「松山札辻より◯里」里塚石を探索せよ!Part.1 -讃岐街道編-
皆さんは下の写真の場所を訪れたことはありますか?「札之辻」と刻まれた石碑が2種類建てられている場所です。
左側写真に写っている「里程」碑の裏面に、札之辻の由来が刻まれています。
札之辻の由来
松山札之辻は、松山城と大林寺(城主代々の墓所)を結ぶ紙屋町の通りと、江戸時代松山随一の繁華街であった本町通りとの交差点にあたり、当時松山藩の制札所(高札場とも言う)のあった所で、伊予国の交通の起点となっていた。「松山叢談」によれば、ここから五大街道の里程が始まる。
「松山札之辻より何里」の石の里程標は、寛保元年(1741年)松山藩主第六代松平定喬公の時に、祐筆の水谷半蔵に書かせたものと伝えられている。
いま里程標は、各街道に合計三十数本が残存している。
昭和60年10月 建設省 松山工事事務所
(社) 四国建設弘済会
上の写真にも写っていますが、松山札之辻を出発点とする各街道の名称と各地点までの距離を以下に記します。
金毘羅街道 小松まで十一里 金毘羅まで三十一里
土 佐 街 道 久万まで六里 土佐まで二十五里
大 洲 街 道 中山まで七里 大洲まで十三里
今 治 街 道 北条まで四里 今治まで十一里
高 浜 街 道 三津まで一里 高浜まで二里
「札之辻の由来」にもある通り、ここを起点に延びた街道沿いには、道路の方向や距離などを示すため、一里〔約4km〕ごとに「里塚石〔りつかいし〕」が建てられました。この石が昭和60年当時、30数本残存しているというのです。
これは、その里塚石を求めて探索した記録です。当時の各街道が現在のどの道にあたるのかも含めてまとめていきます。第1回は、松山市から香川県〔讃岐国〕に向かう讃岐街道を巡ります。この道は江戸後期から明治・大正にかけて金毘羅参りの人々が利用する街道であったことから、金毘羅街道とも呼ばれています。
【参考資料】ブログ「四国の古道・里山を歩く」讃岐街道を歩く 『東温地区の旧街道(東温高校地域研究部 昭和63年10月刊)』
Part.1 讃岐街道沿いに建てられた里塚石
讃岐街道沿いには10本の里塚石が建てられました。レプリカを含め現存しているのは8本。それでは里塚石がある場所を地図で確認しましょう。
松山札之辻から市街地にかけては、いずれの道が街道であったかは不明です。市街地の出口である新立橋〔石手川に架かる〕が実質上の起点となります。「壱里」里塚石から順番に紹介していきます。
「松山札辻より壱里」里塚石
この里塚石は、松山市桑原支所前に建てられています。松山札之辻からここまでの街道ルートを地図で確認しましょう。
讃岐街道は新立橋を渡ったあと石手川に沿って東進し、樽味一丁目にある風風亭本店付近から南東へ続きます。松山東雲短期大学までの斜めの道がそうですね。桑原支所は讃岐街道から外れた場所にありますから、元の場所から移設されたものであることが分かります。「壱里」里塚石があった辺りまでのルートを動画で確認してみましょう〔3分16秒〕。
新立橋付近から「壱里」里塚石までの間にある史跡をいくつか紹介します。
金刀比羅宮松山分社
松山分社は江戸末期より松山城主をはじめとする方々の信仰を集め、当宮遥拝所として伊予路における金毘羅信仰の拠点として栄えていました。入り口の鳥居は元治元〔1864〕年10月に建てられたものです。興味深かったのは川上村の方のお名前がたくさん石に刻まれていたこと。川上村は現在、東温市南方と住所名は変わっていますが、讃岐街道筋に形成され繁栄した村です。当時の信仰心の厚さを物語ってくれているようです。
境内には、正岡子規の句碑も建てられていました。
句碑の解説板には、新立橋の歴史が記されています。引用しましょう。
子規が松山で養生中の明治28年秋の句。新立橋は、はじめ蓬莱橋という名で寛政元年(1789)に架けられた。明治のころは、長さ35.5メートル、幅4.5メートル、橋脚が高く木橋ながらアーチ形の反りをもった絵のような姿。下流から望むと、東の山の端に上る名月が橋の下はるかに眺められた。昭和41年建立。
句碑の解説板より ※ 太字は引用者による。
「木橋ながらアーチ形の反りをもった」ということは、山口県にある錦帯橋のような形だったのでしょうか?確か、土佐街道の起点である立花橋もかつては同じような形だったはず。当時の石手川の風景を再現してほしいですね。
句碑公園
新立橋を渡り、最初の信号を左折したところにあります。左が五百木瓢亭、右が正岡子規の句碑です。そして、その右側には「紙の町 日の出町」と刻まれた石があります。これについて、解説板の記述を見てみましょう。
正岡子規の句の解説文に次のように記されていますね。
現在の日の出町を素鵞村小坂といっていた藩政時代、紙漉〔かみすき〕職人を高知や周桑方面から呼び、藩奉書製造に当たらせた。これらの人の住む集落を新場処と呼んだ。
この地区にはこのような歴史があったのですね。そして、句碑の隣には胸像と顕彰碑、文学碑も建てられています。
和田重次郎は、次のような業績を残した方です。
明治8年~昭和15年(1875~1940)アラスカで大活躍した探検家。現周桑郡小松町出身、父は旧小松藩士。明治8年1月6日温泉郡枝松村(現松山市日の出町)の母の実家に生まれる。同23年16歳で渡米。捕鯨船に乗り組み、また犬ゾリにも習熟。後にアラスカ中部のタナナ地区で毛皮交易商を営んでいたが、同35年10月末同地区クリアクリークから20kmほどの所に砂金を発見。著名なフェリックス・ペドロと共に砂金発見者の一人としてゴールドラッシュをもたらし、フェアバンクス発展のもととなった。また、北極圏6千kmの探検に成功、未開地の地図作成にも活躍。大ゾリ競争にもしばしば優勝、「グレート和田」とたたえられた。昭和15年ロサンゼルスのホテルで死去。 65歳。彼については、マリー・リー・デービスの「アメリカの屋根裏・アラスカの内輪話」ほか古いアラスカ資料が多く、英雄的存在であったようである。国内では新田次郎が「犬橇使いの神様」でその活躍を紹介している。
『愛媛県史 人物』より ※ 太字は引用者による
これらの碑は平成19〔2007〕年3月に建立されました。和田重次郎顕彰会のホームページに詳細が記されているので、リンクを添付しておきます。合わせてご一読ください。
遍路道標
これは、讃岐街道に残る最も松山寄りの遍路道標です。石に刻まれた文字を確認しましょう。
この場所が讃岐街道と松山環状線との交差点です。
讃岐街道は写真中央に映っている「牛角」の右側の道で、この道を真っ直ぐ進むと松山市桑原に到着します。里塚石が設置されていた付近には、その歴史を伝えてくれるものがあります。
「一里木」バス停
「一里木〔いちりぎ〕」という名称のバス停がありました。ブログ「四国の古道・里山を歩く」には、この名称の由来について次のようにまとめられています。
「一里木」地名の由来
松山藩が元文五年(1740)標識を耐久性のある石柱に代えるまで木製の里標識だったので「一里木」の地名が残ったという。
ブログ「四国の古道・里山を歩く」讃岐街道を歩く
「札之辻の由来」の文とは一年の誤差がありますが、石柱以前には木製の道標であったことを現在に伝えてくれる地名です。ブログ「四国の古道・里山を歩く」では、街道から桑原支所に左折する地点の街道沿いに里塚石が立っていたと記載されています。その場所を撮影してきましたので、ご覧ください。
この交差点を左折〔写真では右方向〕して暫く進むと松山市桑原支所があり、その敷地内に「壱里」里塚石が建てられています。
「壱里」里塚石がもとあった場所から少し進んだ所に常夜燈が建てられていました。
常夜燈
常夜燈傍にある石柱に刻まれた文字によると、この常夜燈は明治41〔1908〕年に建てられたようですね。「奉燈」の文字の上にある「石金」という文字には次のような意味があります。
◉「石」= 石鉄山 = 石鎚権現
◉「金」= 金毘羅 = 讃岐金毘羅権現
この常夜燈の前を過ぎた後、讃岐街道は松山東雲短大がある交差点から日尾八幡神社の方へ続きます。次は鷹子町に建てられている「松山札辻より弍里」里塚石です。
「松山札辻より弍里」里塚石
この里塚石は、伊予鉄道横河原線鷹子駅南東の街道沿いに建てられています。「壱里」里塚石の場所からここまでの街道ルートを地図で確認しましょう。
日尾八幡神社付近から「弐里」里塚石までの区間には、常夜燈や遍路道標が点在していました。このルートを動画で確認しましょう〔4分25秒〕。
それでは、「壱里」里塚石から「弐里」里塚石までの間にある史跡を紹介します。
北久米町の常夜燈
自然石を用いた巨大な常夜燈です。傍には昭和48〔1973〕年5月に建てられた比較的新しい遍路道標があり、次の文字が刻まれています。
なお、右の遍路道を真っ直ぐ進むと、四国八十八ヶ所霊場50番札所「繁多寺」に到達します。
【参考】四国八十八ヶ所霊場会ホームページ 東山 瑠璃光院 繁多寺
日尾八幡神社
讃岐街道と県道334号との交差点に位置する場所にあります。奈良時代、孝謙天皇の頃に勧請された由緒ある神社、歴史上の人物の多くがこの神社に関わっています。解説板の記述を見てみましょう。
孝謙天皇、源頼朝、河野通信、加藤嘉明など、本当に多くの歴史上の人物が関わっていますね。解説板には名前が記載されていませんが、もう一人紹介したい人物がいます。日尾八幡神社の神官を務めた三輪田米山です。
文政4年~明治41年(1821~1908)神官、書家。文政4年1月10日旧松山藩久米郡久米村(現松山市)日尾八幡宮の神官の家に生まれる。幼名秀雄、長じて常貞、別名を清門、宇は子謙、米山と号し得正軒主人ともいう。米山が書に志したのは17、8歳のころからで,僧明月や藩儒日下伯巌の手本を習っていたが、29歳の時松山の本村家で法帖を見て開眼、以来同家と大庄屋の乃万家から絳帖や淳化閣帖を、期限付きで借り受けて数百回、のちには王義之のみ昼夜習ったという。当時は書家の手本を習うのがあたりまえで、今日のように法帖について学ぶ者はなかった時代である。米山の書は豪快で気宇壮大、特に小字数の大字は造形性に勝れ、近代書の先駆をなすものといえる。米山の書名が上ったのは60歳ころからで、神社の神名石や注連石、幟などに人気が集まり、松山を中心とする中予一帯の神社にこれらの石文が散在し、自然と同調し宇宙にとけ込んでいる。
晩年に手がけた「かな」は、秋萩帖の影響の濃いものであるが、80歳ころからは草書作品に同化した独自のかな作品となっている。米山は人となり謹厳、潔癖家で、反骨の精神が強く、勤王の志も厚かったから慷慨家でもあったのであろう。好奇心も強く家族や近隣からは偏骨とみられていた。真面目人間の米山が、奔放自在な米山書を完成し得たのは、酒によるところが多い。ほとんど泥酔に近い状態で天真に生き切った時書が成ったという感がある。禁酒を誓いつつ、無酒にては難しと、飲みかつ書きつづけて88年、その数は1万点を下るまいといわれている。明治41年11月3日、享年88歳で死去。
『愛媛県史 人物』 ※ 太字は引用者による
Wikipediaの記述のよれば、三輪田米山が揮毫した石碑は中予地方を中心に約3万点あるそうです。ちなみに、日尾八幡神社の中連石の揮毫も米山のものです。
この記事を読んで興味を持たれた方は、米山揮毫の碑を探してみてくださいね。なお、境内には顕彰碑が建てられていました。
真ん中に建てられている石碑が「米山碑」です。一番右側の碑は「三輪田元綱先生碑」で、米山の弟の業績を顕彰したものです。彼の生涯についても確認しておきましょう。
文政11年~明治12年(1828~1879)勤皇家、国学者。文政11年6月21日松山久米村の日尾八幡神社祠官三輪田清敏の第3子として出生。長兄は書家の米山。次兄は明教官教授の高房。通称は綱一郎。葛の舎と号す。幼時田内董史に学び、上京して大国隆、さらに江戸に出て平田銕胤に国学を学ぶ。尊王攘夷を唱え、文久3年、師岡節斎ら同志の者と共に、京都の等持院に入り,足利三代(尊氏・義詮・義満)の木像の首を斬り、三条河原にさらした。このため但馬豊岡に幽囚の身となったが、5年後王制復古により許されて松山に帰った。やがて上京した元綱は外務権大丞となり、明治2年従6位に叙せられたが、病のため帰郷。帰っては大山祇神社宮司に任ぜられ、さらに筑前の香惟宮宮司,武蔵国の鳥越神社祠官に任ぜられたが、病いえず帰郷して、明治12年1月14日没した。享年51歳(墓碑は54歳)。歌文集『葛農舎集』『蓬仙日記』には若き時からの元綱の歌や動向かうかがわれる。ほかに『獄中述懐』『元孝への遺言』がある。女子教育家の真佐子とは京都で結婚した。大正5年に従五位を贈られる。
『愛媛県史 人物』
なかなか激烈な人生を送った方のようですね。それでは「弐里」里塚石までの旅を続けましょう。日尾八幡神社から県道334号を越え、500m程南進した所を左折し、真っ直ぐ進むと「弐里」里塚石がある場所に到達します。県道を越えて少し進んだ場所から日尾八幡神社を見てみると、写真のような風景が目前に広がります。
街道から見る神社の風景はなかなかのものがありますね。ここからは常夜燈と遍路道標が点在しています。いくつか紹介しましょう。
線路傍に建つ常夜燈
伊予鉄道横河原線の線路傍に常夜燈がありました。建立された年代が刻まれていましたが、なかなか古い常夜燈です。もう一枚の写真をご覧ください。
なんと、寛政12〔1800〕年3月に建てられた常夜燈でした!この時の江戸幕府将軍は第11代徳川家斉。なお、同年には伊能忠敬が蝦夷を測量しています。
久米橋
「明治45〔1912〕年3月架設」とありますね。ただし、反対側には別の年が刻まれていました。
こちら側には「昭和29年3月」と刻まれています。なぜ年代が併記されているのでしょうか?ご存知の方はコメント欄にお願いします。
三叉路に建つ遍路道標
ブログ「四国遍路道の道標・丁石」によれば、この遍路道標は文久2〔1862〕年に建てられたもので、各所への道のりが記されているそうです。道標に刻まれた文字を図示されていますので、リンクを添付します。詳細はそちらでご確認ください。
【参考】ブログ「四国遍路道の道標・丁石」48番西林寺から49番浄土寺へ
遍路道標
三叉路に建つ遍路道標から少し進んだ所にあります。「左へんろ道」「すぐこんぴら道」「家内安全」と刻まれています。
鷹子町の常夜燈
鷹子-久谷を結ぶ県道東部環状線に出る手前右側に建てられています。横河原線の線路傍に建つ常夜燈と同じ「寛政12年3月」建立です。そして、東部環状線を横切って東へ200m程進んだ所に「弐里」里塚石が建てられています。
これは平成9〔1997〕年2月に建てられたレプリカで、側面には複製時の由来が刻まれています。
個人宅の敷地内にあるということで撮影はしておりませんが、現物は今も残されているのですね。これからも大切に保管し続けていただきたいと思います。さて、街道はここからさらに東へ続きました。
次は「三里」里塚石です。
「松山札辻より三里」里塚石跡
この場所は県道334号〔旧国道11号〕と内川が交差する地点です。「松山札辻より三里」の里塚石はすでになく、「三界萬霊」と刻まれたお地蔵様のみが残されています。「弍里」里塚石の場所からここまでの街道ルートを地図で確認しましょう。
この区間にも遍路道標や常夜燈がいくつか建てられていました。動画でこの区間の現況を確認しましょう〔3分53秒〕。
それでは、「弍里」里塚石から「三里」里塚石までの間にある史跡を見ていきましょう。
平井町の遍路道標
県道334号沿いにある家族葬ホール花琳館の北側に建てられています。なかなか立派な道標で、各所への道のりが記されています。「讃岐街道を歩く」によれば、この遍路道標は元は旧街道の左折地点にあったらしいです。
生目神社と遍路道標群
左側の大きな里程石と真ん中の金毘羅道標に記された文字を確認してみましょう。
里程石は明治22〔1889〕年1月に建てられたようですね。金毘羅道標は読み取りにくいのですが、『東温地区の旧街道(昭和63年10月東温高校地域研究部編)』によると、文政4〔1821〕年に松山城下の商人竹島祐右エ門が願主となって建立したもののようです。よく見てみると、「施主 竹島」と記されていますね。別の面に記された文字も見ておきましょう。
そして、県道沿いには2基の石造物が並んで建てられていました。
左側の石造物には「播磨」という文字が読み取れます。この辺りからの大地を「播磨塚」と言いますから、このことを記したものではないかと考えられます。右側の石造物は雑草で覆われてしまっていて、文字を確認することができません。草刈りが行われたら、再確認したいと思います。
旧街道
生目神社から県道を350m程進んだ所に、県道と旧街道との分岐があります。旧街道は西商運輸の看板左側の細道です。この道を進むと、播磨塚池の土手付近で県道に再び合流します。
写真の播磨塚池付近で松山市に別れを告げ、東温市に入ります。
お地蔵様と常夜燈
「ハリマ塚」バス停付近にあります。常夜燈に記された文字を確認しましょう。
「石鉄山」は石鎚山の古称、「象頭山」は金毘羅第権現のある山の名前のことです。なお、この場所の南側に「西岡天満宮」がありましたので、紹介します。
西岡天満宮
「天満宮」ですから、もちろん菅原道真を祀った神社です。ただ、非常にこじんまりとした、何か窮屈な印象を受けました。また、西岡八幡への道を示す道標が境内に建てられていました。
この道標が境内に建てられた経緯について、三輪田米山が揮毫した石文を紹介する「米山」ホームページに次のように考察されていました。
今は境内にある道標ですが、出来たときは当然道路にあったでしょう。それが何処かですが、西岡天満宮を左に見る位置だとすると、日吉神社から重信の方へ向かうところに、金比羅街道があったとして、そこに在ったのだと思います。
明治に入って金比羅街道が整備されてバイパス化し、お宮のある一帯はローカル化したのでしょう。だから分かれ道に道標が出来たのではないかと想像します。今は小さなお宮ですが、昭文社の広域詳細地図に載っています。この地図は、神社仏閣が、山の中の小さな物まで網羅されている優れ物です。
その後昭和に入って旧11号線が出来、平成に入って11号線のバイパスが出来、ここは自転車で探すのも難しいほど辺鄙な場所になりました。
『米山』ホームページ 西岡八幡
なお、菅原道真と伊予国については、以前当ブログで紹介させていただいています。リンクを添付しますので、ご一読ください。
【参考】伊予国における菅原道真の足跡をたどろう!綱敷天満宮〔今治市〕と履脱天満宮〔松山市〕
ここからさらに東進し、県道と内川が交差する辺りに「三里」里塚石が建てられていました。しかし、里塚石は現在行方不明で、その場所にはお地蔵様が祀られています。
三界萬霊とは?
先に述べた通り、現在「三里」里塚石は失われてしまっています。跡地に祀られているお地蔵様に刻まれた「三界萬霊」とは次のような意味です。
「三界」とは?
欲界(欲の世界)・色界(物質の世界)・無色界(精神だけの世界)の三つの世界を指し、発生から死滅まで繰り返している世界で、三界萬霊塔はこの世の生き物全ての霊をこの塔に宿させているものである。
「人と暮らしの伊那谷遺産プロジェクト」三界萬霊塔/六地蔵
これは、さまざまな事情でお亡くなりになった方々をお祀りするために設置されたものです。金毘羅参りをされるお遍路さんや地域の方々などで亡くなられた方を祀っているのでしょうか?さて、次は「四里」里塚石です。
「松山札辻より四里」里塚石
「松山札辻より四里」里塚石は、県道334号〔旧国道11号〕と現国道11号が交差する斎院ノ木交差点にあります。「三里」里塚石跡からここまでの街道ルートを地図で確認しましょう。
「松山札辻より三里」里塚石跡があるところは西岡本村集落の入り口ですが、そこと志津川集落においては、県道334号から離れたところが旧街道であるところに共通する特徴が見られます。地図中の青色の点線は「渡し」跡を意味していて、架橋前は渡し舟で重信川を渡っていました。なお、この区間は自動車で進むことができる箇所とそうでない箇所があるので、動画を3本に分けて編集しました。各動画ごとに史跡を確認していきたいと思います。
【区間①】西岡本村から志津川集落の入り口まで〔1分26秒〕
それでは、この区間に点在する史跡を確認しましょう。
西岡集落の常夜燈
この常夜燈の建立年が全く分かりません。ご存知の方はお知らせください。
下市地蔵尊
国道11号を渡ってすぐの所にあります。東温市公式ホームページに解説がありましたので引用しますね。
志津川に町筋という幅の広い道路が東西に通っています。その町筋の東側に上市地蔵尊、西側の西岡村との境に下市地蔵尊があります。かつて志津川は市場町として栄え、町筋には旅籠や商家などが立ち並び屋号も残されています。この2体の地蔵尊は、市場の守り神として祭られていたのではないかと思われます。
残されている屋号など
伊勢屋、中野屋、唐津屋、茶屋、紺屋(2)、木屋、お江戸、米田屋、増屋、上酒屋、下酒屋、雑貨屋(2)
診療所(野村良哲)と至健堂、寺子屋(竹村周造)、札場、殿倉
『東温市公式ホームページ』東温市の文化財 上市地蔵尊・下市地蔵尊 ※ 太字・下線は引用者による
これらの地蔵尊は、平成16〔2004〕年4月1日に東温市指定史跡として認定されています。さて、讃岐街道はこの先から県道を離れて細道に入ります。自動車では進みにくい道ですので、自転車で重信川付近までたどってみました。次の動画をご覧ください。
【区間②】志津川-横河原間の旧街道〔3分43秒〕
続いて、この区間に点在する史跡を確認しましょう。
至健堂塾跡碑
左折した信号手前にあります。この塾について、先述の『東温市の文化財』には「診療所(野村良哲)と至健堂」と記載されていました。野村良哲という人物の生涯を確認しましょう。
【蘭医 野村良哲の生涯】
◉ 天保元〔1830〕年1月15日 伊予国周布県長野村に誕生(父は神職で国学者)
◉ 不明 伊予小松藩の碩学、近藤篤山の門に入る
◉ 嘉永4〔1851〕年6月 久米郡志津川村の医師、野村良元の養子となる
◉ 不明 久米郡川村に寺子屋を開く(川村=志津川村のことか?)
◉ 明治35〔1902〕年7月15日 74歳で逝去
※ 参考『日本医史学雑誌 第7巻第4号(昭和32年3月20日発行)』儒者近藤篤山と蘭医野村良哲の関係について(宮内孝夫氏)
『伊予聖人』と称された儒者、近藤篤山に学んだ人物なのですね。宮内孝夫氏は、野村良哲について次のように記述しています。
蘭医野村良哲は、嘉永より明治中期に至る間、伊予国久米郡志津川村において和蘭流の医術を行い、名医としてしられたが、更に彼の名を高めたのは、寺子屋を開いて郷党の子弟を教育に儒学を教え大きな尊敬を集めていたからである。〔中略〕彼は後年久米郡川村に寺子屋を開いたが、石手川以東の僧侶、庄屋、教員にして良哲の教えを受けない者はないと言われるほどの名声を博した。
『儒者近藤篤山と蘭医野村良哲の関係について』 ※ 太字は引用者による
おそらく彼が開いた寺子屋の名称が「至健堂塾」なのでしょう。碑が市場町として栄えた志津川の街道沿いに建てられていることから、多くの子弟が塾に学びに来ていた光景が目に浮かぶようです。
黒住教敷地内にある常夜燈
この常夜燈は文化12〔1815〕年に建立されたとのことです。この常夜燈にも「金」=讃岐金毘羅権現、「石」=石鎚権現と記されていますね。
上市地蔵尊
先述の「下市地蔵尊」同様、こちらの地蔵尊も平成16〔2004〕年4月1日に東温市指定史跡として認定されています。隣には、文化11〔1814〕年に建立された「天下泰平 大乗妙典塔」がありました。他地域の大乗妙典塔については、当ブログの別の記事で紹介していますので、こちらもご一読ください。
【参考】自然災害伝承碑を訪ねて…12 寛延元〔1748〕年9月に発生した暴風の記憶・伊方町二名津
「上市地蔵尊」から旧街道は県道を離れ、自動車2台がギリギリ離合できる道に入ります。あとは愛媛大学医学部前を直進して横河原集落に入り、重信川河畔まで一直線です。
若宮社と身代わり狸の伝説
伊予鉄道横河原駅北側にある若宮社。Google mapで見てみると、「身代わり狸」と表示されています。この社は、横河原集落に伝わる伝承を現代に生きる私たちに教えてくれているのです。『重信のむかし話(昭和58年 重信町編)』に掲載されていましたのでリンクを添付します。
【参考】『重信のむかし話』身代わり狸(横河原桟敷) ※ 45〜47ページに掲載されています。
若宮社を東進して旧街道と交差する横河原駅前大通りを過ぎ、重信川へと向かいます。駅前大通りを過ぎた場所から若宮社方面を見ると、写真のような風景が目前に広がります。
この十字路は讃岐街道と大洲や宇和島から来る金毘羅街道の合流点で、『讃岐街道を歩く(2)』によれば、かつてはこの角に道標が建てられていて、現在は松山市歩行町のロープウェー街近くの寿司店前にあるそうです。現地を訪れてみると、本当にありました。これです。
どのような経緯でこの場所に設置されることになったのでしょうか?この道標がある場所を地図で表示しておきますね。
横河原の遍路道標
先ほどの場所から東進してすぐの場所にあります。明治39〔1906〕年6月に建てられたもので、「右金刀比羅道27里1丁」「左 観世音道2里34丁」と記されています。『東温地区の旧街道』によれば、観世音道とは、重信川の源流近くにある福見山への道を示すものだそうです。
一字一石塔と大東亜戦争戦没者慰霊塔
旧街道の突き当たり付近にありました。これらの塔が建立された敬意をご存知の方は、コメントをいただけるとありがたいです。旧街道の突き当たりの風景は下の写真の通りです。
この後、人々は渡し舟で重信川を渡って川上方面へ向かいました。最初に重信川に橋が架けられたのは大正8〔1919〕年のことで、この時は木橋でした。その後、横河原橋が完成したのは昭和5〔1930〕年のことです。
さて、次に重信川渡河地点から「四里」里塚石がある斎院ノ木交差点までのルートを動画で確認しましょう。
【区間③】横河原橋-斎院ノ木交差点間の旧街道〔1分38秒〕
重信川を渡った少し先で県道334号から左へ分かれる細い道に入り、350m程進んで再び県道に合流します。あとは県道を直進すれば、「四里」里塚石がある場所に到達です。この区間には2つの史跡がありました。
茶堂の常夜燈
細い道に入ってすぐの前方の三叉路に、燈を入れる火袋の部分がない常夜燈と「七里」と記された金毘羅道標の一部がありました。この常夜燈は明治18〔1885〕年に建てられたものです。また、『愛媛県-近世以前の土木・産業遺産』によれば、金毘羅道標は嘉永7〔1854〕年に建てられたもので、かつては「金毘羅大門より廿七里」と文献に刻字されていたそうです。
斎院ノ木交差点付近のお地蔵様
この場所を過ぎると、旧街道と国道11号が交差する斎院ノ木交差点です。歩道橋から「四里」里塚石がある場所を撮影しましたので、写真をご覧ください。
「四里」里塚石の設置状況は次のとおり。国道11号側に面して建てられています。
次は「五里」里塚石。ここから旧街道は国道からも県道からも離れ、川上集落を経由して山中へ入っていきます。
「松山札辻より五里」里塚石跡
「松山札辻より五里」里塚石跡は、東温市松瀬川の永寿橋の袂にあったと言われています。お地蔵様がある所が跡地でしょうか?それでは、斎院の木交差点にある「四里」里塚石からここまでのルートを確認しましょう。
斎院ノ木交差点から東へ、県道334号線の北側の道〔川上小学校南〕を過ぎて宝泉川を渡り、川上集落を通過します。旧街道は松山ゴルフ倶楽部の敷地内を通って三軒屋に抜けますが、トンネルが狭いために自動車では途中までしか進むことができませんでした。その場所までのルートを動画にまとめましたのでご覧ください〔3分5秒〕。
それでは、松山ゴルフ倶楽部までにある6つの史跡を見ていきましょう。
川上集落の遍路道標①
二股に道が分かれた地点に建てられています。この道標は比較的新しいのでレプリカですね。別の面にも文字が記されていましたので、確認してみましょう。
この場所の道標は嘉永3〔1850〕年に建てられたようです。『讃岐街道を歩く(2)』によれば、この場所にあった本物の道標は梅津寺遊園地内にあるということでしたので、現地を訪れて撮影してきました。
横河原の十字路にあった道標と同様、この道標もどのような経緯でこの場所に設置されることになったのでしょうか?ご存知の方はコメント欄にてお知らせください。
川上神社
拝殿へと上がる石段の途中に旧街道が通るというなかなか珍しい神社です。神社の由緒は次のとおりです。
宝物の古文書によれば、応永4〔1397〕年伊予国司河野通久が社頭を決定し、同34年社殿を再建して河野家の祈願所と定めた後に松山藩主の祈願所となった。古記録によれば大宮社、川上社、川上大宮社、稲荷五社大明神等とも称えられたという。明治4〔1871〕年郷社列格とともに川上大宮五柱大明神と改め、同28〔1895〕年川上大宮五柱神社、昭和18〔1943〕年9月15日川上神社と改称した。
「愛媛県神社庁」ホームページ
室町時代に開かれた神社でした。伊予国司河野通久とは、次のような生涯を送った人物です。
応永元年~永享7年(1394~1435)室町時代河野氏の惣領職を継承して活躍した武将。河野通堯の孫、同通義の嫡子。幼名を犬正丸という。応永元年父通義病死のあと、出生した。通義の弟通之(通久の叔父)が、河野家を継承して勢力の維持をはかった。通久は同13年(1406)に湯築城で元服して持通といい、さらに通久と改めた。同16年(1409)に通之の譲りをうけて、河野氏の家督をつぎ、のちに刑部大輔に任ぜられた。通久の治世は四代将軍足利義持から、六代義教の時代にわたる。義教は幕府における綱紀の粛正を断行するとともに、将軍の統率権を強化しようとはかった。彼の事績の一つとしてあげられるのは、周防・長門・豊前国の守護大内盛見の権勢を利用して、混乱した九州の経営に当ったことであった。盛見は永享3年(1431)筑前国を巡視して、同国内の大友持直の所領を没収しようとした。この所領の問題をめぐって、大内氏対大友・少弐・菊池氏との間に抗争を繰返したが、かえって盛見は筑前国萩原に戦死をとげた。しかし紛争は大内氏の側では、子持世に引き継がれた。翌4年(1432)10月持世は幕府に対して、大友・少弐両氏の討伐を要求した。そこで義教は安芸・伊予・石見等の諸国の兵を動員することにした。翌年5月(1433)持世は持盛を豊前国にたおして、大内氏を統一すると、すすんで筑前国に入り、少弐満貞を攻め滅して肥前国をも併合した。この間九州の各地で紛争がおこり、かえって少弐氏は勢力を回復したので、持世は再び幕府に援軍の派遣を求めた。義教は永享7年(1435)伊予・安芸・石見国に出兵を命じた。この時、通久は幕命を奉じて豊後国に出兵したが、大友氏の策略にかかって、6月29日に姫嶽城の戦いに討ち死にした。 41歳。
『愛媛県史 人物』 ※ 太字は引用者による
彼が生きた時代は全国で争いが起こった混沌とした時代です。なお、彼が元服した湯築城は、現在道後公園として整備されています。
川上集落の遍路道標②
この道標は、平成28〔2016〕年に再建されたものです。「右名こんひらへ一里」とある「こんひら」は香川県の金刀比羅宮のことではなく、東温市河之内にある金毘羅寺のことです。金毘羅寺の場所を地図で確認しましょう。
金毘羅寺は長寛年中〔1163〜1165〕の創立で、当初は称名寺という寺名でしたが、慶長年間に加藤嘉明(松山城を築城)によって金毘羅寺と改められたと伝えられています。実際に訪れてみましたが、「荘厳」という言葉が当てはまるほど圧倒されました。撮影した写真をご覧ください。
惣河内神社が隣接していて、境内には夏目漱石門下の俳人、松根東洋城が暮らしていた「一畳庵」という建物が大切に保管・保存されています。
讃岐街道からはかなり離れた場所にありますが、ぜひ一度訪れてみてくださいね。
【参考】一般社団法人 東温市観光物産協会ホームページ 金毘羅寺
中山寺
天台宗寺門派の寺院だということですが、すでに廃寺となっているようです。
宮東集会所前にあるお地蔵様と石碑
「三里」里塚石跡に祀られているものと同じ三界萬霊地蔵尊です。同じ敷地内には文化4〔1807〕年に建立された石碑もありました。
吹上池付近の常夜燈
『讃岐街道を歩く(2)』によれば、この常夜燈は天保5〔1834〕年に建立されたものだそうです。これにも「石」「金」と記されていますね。このあと、松山ゴルフ倶楽部方面へ進み、二つのトンネルを抜けて三軒屋集会所付近へと旧街道は続きます。ルートを地図で再確認しましょう。
鳥越トンネルを過ぎると下り坂になっていて、新しい住宅地まで下りきると常夜燈が建っています。常夜燈までの道を撮影しています。ご覧ください、
常夜燈は、地域の方が嘉永4〔1851〕年4月に建てられたものだそうです。「願主 三軒屋組中」とも記されていますね。
常夜燈の前の道を進んで県道327号湯谷口・川内線に合流し、桧皮峠を目指します。この辺りの旧街道は県道と並行しつつ時に出合いを繰り返していたようで、県道からやや離れた所にある民家の前の石垣沿いに金毘羅道標と自然石の古い道標が並んで建てられていました。
この道標のある場所から三軒屋集落側と桧皮峠側両方の風景を撮影してみました。旧街道の当時の様子が想像できますでしょうか?
この道標がある場所を地図で確認しておきましょう。本当に県道からわずかに離れた所にあることが分かります。かつてはこの細道が讃岐街道だったのですね。
金毘羅道標がある場所からさらに県道327号〔湯谷口・河内線〕を進むと、本谷川に架かる永寿橋に到着します。橋の袂には、永寿橋建設時の施主名を刻んだ石碑がありました。この辺りに「五里」里塚石が建てられていたそうです。
旧街道はここからさらに北進し、桧皮峠を越えて土谷集落へと続きます。「五里」里塚石跡からしばらく進むと三叉路があり、そこには「右こんぴらみち」と刻まれた石碑もありました。
二宮金次郎像 発見!
「五里」里塚石跡からしばらく北進すると、右手に旧松瀬川小学校があります。校舎は現在、公民館として活用されていて、正門もしっかりと残されていました。正門脇に二宮金次郎像があり、今も道ゆく人々を見守り続けています。
【旧松瀬川小学校 二宮金次郎像データ】
◉ 寄贈年:昭和13〔1938〕年9月1日 ◉ 寄贈者:今井清一 ◉ 材質:石造
【参考】二宮金次郎像 探索の旅10 〜東温市をゆく〜 ※ 東温市に残存する5体の二宮金次郎像です。合わせてご覧ください。
さて、次は土谷集落にある「松山札辻より六里」里塚石です。
「松山札辻より六里」里塚石
「六里」里塚石は、国道11号から土谷集落へ入ってすぐの所にあります。
「五里」里塚石跡から桧皮峠を越えてここまで、どこが旧街道なのでしょうか。地図で確認しましょう。
先述の「右こんぴらみち」の石碑から右の道を北進すると遠赤青汁(株)の建物があり、さらに桧皮峠を越えてしばらく進むと土谷集落へ到着します。途中には遍路道標が建てられていました。
この道標を過ぎてしばらく行くと、中山川に架かる土谷橋の袂に「松山札辻より六里」里塚石のレプリカと源太桜の解説板が建てられている場所に到着します。ここで源太桜について紹介しますね。
源太桜
桜並木で知られる桜三里に残る最も古い桜を「源太桜」と呼んでいます。松山藩士、矢野吾郎右衛門源太が藩の囚人を使役し、中山川沿いに桜を植えた際に、苛酷な労役にたえかねた囚人が「桜三里は源太が仕置き、花は咲くとも実はなるな」と怨嗟の声を残したという故事にちなんだものです。樹齢は約300年で、現在は2本の桜が残っているだけです。
「東温市公式ホームページ」源太桜
【アクセス】
【参考】東温市公式ホームページ 源太桜
ちなみに、旧土谷小学校が駐車場になっていて、そこから歩いて源太桜まで歩いていくことができます〔約1.5km、徒歩約40分〕。
街道は源太桜へ向かう道と同じで、「松山札辻より六里」の里塚石はこの道を登った所にあったそうです。残念ながら私はまだこの道を歩いておりません。さあ、次は「松山札辻より七里」里塚石です。
「松山札辻より七里」里塚石
「七里」里塚石は国道11号沿いにある「中華そば心」の前に移設されています。元は山中の旧街道沿いにあったのでしょうが、現在ではその場所は分かりません。「中華そば心」の場所を示した地図をご覧ください。
次は「八里」里塚石です。
「松山札辻より八里」里塚石
「八里」里塚石は、西条市丹原町臼坂の街道沿いに建てられています。風化が進んでほとんどの文字が判読できませんが、元の街道沿いに唯一立つ里塚石です。この里塚石の場所を地図で確認しましょう。
「七里」里塚石から西条方面へ少し進むと、中山川へ降りる道があります。中山川を渡り、松山自動車道下を通過してしばらく進むと、「おんびきさま」と名付けられたお堂がありました。撮影しましたので、ご覧ください。
お堂の側には、「臼坂郷土を守る会」が設置した解説板があります。
「おんびきさま」とは百日咳・喉の神様のことなのですね。「蛙石」という名称の通り、この石は本当にカエルのように見えます。また、解説板に記された旧松山・金毘羅街道の地図によれば、街道は源太桜から千原集落へ続き、中山川を越えて臼坂へ続いていたようですね。それでは、「九里」里塚石へ向かいましょう。
「松山札辻より九里」里塚石
この里塚石は西条市立田野小学校隣にある素鵞神社前にあります。里塚石前の道は讃岐街道ではなく松山藩の中山道で、中川地区で分岐します。里塚石の場所とともに地図で確認しましょう。
「八里」里塚石から東進し、丹原町来見・石経を経て、常夜燈のところで北東に向きを変え、西条市立田野小学校へ向かいます。この常夜燈はなかなか見事なものでした。
この常夜燈を中央に配置し、街道の分岐を撮影してみました。左側の道を真っ直ぐ進むと、「九里」里塚石に到着します。
ブログ「四国の古道・里山を歩く」に掲載されている写真では、二基の里塚石が並んで建てられていたのですが、今は一基のみで、もう一基は倒れてしまっていました。
是非とも以前の姿に戻してもらいたいですね。それでは最後の「十里」里塚石へ向かいましょう。
「松山札辻より十里」里塚石
「十里」里塚石は西条市丹原総合支所前に建てられています。それでは、「九里」里塚石からここまでのルートを確認しましょう。
「九里」里塚石を出発し、西条市丹原文化会館付近で県道48号〔壬生川丹原線〕に合流して「十里」里塚石へと向かいました。
以上で、讃岐街道沿いに建てられている10基の里塚石の紹介を終わります。残念なのは、全ての里塚石が揃っていないこと。いつの日か全ての里塚石が揃うことを願います。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。