に建つ遍路道標〔松山市太山寺町〕
【子安観音堂前に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市太山寺町 |
主な碑文 |
(地蔵像)是与 太山寺へ四十二丁 三界万霊 施主 吉◻︎ |
寸法 |
備考 |
太山寺山門の下、石段左脇の子安観音堂前。もとあった場所や移動の時期は不明 |

石段を上がると、太山寺の素晴らしい堂宇が目前に現れました。

太山寺の紹介は以上です。太山寺の歴史等の詳細は「四国八十八ヶ所霊場会」のホームページをご覧ください。
【参考】瀧雲山 護持院 太山寺「(一社)四国八十八ヶ所霊場会」ホームページ

それでは太山寺を離れ、次の札所である円明寺に向かいます。円明寺までの遍路道のルートについて、『伊予の遍路道』の記述を見てみましょう。
太山寺から円明寺へ
太山寺一の門を出た遍路道は、先述の個人邸の南西角に立つ道標まで戻り、角を左折北進して県道辰巳伊予和気停車場線(183号)を横断する。県道との交差点南東角にある個人邸の北西角に円明寺を指す道標5が立っている。遍路道は北に進んで小集落を抜け、右折東進し久万川に至る。
ところで県道183号は太山寺橋から円明寺を経て大川に架かる遍路橋(松山市内宮町)まで一直線に東北方向へ延びているが、遍路道はこの県道に重なったり、あるいはその北側を階段状に曲折しながら進む。この県道はもと堀江街道といい、三津や高浜につながる重要街道として比較的早く、明治30年代には改修されたようで、昭和戦前期までの遍路案内書ではもっぱら「新道」と称されている。
※ 太字及び道標5は引用者による

このルートを地図で確認しましょう。

「先述の個人邸の南西角に立つ道標」があった場所はここです。


写真のお宅にはかつて3基の遍路道標がありましたが、道路拡幅工事の際に2基の遍路道標が南方の溜池付近に移されたのでしたね。詳細は「遍路道標探索の旅Part6」にてご確認ください。
【参考】「遍路道標探索の旅Part.6」道後温泉から太山寺までのルートを巡る

遍路道はこの個人邸南西角を北(上の写真では左)へ進みます。遍路道と県道183号が交差する所に次の遍路道標があります。『伊予の遍路道』の記述では「円明寺を指す道標」です。
5 県道183号と遍路道との交差点に建つ遍路道標〔松山市太山寺町片廻〕

【県道183号と遍路道との交差点に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市太山寺町片廻 |
主な碑文 |
(手印)右へんろ道 |
寸法 |
35〜40×36×65 |
備考 |
個人邸の北西角。県道辰巳伊予和気停車場線と円明寺道の交差点南東角 |

遍路道は県道183号を越えて道なりに進み、松山市立和気小学校の西門前へと続きます。『伊予の遍路道』の記述を見てみましょう。
太山寺から円明寺へ
遍路道が久万川に架かる学橋(もとは遍路橋という)を渡ってすぐの松山市立和気小学校西門脇に舟形地蔵道標がある。これは昭和35年(1960年)ころ、学橋改修の際、川から拾い上げられて橋のたもとに置かれ、同59年の橋の再改修で現在地に立てられたという。遍路道は小学校の北側を迂回して進み、やがて県道に合流する。
※ 太字は引用者による

平成13年度に刊行された『伊予の遍路道』では正門脇にある遍路道標ですが、現在は学橋を渡る前にあるグラウンドの入り口傍に移されていました。おそらく西門付近の改修工事が行われた際に移転したものと思われます。
6 学橋付近のグラウンド入り口傍に建つ遍路道標〔松山市太山寺町〕

【学橋付近のグラウンド入り口傍に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市太山寺町 |
主な碑文 |
是よりえんめい寺へ五丁(地蔵像) ◻︎祖菩提 ◻︎主 太山寺 茶屋忠右ヱ門 |
寸法 |
28〜30×15〜20×60 |
備考 |
学橋前のグラウンドの入り口脇。昭和35年ころ、学校前の学橋改修の際に川から拾い上げられたという。 |

遍路道は和気小学校の北側を迂回し、県道183号に合流します。合流地点から県道(=遍路道)を真っ直ぐ東進すると53番札所円明寺です。ここには2基の遍路道標が存在します。『伊予の遍路道』の記述を見てみましょう。
太山寺から円明寺へ
門前の駐車場北西角に道標7がある。指示が合っておらず、もとは近くの十字路にあったという。寺の塀の外、南西の角には大きな道標8が立つ。明治16年(1883年)のもので次の札所「あがた延命寺」を指すほか、「左宮嶋道 是ヨリ船場へ五町 問屋関家好直」と宮島(広島県宮島町の厳島(いつくしま)神社)への船乗り場(距離から見て和気浜港と思われる)と船問屋を案内している。別の資料に、同じ年で『明治十六年 四國道中記』と題する講中の定宿名簿があって、その中に、「同所(円明寺裏門)二宮島行 毎日出船あり 船問屋関家好直迄九丁」との案内が掲載されている。年代も船問屋の名前も道標8と同じで、ここからの道のりは船場が手前で、問屋がその先にあったようである。後述のように、昔は円明寺を打ち終えた後に宮島へ立ち寄る遍路がいたようで、こうした碑文や名簿の存在は、藩政時代にはこの辺からの出船は堀江浦と定められていたが、明治になって和気浜からの出船も可能になったことを示している。
※ 太字及び道標7、8は引用者による
7 円明寺の駐車場傍に建つ遍路道標〔松山市和気1丁目〕

【円明寺の駐車場傍に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市和気1丁目 |
主な碑文 |
(手印)右へんろ道 左松山 道後道 |
寸法 |
30〜50×15〜20×70 |
備考 |
円明寺門前の駐車場北西角。もとは、近くの十字路にあったという。 |

次の遍路道標8は大きく、なかなか立派な道標でした。
8 円明寺の南西角に建つ遍路道標〔松山市和気1丁目〕
【円明寺の南西角に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市和気1丁目 |
主な碑文 |
右へんろ道 是ヨリあかた延命寺江九り八丁/村中安全 三津濱石工岡田石太郎 左宮嶋道 是ヨリ船場へ五町 問屋関家好直/明治十六年癸未二月吉日建之 世話人 芳野文左(他17名) |
寸法 |
40×40×172 |
備考 |
円明寺の塀の外で南西角 |

下の写真は、この道標で記された「左宮嶋道」を撮影したものです。


私が訪れた時、何人かのお遍路さんが巡礼をしていました。境内で撮影した写真をご覧ください。

円明寺を打ち終えたお遍路さんは、延命寺前の道を東進して堀江方面へ向かいました。このルートについて、『伊予の遍路道』は次のように記述しています。
円明寺から粟井坂へ
円明寺を出て、遍路道は県道松山港内宮線(39号)と一部重複しながら東へ向かう。松山市馬木町に入り、JR予讃線の踏切を渡って100mほど行くと県道との分かれ道に文久3年(1863年)の重厚な道標9が立つ。銘文「あかた圓明寺」は今治市の「あがた延命寺」のことである。道は東進しやがて左折北進して県道を越え、大きく北方に迂回して回り込み、大川に架かる遍路橋の西たもとに出て再び県道と合流する。遍路橋を渡ると、南東たもとに字形・字配り・彫りのどれをとっても立派な順路と逆路を示す道標10が立っている。道はここで、松山市鴨川から北上してきたいわゆる今治街道(以下「旧街道」と記す)に再び合流する。
※ 太字及び道標9、10は引用者による

馬木町の県道との分かれ道に建つ遍路道標も円明寺の道標と同様なかなか立派なものです。ご覧ください。
9 県道との分かれ道に建つ遍路道標〔松山市馬木町〕
【県道との分かれ道に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市馬木町 |
主な碑文 |
(手印)(手印)へんろミち 馬木 文久三年亥年 是ヨリあかた圓明寺九里六丁 世話人 白形屋房五郎 矢野作助 矢野市右ヱ門(他14名)/野本甚六(他14名) |
寸法 |
37×30×158 |
備考 |
馬木町バス停留所前。個人邸の北。「あかた圓明寺」とは、今治市の「あがた延命寺」のことである。 |

遍路道は左側の道を真っ直ぐ進んで遍路橋へ続いていたのですが、宅地開発等が行われた結果一部失われてしまいました。地図の点線部分をご覧ください。

遍路橋の袂、今治街道と遍路道とが合流する地点に次の道標があります。この道標も非常に大きく、立派なものです。
10 遍路橋の袂に建つ遍路道標〔松山市内宮町〕
【遍路橋の袂に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市内宮町 |
主な碑文 |
(手印)遍路道/宝寿院(他19名) (手印)ぎゃく へんろミち/世話人 平田屋岩次 小田屋岩蔵(他1名) |
寸法 |
36×36×132 |
備考 |
遍路橋の南東たもと |

この遍路道標付近の風景をご覧ください。ここは遍路道と今治街道の合流地点、多くの人々が行き交った場所です。

遍路橋を渡って左折し、遍路道は北へ続きます。しかし、予讃線を建設した際に分断され、現在は真っ直ぐ進むことができません。『伊予の遍路道』はどのように記述しているでしょうか。
円明寺から粟井坂へ
旧街道を行く遍路道は北上する。50mほど進むと東側に脇道があって三差路となり、その東南角に自然石の道標11がある。4、5年前までこの角の少し先、北東の空き地(旧福角(ふくずみ)村)にあったものを刻字の「大内平田村」に当たる現地に移したという。全体に造りは古風に見えるが、今まで報告記録されていないものである。やがて松山市堀江町に入り明神川を渡ったところで道は、JR予讃線の線路によって90mほど消滅している。東側を並行する国道196号は跨線(こせん)橋で鉄道線路を越えている。線路の向こう側には旧街道を行く遍路道がずっと続いており、鉄道と国道との間を北上、権現川を渡り、家並みのある通りを抜けて郷谷川に架かる前川橋を渡る。
※ 太字及び道標11は引用者による
11 三差路の南東角に建つ遍路道標〔松山市内宮町〕

【三差路の南東角に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市内宮町 |
主な碑文 |
(手印)此方へんろミち 大内平田村 |
寸法 |
備考 |
葬祭店の北西角。近くの空き地に昔からあった石で、(平成13年から)4・5年前に旧村に当たる現地に据えたという。 |

分断された遍路道〔=今治街道〕は現在、下の写真のようになっています。

次の遍路道標は、前川橋を渡ってすぐの所にあります。

12 前川橋付近に建つ遍路道標〔松山市堀江町〕
【前川橋付近に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市堀江町 |
主な碑文 |
(手印)遍(以下不明)/西山藤七(他7名)/(不明) |
寸法 |
31×31×56 |
備考 |
前川橋を北に渡った十字路、個人邸の南西角。三分の二ほど埋まる。 不明部分を(路道)(他15人の名)(世話人 浅太郎 卯太郎)と記した記録がある。 |

この遍路道標が埋もれてしまっているのは、水害のたびに堤防がかさ上げされ、路面が高くなったからだそうです。さて、ここから遍路道は堀江の町並みへと続きますが、次の遍路道標までの間に松山の歴史を現在に伝えてくれる重要な建造物があります。『伊予の遍路道』の記述をご覧ください。
円明寺から粟井坂へ
ここからはしばらく遍路道は旧街道の面影を残している家並みを行く。北進して三差路を右折して東へ進む。この右折した東南角地を占める個人邸の内庭には、松山藩の里程石「松山札辻より弐里」が保存されている。この松山藩の里程石とは、松山城堀の西北角の「札の辻」を起点にして今治街道及び波止浜街道に一里ごとに設けられたもので、はじめ標木であったが寛保元年(1741年)に標石を建立したという。遍路道の行く方向とは逆に三差路を左折すると、すぐ突き当たりが光明寺で、門前には享保大飢饉の供養碑が立っている。
※ 太字は引用者による

これらの建造物を一つ一つ見ていきましょう。
「松山札辻より弍里」里塚石〔松山市堀江町〕


松山札ノ辻から今治まで続く街道沿いには全部で10基の里塚石が建てられています〔複製されたものも含む〕。これらの場所については、当ブログの記事にまとめていますので、お時間があります時にご一読ください。
「松山札辻より○里」里塚石を探索せよ!
・今治街道・波止浜街道編① 松山札ノ辻から「壱里」里塚石まで
・今治街道・波止浜街道編② 「弍里」里塚石から「三里」里塚石まで
・今治街道・波止浜街道編③ 「三里」里塚石から「五里」里塚石まで
・今治街道・波止浜街道編④ 「五里」里塚石から「七里」里塚石まで
・今治街道・波止浜街道編⑤ 「七里」里塚石から「十里」里塚石まで
・今治街道・波止浜街道編⑥ 波止浜街道沿いに建てられた里塚石
光明寺にある享保大飢饉の供養塔〔松山市堀江町〕

御堂の傍にこれらの碑の内容を記した解説板があります。読んでみましょう。


享保の大飢饉の犠牲者の霊を弔うために建立された石碑や供養塔については、当ブログの記事にまとめています。こちらもお時間があります時にご一読ください。
自然災害伝承碑を訪ねて…

「松山札辻より弍里」里塚石から東に少し進んだ所に次の遍路道標があります。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
円明寺から粟井坂へ
旧街道を行く遍路道に戻る。東へ150mほど行くと三差路があって、その東南の角に明治19年(1886年)建立の茂兵衛「八十八度目為供養」の彫りが深くて重厚な道標13が立っている。順路と逆路と二つの遍路道のほか、「みやしま(宮島)出舟所」と堀江の港を案内している。旧街道を行く遍路道は指示通り直進である。
※ 太字及び道標13は引用者による
13 堀江町の三差路に建つ遍路道標〔松山市堀江町〕
【堀江町の三差路に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市堀江町 |
主な碑文 |
(手印)右遍ん路道/(手印)左逆邊路道 (手印)みやしま出舟所/明治十九年三月吉壬日八十八度目為供養 周防國大島郡椋野村 施主 中司茂平 |
寸法 |
29×30×133 |
備考 |
真福寺の南約150mの三差路、個人邸の南西角〔令和7年3月現在、別の建物を建設中〕 |

この道標以降の遍路道について、『伊予の遍路道』は次のように記述しています。
円明寺から粟井坂へ
道はゆるやかに右カーブしつつJR堀江駅前に至る。この間の家並みには格子戸のある家が多く、かつては高橋屋・朝日屋などの遍路宿が営まれ、昔の旅龍屋(はたごや)の面影を残しているものもある。JR堀江駅前の広場左角には毘沙門(びしゃもん)堂がある。駅前から道は放射線状になっている。左折し北西へ行く道は県道堀江港堀江停車場線で堀江港へ向かう。右側の道が旧街道を行く遍路道である。
※ 太字は引用者による

道標13以降の遍路道を地図で確認しましょう。

JR堀江駅前に建つ毘沙門堂がこれです。

毘沙門堂の前からみちは放射状になり、お遍路さんは右側の道を進んで粟井坂へ向かいました。


ここから粟井坂に続く遍路道はどのようになっていたでしょうか。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
円明寺から粟井坂へ
約200m進むと小川があり、その先は開発された住宅地になり道は消滅している。かつての道は小川を越えて200mほど北へ直進し、今は国道196号となっている旧街道を行く遍路道につながっていた。今は小川に出たところで左折し、少し行って国道196号に合流して進む。国道はJR線路に並行して、山が迫った海岸線を走る。
約1km北に進むと大谷ロバス停留所があり、旧街道を行く遍路道はここで国道と分かれて右折しJR線路を越え、左折して線路沿いに北上し山道に入る。これからが粟井坂の難所であった。現在この道は300mほどしか進むことができず、山中で行き止まりである。近年、この道の山側には国道196号松山北条バイパスが走り、すぐトンネルに入るようになっている。かつて粟井坂越えの道はこのトンネルの近くから山に上り、上り下りしながら海岸寄りに峠を越えて北条市側に降りていたようである。旧街道としてあるいは遍路道としての機能を失ってから久しく、荒廃してその姿を今日たどることはできない。ただ、坂の頂上には、反対側の北条市方面からは登ることができる。
※ 太字は引用者による

本稿は以上です。次回は粟井坂から北条本町に至る遍路道と遍路道標についてご紹介します。この区間にも道標だけでなく、地域の歴史を現在に伝えてくれる史跡が沢山ありますのでご期待ください。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。