道後湯之町初代町長 伊佐庭如矢の集客戦略に学ぼう!③

道後温泉の観光地化と集客戦略

Teacher

 明治23〔1890〕年、町長に就任した伊佐庭如矢は養生湯の改築から始めますが、多くの人々から反対されてしまいます。

Eriko

 人々はどのような理由で反対したのですか?

Teacher

 理由は二つあります。一つは、改築の総工費が7,933円〔当時〕もかかること、もう一つは有料化したことです。

Eriko

 総工費7,933円がなぜ反対の理由になるのですか?

Teacher

 当時、小学校教員の初任給が8円でした。また、道後湯之町の人口が約1,300人でしたから、かなりの財政負担が自分たちにかかってしまうことを危惧したのですね。

Eriko

 初任給が8円!それならば7,933円と言う総工費は桁違いの金額ですね。この反対に対して伊佐庭如矢はどのように対応したのですか?

Teacher

 はい。伊佐庭如矢は、人々に対して次の約束をしたのです。

 養生湯を有料化する代わりに、町民用の無銭湯として「松湯」を、遍路や病人用として「薬湯」をつくります。

Eriko

 なるほど。養生湯として改築する場所は旅人・雑人用として無料で提供してきていましたから、無銭湯を別につくるというのは理に叶っていますね。でもその工費はどこから支出したのですか?

Teacher

 温泉を経営する団体「原泉社」の剰余金25,000円を充てました。

Eriko

 なるほど。それで人々は納得したのですね。「松湯」と「薬湯」は今はありませんが、どの辺りに建てられていたのですか?

Teacher

 はい。現在の椿の湯の場所に建てられていました。竣工は明治25〔1892〕年です。

椿の湯
Eriko

 そして次に一の湯・二の湯・三の湯の改築に移るのですね。

Teacher

 はい。明治25〔1892〕年の臨時町議会で全面改築が議決されたのですが、改築案が発表されると再び人々の反対運動が巻き起こり、伊佐庭如矢自身が生命の危険を感じるような事態にまで発展しました。

Eriko

 どういうことですか?

Teacher

 『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』に詳細が記載されていますから、引用しますね。

一の湯・二の湯・三の湯の全面改築に伴う反対運動の実態

 当時はまだ、封建的で迷信的な人が多く、湯釜を取毀す〔とりこわす〕と湯が出なくなるとか、神罰があたるといって強迫する連中もあって生命の危険さえあった。

 反対の実態は、町長及び有力旅館業者と一般町民及び小旅館業者の利害対立であった。有力旅館業者は温泉湯を改築整備して高級湯治客を吸引することが、道後温泉の唯一の生きる道であるとした。これに対し、一般町民は、町財の負担を浴銭の引上げに転稼されては困る。広島・山口・岡山・香川県下の島嶼部から来る客で、味噌・醤油・漬物その他一切の食糧品、炊事道具、中には行燈・ランプまで携帯して来た「味噌桶湯治」と呼ばれた下級湯治客を定客とする下級旅館も、浴銭引き上げによる打撃を受けるという不安からであった。

『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 注釈及び下線は筆者が加筆
Eriko

 なるほど。改築に伴う生活への不安が根底としてあるのですね。生命の危険まで感じるというのはどういうことでしょう?

Teacher

 はい。伊佐庭如矢は日本家屋と西欧建築の様式を折衷させた豪壮・壮大な三層楼の建物にする構想を立てたのですが、これを実現するためには莫大な予算を必要としたのです。

Eriko

 養生湯の改築には7,933円かかりましたよね。本館の改築にはどのくらいの金額が必要だったんですか?

Teacher

 総工費13万5,000円です。

Eriko

 えっ!養生湯の改築の約17倍!

Teacher

 その通りです。人々は宝厳寺に籠城をしてまで抵抗をしたとの話が伝えられています。

宝厳寺
Eriko

 伊佐庭如矢はどのように対応したのですか?

Teacher

 彼は誠心誠意人々に向き合い、説得を続けたのです。そして、改築の条件として次の約束をしました。

  • 自分の給料をすべて改築費に充てる。
  • 建設債権を発行して予算を捻出する。
  • 一番町と三津口から道後湯之町まで鉄道を敷設し、集客を図る。
  • 道後公園を整備し、観光客の散策の場とする。
  • 人々が納得してくれるまで膝を交えて話をする。
Eriko

 気が遠くなりそう!それでどうなったのですか?

Teacher

 結局、再度町議会で協議することで騒動は落ち着き、反対運動も自然消滅しました。

Eriko

 よかった!

Teacher

 伊佐庭如矢は、代々松山藩の城普請を勤めていた坂本又八郎に設計施工を依頼します。

Eriko

 坂本又八郎という人物について教えてください。

Teacher

 『愛媛県史 人物』にその記載があります。引用しましょう。

坂本又八郎〔1837?〜1901〕

 天保年間~明治34年(1837?~1901)建築家。坂本家は、松山藩主松平定行が伊勢桑名から松山転封の際、これに随伴した建築棟梁の家柄で、彼はその十代目に当たる。祖父(嘉永5年没)・父(元治元年没)ともに坂本又左衛門を名乗り、松山藩城郭建築はもとより、江戸上屋敷・京都藩邸の工事にも従事している。明治元年(1868)の又八郎の齢は30歳過ぎであったから、父に従って藩の城郭建築諸工事に経験を積んだことが想像される。明治25年、道後温泉一・二・三の湯(現神の湯本館)の改築に際しては、町長伊佐庭如矢に起用されて棟梁(総括責任者)の重責についた。町長と共に住民の反対運動を説得し、約20か月を費して同27年に三層楼(3階建・現存)を竣工させた。この建物には城郭建築の風格が残され,当時の公共建築としては空前のもので、最大級の賛辞が寄せられた。さらに注目すべきことは、外観純和風のこの建物に、トラス架構の採用・塔屋(振鷺閣)の設置、ギヤマン(色付ガラス)の使用など、文明開化による導入建築技術の一部をも採り入れた。この新技術は同20年に起工した愛媛県師範学校新校舎建築に際し、知事の要請によって来松した山梨県の建築技術者から吸収したものであろう。同30年には大社教松山分院新神殿を、続いて熊本県山鹿温泉から招かれ、その温泉建物の大改築などを手掛けた。同温泉の前庭に建つ山鹿温泉之碑には「同三十一年聘伊豫道後温泉工匠加改修以致今日之盛矣……」の字句が刻まれている。これらと併行して、同30年から32年にかけ道後温泉霊の湯の改築も行ったが、この建物には全国的にも例のない御召湯(皇族専用浴室)も併設した。この建築は桃山時代の建築様式を模して優美を誇り、内外にわたり材料は精選され、仕上げは洗練されて、明治時代に到達した木造建築の最高域と評価されている。昭和61年に霊の湯1階部分の大改築が行われたが、その時当初の浴槽下部の地盤安定工法が発見され、改めてその卓抜な技法が注目を浴びた。明治34年10月没。享年64歳と伝えられている。墓所は松山市御幸1丁目、長建寺。

『愛媛県史 人物』 ※ 下線及び太字は筆者による
Eriko

 そうか、伊佐庭如矢は県吏員の頃に松山城の廃城阻止に尽力していましたから、当然坂本又八郎とも知り合いだったのですね。

Teacher

 その通りです。こうして、明治27〔1894〕年に現在の本館が完成したのです。

道後温泉本館
Teacher

 伊佐庭如矢は本館だけでなく、さらなる改築を加えていきました。彼が町長を勇退した後に建築されたものも含め、建造物の名称・竣工した年・建築面積をまとめます。

  • 神の湯本館     明治27〔1894〕年竣工 193.31㎡ [重文指定]
  • 又新殿・霊の湯棟  明治32〔1899〕年竣工 152.60㎡ [重文指定]
  • 南棟        大正13〔1924〕年竣工 187.71㎡ [重文指定] ※ 養生湯を立て替え
  • 玄関棟       大正13〔1924〕年竣工  15.56㎡ [重文指定]
  • 事務所棟      昭和10〔1935〕年竣工
Eriko

 こうして、現在私たちが見る道後温泉の姿が誕生したのですね。

Teacher

 その通りです。そして、道後鉄道の敷設道後公園の整備も行い、道後温泉を観光地化していったのです。

       ◉ 道後鉄道の敷設【参考】正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう!道後湯之町へ①

       ◉ 道後公園の整備【参考】道後温泉本館の改築と伊佐庭如矢の偉業 松山市公式ホームページPCサイト  

Teacher

 ちなみに、明治28〔1895〕年には正岡子規が夏目漱石とともに道後温泉に入浴しています。

       【参考】正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう!道後湯之町へ②

           正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう!道後湯之町へ③

Eriko

 先生、この結果、道後温泉への集客はどうなったのですか?

Teacher

 『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』に記載されています。引用しましょう。

 伊佐庭町長は至誠と機略、巧みな説得力によって、工事は明治二五年(一八九二)起工式を挙行し、約二〇か月を費して同二七年(一八九四)落成式を挙行した。今の三層楼の本館がこれである。同年第一室の石槽を改築し、更に新湯の大改築を行ない〝霊の湯〟と改称し、これらすべてが完了したのは同三二年(一八九九)である。さらに、道後公園等の環境整備を施し、次第に温泉収入は町収入として一般財源に繰込まれ、町民の税負担を軽くし、税率は松山市よりも二~三割も低かった。こうして、温泉場の改修整備は町民の旧慣による温泉利用権を弱体化して町有財産化した

 明治二八年(一八九五)一番町から道後に軽便鉄道が開通し、浴客の吸引に革命的役割を果たした。こうして、温泉本館の改築落成は、道後温泉を大きく転換させていく。すなわち、療養温泉地(湯治場)から保養温泉地・観光温泉地への発達段階をふみだすことになった。

『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 太字は筆者による
Teacher

 同書には、明治42〔1909〕年刊行の『温泉郡誌』の記述が引用されています。この記述も見てみましょう。

温泉集落の変容

『家屋は明治初年までは農業及び農商兼業のもの多く、従って家屋の如きは其産業に適する構造にして、藁屋・矮舎道路亦狭隘不潔唯数戸の宿屋業又は妓楼の如きは稍広濶なる構造なりしが、温泉浴客漸次其数を増し、温泉場の改築と共に旅舎の構造を改め、農業者は商業に転じ来りて今や純然たる商業地となり、従来の藁屋は二層三層の楼に転じ、道路亦改善を加え、車馬の通行に便するなど大に面目を改めたり。唯僅かに一部分なる極めて下層の町民の猶規屋を賃貸しあるは他町村と同じく免れざる処なるべし……(中略)。

 生業について、当町は温泉を囲続して人家櫛比し、専ら浴客を懇待するの以って業となせり。故に多くは旅宿充て傍ら雑種の商業を営み、中には湯に因める物産・温泉染手拭・温泉塩・湯晒艾・湯の玉・湯桁飴・温泉煎餅などを商へり』

『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』から『温泉郡誌』の引用部分  ※ 下線及び太字は筆者による
Eriko

 伊佐庭如矢の戦略が見事成功したのですね、すごい!

Teacher

 その通りです。最後に伊佐庭如矢の言葉を紹介して終わりにしましょう。

「清浄為基」

Eriko

 これはどのように読めばいいのでしょうか?また、その意味は?

Teacher

 これは、「せいじょう もといとなす」と読みます。「清廉潔白な生き方こそ人生の基本であり、成功を収める秘訣でもある」という意味です。

Eriko

 数々の反対に対して誠心誠意人々と向き合った、伊佐庭如矢ならではの言葉ですね。

Teacher

 その通りですね。

伊佐庭如矢は、明治40〔1907〕年に80歳で亡くなりました。鷺谷墓地に眠っています。

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