「からつ」行商のまち松前① -浜地区発展の歴史-
Takashi君、今日は松前町の住吉神社に建てられている石碑についてお話しします。
住吉神社は松前町のどの辺りにありますか?
はい。松前港のすぐ近くにあります。
本当に港の近くですね。先生、今日はどの石碑について学習するのですか?
はい。狛犬の右側に建てられている石碑です。下の写真を見てください。
石碑の上部に「寄附」という文字が見えますね。
この石碑は、明治20〔1887〕年に社殿を改修した際に寄附をしてくれた方のお名前を刻んだものです。どのような方々が寄附をしたと思いますか?
松前町の方だと思います。
石碑に刻まれた文字をよく見てください。ヒントとなる文字がありますよ。
「寄附」と氏名以外だと…、あっ「陶器製造元」という文字があります!
「陶器製造」とは何のことでしょうか?愛媛県の伝統工芸品の一つです。
愛媛県の伝統工芸品?それは「砥部焼」ですね。
その通りです。この石碑は「砥部焼窯元寄附者芳名記念碑」といいます。実は、砥部焼を松前港から搬出していた時代があり、この石碑はその頃のことを今に伝えてくれているのです。
砥部焼を通して松前町と砥部町との間に繋がりがあったのですね。
そうです。今回は、その頃の松前町浜の様子を共に学習しましょう。
Contents
- 浜村〔現 松前町浜〕の沿革
- 新立地区が発展した背景
① 浜村〔現 松前町浜〕の沿革
松前町浜地区は、藩政時代には浜村という地名でした。明治43〔1910〕年に刊行された『郷土誌松前村』には、浜村の遠隔について次のように記されています。
浜村の沿革
松前村大字浜は往古より松前浦と称し、松前城より約十町(約1km)を隔てた西南海面に瀕せる茅間の一小部落にして、部落民挙げて漁業者若しくは漁夫たらざる者なく部落の経営及び個人の生活等悉く漁業より生ずる利益を以て居りし、純然たる漁村部落であった。
『郷土誌松前村』 ※ 太字及び下線は引用者による
昔から漁業が中心だったのですね。松前城というのは加藤嘉明の居城であった松前城ですか?
その通りです。現在東レの工場がある辺りがかつて松前城があった所で、松前城碑が建てられています。
【参考】松前町ホームページ 松前城跡
『郷土誌松前村』の記述通りですね。
そうですね。文禄4〔1595〕年に加藤嘉明が松前城主になると、港の大改修が行われました。
加藤嘉明時代の松前
文禄4年(1595年)に加藤嘉明が松前城主になると港の大改修が行われ、城下町の軍港、港町、漁港として活況を呈し、全盛期を迎えた。このころの軍港は現在の港よりもかなり広く、慶長2年(1597年)の朝鮮半島への出兵の際にはここから2,400名余りの兵を率いたという。しかし、慶長8年(1603年)に嘉明が松山に城を構えて政治・経済・軍事の機能を整え、松前在住商人とともに移転すると、これまでの勢いは次第に失われていった。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』
朝鮮出兵の際に2,400名余りの将兵が出発したということは、かなり広大な軍港だったのでしょうね。
そのようです。そして、加藤嘉明が松前在住商人とともに松山城に移ったのは慶長8〔1603〕年のことです。
商人たちは現在の松山市松前町付近に移転したのでしたね。以前教えていただきました。
よく覚えていましたね。移転によってかつての勢いは失われましたが、松前港は藩政時代を通して漁港としてはもちろん、重要港湾としてもその機能を果たし続けました。
どうしてそのようなことが可能だったのですか?
松山藩が松前港の役割を重視し、松前の漁民たちが公儀御用の水主(船頭のこと)を務めるとともに米の積み出しを行い、その功績から領内ならどこでも勝手に漁獲してもよいという特権も与えたからです。
城が廃城となり、商人たちの多くが松山へ移転したにも関わらず、松山藩はなぜ特権まで与えたのでしょうか?
それは、松前の地理的特性によります。昭和22〔1947〕年に米軍が撮影した航空写真を見ながら考えてみましょう。
現在と違って住居が港と街道沿いくらいしかありませんね。住吉神社はどこにありますか?
では、航空写真に地名等を書き加えてみましょう。
住吉神社は新立地区にあるのですね。
そうです。それではTakashi君、松前町の地理的特性についてはどのように考えますか?
住吉神社がある新立地区は、砥部町から続く道と旧大洲街道とが交差するところにありますね。ということは、周辺地域から物資が集まったのではないですか?
その通りです。物資の集散地となる地理的特性から、松山藩は松前港を重要港湾として活用したのですね。
なるほど。
それでは、藩政時代の浜村の変遷について確認しましょう。
寛永4〔1627〕年頃は三津よりも発展していたんですね。
そうです。続いて寛文7〔1667〕年の浜村です。
現在の伊予市と比べても家数、舟数、加子数ともに桁違いですね。
さらに、寛文11〔1671〕年の浜村です。
藩政時代後期に向けて、さらに家数、人高、舟数共に増加している!かなり発展していたのですね。
その通りです。では、住吉神社がある新立地区を中心に、発展した背景を確認しましょう。
② 新立地区が発展した背景
昭和10〔1935〕年に刊行された『松山叢談(二下)』に、このことに関する記述があります。引用しますね。
新立地区が発展した背景
然るに文政の頃(1818年〜1829年)より漁人此處へ一軒二軒と来往して今百数十軒の一郷をなし浜村の枝村たり、(中略)是全く松前浦の漁猟の繁昌によれりと云、其淵源を尋レバ公の厚き思召にて漁猟の境を手広く開きおかれ、かつは白魚等の美産をまき置れし其厚沢に寄れるぞかし。
『松山叢談(二下)』 ※ 下線は引用者による
やはり松山藩から与えられた特権が大きいようですね。
それだけではありません。『松前町誌』には、元禄以降のいちじるしい新田畑の開発も新立地区発展の要因であったことが記述されています。
そして物資の集散地でもあった。
そうです。こうした要因が重なり、新立地区は発展したのです。そして明治に入り、新たな行商が始まります。砥部焼の販売です。
なるほど、それで住吉神社に「砥部焼窯元寄附者芳名記念碑」が建立されるに至るのですね。
その通りです。砥部と松前が密接に結びついた背景について、『松前史談 第10号』に次のような記述があります。
砥部と松前が密接に結びついた背景
松前に古くより行商の伝統があり、また、伊予水軍の伝統を引く操船技術が、砥部焼の販路拡大には是非とも必要なものであった。また、道路や鉄道が未発達の時代においては、船が物資を大量かつ遠方まで運べる運搬手段であった。
『松前史談 第10号』
そうか。砥部から松前港へ続く道がすでにありますよね。砥部は港がありませんから、当然松前港からの搬出を考えるのは当然ですね。
明治18〔1885〕年には清国〔現在の中国〕に砥部焼を輸出したとありますね。
「砥部焼窯元寄附者芳名記念碑」が建立された理由が、明治20〔1887〕年の社殿改修の際の寄附ですから、時代が合致しますね。
その通りです。ですから、明治10年代にはすでに砥部との密接な関係が形成されていたことになります。
なるほど。
『松前町誌』によれば、明治末期には新立地区に陶器問屋が40軒、からつ船が50隻、行商日数が3ヶ月から6ヶ月に及んで盛況を極めたそうです。
先生、「からつ船」とは何ですか?
陶磁器を積み、販路を遠隔地に求めて行商する帆船のことです。
帆船ですか。
今回はここまでにしましょう。次回は「陶磁器行商の歴史と文化」と題して、明治以降の浜地区の歴史についてお話しします。
楽しみです。ありがとうございました。