正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう! 道後湯之町へ②
『散策集』吟行ルート
- 9月20日 石手・道後方面へ … 柳原極堂とともに
- 9月21日 御幸寺山麓へ … 柳原極堂、中村愛松、大島梅屋とともに
- 10月2日 中の川、石手川堤へ … 子規ひとりで
- 10月6日 道後湯之町へ … 夏目漱石とともに
- 10月7日 雄郡・今出・余戸へ … 子規ひとりで村上霽月を訪れる
前回は道後鉄道についての話が中心になりました。『散策集』の内容にふれましょう。
よろしくお願いします。
まずは冒頭文を再確認しますね。
10月6日 冒頭文
明治28年10月6日 子規子
今日ハ日曜なり、天気は快晴なり、病気ハ軽快なり。遊志勃然、漱石と共に道後に遊ぶ。三層楼中天に聳えて、来浴の旅人ひきもきらず。
温泉楼上眺望
柿の木に とりまかれたる 温泉〔いでゆ〕哉
『子規遺稿 散策集』 ※ 注釈は筆者が加筆
「温泉楼上眺望」とありますから、本館の高い所から道後の町並みを眺めているということですね。三階まで上がったのでしょうか?
そうです。柿の木に取り巻かれているというのは、今では考えられませんね。
そうですね。今はホテルなどビルばかりですからね。このあと子規と漱石はどこに向かったのですか?
『散策集』の記述を見てみましょう。
道後温泉本館を出て向かった先は…
鷺谷(さぎたに)に向ふ
山本や うしろ上りに 蕎麦(そば)の花
黄檗の 山門深き 芭蕉哉
道後をふり返りて
稲の穂に 温泉(ゆ)の町低し 二百軒
しる人の墓を尋ねけるに、四五年の月日ハ北邙の山墳墓を増してつひに見あたらず
花芒(すすき) 墓いづれとも 見定めず
『子規遺稿 散策集』 ※ 注釈は筆者が加筆
「山本や」「黄檗」がまた出てきました!「山本や」は山の麓、「黄檗」は日本三大禅宗の一つ、黄檗宗を意味していましたね。
その通りです。よく覚えていましたね。
「鷺谷」は現在の道後鷺谷町ですね。「しる人の墓を尋ねけるに」とありますから、鷺谷墓地を訪れたのですね。
ご名答!さすがです。
実は、小学校の時の地域学習でこの辺りを調べたことがあるんです。
では、鷺谷墓地に眠る歴史上の人物について知っていますか?
はい。秋山好古、伊佐庭如矢、白川義則、中村草田男ですね。
さすが、よく調べています。鷺谷墓地の場所を地図で確認しましょうか。
子規と漱石は、道後温泉本館を出て北に進み、坂を登って鷺谷墓地へ向かったのですね。
そうです。だから、最初の三つの句は、坂を上ったところで詠んだ句なのですね。
鷺谷にある黄檗宗のお寺とは何でしょうか?
かつて、鷺谷墓地の手前に大禅寺という禅宗寺院があったのです。現在、ホテル椿館がある辺りです。
『散策集』の記述を見ると、鷺谷墓地を訪れたのは子規の知っている人のお墓にお参りをするためだったようですね。
はい。子規が幼い頃に可愛がってもらった曽祖母のお墓で、お名前を小島久さんといったそうです。しかし、子規も書いているように、訪れないうちにお墓の数が増えてしまっていて、見つからなかったようです。
それは残念ですね。「花芒」という言葉に子規の寂しそうな気持ちが感じられる気がします。
そうですね。鷺谷墓地を離れた子規と漱石は、引き返して別の場所に移動しました。『散策集』の記述を見てみましょう。
鷺谷墓地を離れて向かった先は…
引き返して鴉渓(あけい)の花月亭(かげつてい)といへるに遊びぬ
『子規遺稿 散策集』 ※ 注釈は筆者が加筆
料亭か何かでしょうか?どの辺りにあったのですか?
柳原極堂が『友人子規』の中で花月亭の場所を記しています。記述を見てみましょう。
花月亭の場所
花月亭は道後八幡宮下、今の鮒屋旅館のあたりに、渓流に沿うて三四の小亭を有したるささやかな料亭であったが、今は無くなった。 ※ 注!…「今」というのは『友人子規』が出版された昭和18年頃のこと。
『友人子規』 ※ 注釈は筆者が加筆
やはり料亭でしたか。残念ながらなくなってしまったのですね。
料亭はなくなりましたが、鴉渓と呼ばれた風景は「ふなや」の庭に残っていますよ。地図で場所を確認しましょう。
「ふなや」の建物の南側に小さな森がありますね。そこが「鴉渓」ですか?
そうです。撮影した写真がありますから、見てみましょう。
なかなか落ち着いた雰囲気でいいですね。でもなぜ「鴉渓」と言われているのですか?
『子規遺稿 散策集』に解説がありますよ。
「鴉渓」といわれる理由
石手から流下する御手洗川の渓流をカラス谷といった。現在鮒屋旅館の庭内で、安芸宮島の紅葉谷にならって造庭し俗に新もみじと呼んだ。 ※ 鮒屋旅館は、現在の「ふなや」のこと。
『子規遺稿 散策集』 ※ 注釈は筆者が加筆
ちなみに、「カラス谷」の語源について、『写真集 子規と松山』に記載があります。
「鴉渓」といわれる理由
伊佐爾波・湯神社両社の神主、社家の烏谷〔からすだに〕三家が御手洗川沿い北側一帯の地を占めていたのが鴉渓の名の起源である。
『写真集 子規と松山』 ※ 注釈は筆者が加筆
なるほど。そういった経緯だったんですね。
そのようです。「鴉渓」付近で子規は三つの句を詠んでいます。
「鴉渓」で詠んだ句
柿の木や 宮司か宿の 門がまへ
百日紅(さるすべり) 梢ばかりの 寒さ哉
亭ところところ 渓に橋ある 紅葉哉
『子規遺稿 散策集』 ※ 注釈は筆者が加筆
子規が詠んだ句をみると、本当に当時の風景が浮かんでくるようです。
そうですね。次に子規と漱石は宝厳寺へ向かいました。
[つづく…]