正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう! 今出へ②

『散策集』吟行ルート

  • 9月20日 石手・道後方面へ  … 柳原極堂とともに
  • 9月21日 御幸寺山麓へ    … 柳原極堂、中村愛松、大島梅屋とともに
  • 10月2日 中の川、石手川堤へ … 子規ひとりで
  • 10月6日 道後湯之町へ    … 夏目漱石とともに
  • 10月7日 雄郡・今出・余戸へ … 子規ひとりで村上霽月を訪れる
Teacher

 今回は、子規が人力車に乗って正宗寺を出たところから話を始めましょう。

Takashi

 このあと子規はどこを訪れたのですか?

Teacher

 『散策集』の記述を見てみましょう。

子規が次に訪れた場所

小栗神社のほとりに出づ

『子規遺稿 散策集』
Takashi

 小栗神社は聞いたことがありません。どこの神社のことですか?

Teacher

 では、地図で「松山市小栗」の場所を示しますから、その範囲で子規が訪れた「小栗神社」を探してみてください。

Takashi

 正宗寺は小栗から見たら北の方にありますよね。そして子規の目的地は西方の今出だから…。もしかして雄郡神社ですか?

Teacher

 ご名答!子規は雄郡神社に立ち寄っています。神社のあゆみを確認しましょう。

  • 用明天皇元〔586〕年 筑紫の宇佐八幡から八幡三神を勧請したと伝えられる。
  • 元慶2(878)年   従五位の下の神階を受ける。
  • 延久5(1073)年   源頼義により松山八社八幡の4番社に定められる。
  • 慶長5(1600)年   毛利氏による三津刈屋口の戦いの際に焼失。
  • 慶長19年(1619)年 松山藩初代藩主 加藤嘉明が社殿を復興。
  • 元禄6(1693)年   松山藩松平家4代藩主 松平定直により再建される。
Takashi

 この神社も古いなあ。加藤嘉明も関わっていたのですね。

Teacher

 境内には、「左馬殿〔加藤嘉明のこと〕の松」がありますよ。

左馬殿の松 ※ 最初の松の木は昭和末期に枯死してしまい、現在は2代目の松。
Takashi

 本当だ。

Teacher

 雄郡神社は、子規の氏神様(産土神)でもありました。

Takashi

 産土神とは何ですか?

Teacher

 生まれた土地の守り神のことです。子規は幼い時から雄郡神社を何度も訪れています。境内に子規の句碑がありますよ。

うぶすなに 幟立てたり 稲の花
Takashi

 確かに、「うぶすな」という言葉を使っていますね。先生、ここまではどの道を進んだのでしょうか?

Teacher

 はい。柳原極堂が『友人子規』の中で次のように推測しています。

柳原極堂の推測

 一宿釈仏海師は故あつて同行せざりしたため、直に正宗寺を出で末廣町を南に突きあて、西へ南へ、又西へ曲折して藤原村(今は市に編入さる)を通りぬけ小栗神社ほとり、郡中街道に出たのであろう。

『友人子規』
Takashi

 ウワー、細かい!藤原村というのは松山市藤原町辺りですよね。郡中街道とは何ですか?

Teacher

 郡中街道は大州街道ともいいます。松山城の西北端にある札の辻を起点として南下し、郡中〔現伊予市の旧市街〕から犬寄峠を超えて内子に入り、さらに新谷から大洲城下へ続く街道のことです。「街道歩きの旅」ホームページに詳細が記載されていますよ。

札の辻跡の碑〔松山市本町三丁目〕
Takashi

 柳原極堂の推測だけではよく分かりませんね。昔の松山市の地図と現在の地図とを比較すれば、見えてくるかも。

Teacher

 昭和22〔1947〕年4月5日に米軍が撮影した航空写真があります。まずはこの写真を見てみましょう。

昭和22〔1947〕年に米軍が撮影した松山(該当箇所を拡大するために画像をトリミングしている) 出典:国土地理院ウェブサイト
Takashi

 松山市駅と正宗寺の場所は分かりました。真ん中を南北に流れているのが石手川で…、雄郡神社はどこですか?

Teacher

 目安となる建物や街道の名称を航空写真に記入してみましょう。

上記写真に建築物等の名称を記入したもの  出典:国土地理院ウェブサイト
Takashi

 これで場所がはっきりしました。あとは子規がたどったと思われる道ですね。

Teacher

 この航空写真と松山市教育委員会刊行の『子規遺稿 散策集』に掲載されている子規足跡地図を照合すると、次のようになります。

上記写真に吟行の道を記入したもの  出典:国土地理院ウェブサイト
Takashi

 なるほど。室町交差点付近を右折して雄郡神社へ向かったのか。でも、そこから郡中街道まで出る道は通ったことがありません。今も残っているのですか?

Teacher

 はい、今も残っていますよ。現在の地図に書き表してみましょう。

国土地理院電子国土基本図から作成
Takashi

 本当だ!そのまま残っていますね!

Teacher

 室町交差点から雄郡神社前まで実際に歩いて写真を撮影しましたので、順に見ていきましょう。

雄郡神社〔鳥居前の道が郡中街道〕
Takashi

 この道を子規が通ったのか。何か感慨深いですね。子規は途中にある地蔵堂に立ち寄ったのでしょうか?

Teacher

 残念ながら分かりません。でも想像するのは楽しいですよね。さて、雄郡神社に立ち寄った子規は、いくつか句を詠んでいます。『散策集』の記述を見てみましょう。

小栗神社〔雄郡神社〕で子規が詠んだ句

男ばかりと 見えて案山子の 哀れ也

稲筵 朝日わつかに 上りけり

鉄砲の かすかにひびく 野菊哉

御所柿に 雄郡祭の 用意哉

秋茄子 小きはものの なつかしき

稲の穂や うるちはものの いやしかり

六尺の 庭にふさがる 芭蕉哉 

『子規遺稿 散策集』
Takashi

 当時は神社周辺は田園風景だったことが読み取れます。

Teacher

 その通りです。昭和22〔1947〕年に撮影された航空写真にも田園風景が写っていますよね。

Takashi

 先生、子規の句に「雄郡祭の用意哉」とあります。現在の松山まつりは、毎年10月5日から7日にかけて行われます。当時は開催時期が違っていたのですか?

Teacher

  はい。当時は10月23日と24日に行われていました。

Takashi

 なるほど。そうなのですね。

Teacher

 雄郡神社の境内には、この時に詠んだ「御所柿」の句碑が建てられています。句碑の写真を見て、今日は終わりにしましょう。

Takashi

 はい。ありがとうございました。

御所柿に 小栗祭の 用意哉

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