道後温泉 〜入浴客の激増にどう対応した?〜

※ 道後温泉本館改築について知りたい方はコチラ → 道後湯之町初代町長 伊佐庭如矢の集客戦略に学ぼう!③

Eriko

 先生、『道後の町と温泉』という本を読んでいたら、こんなグラフを見つけました。

『道後の町と温泉』に掲載されている同タイトル図をもとに作成
Eriko

 これだけ多くの入浴客を本館だけで受け入れることができたのでしょうか?

Teacher

 Erikoさん、いい質問です。道後温泉では、入浴客の増加に伴う湯量の確保のために新たな源泉の開発が繰り返されています。その歴史をお話ししましょう。

道後温泉の増湯計画

内湯・新しい源泉を求めて

 道後温泉は古代から昭和14年まで自然に湧出する一本の源泉だけで湯をまかなってきた。実際には、神の湯と養生湯の2カ所で自噴していたが、のちに2つは同一の岩盤の割れ目から湧き出ているとわかり、統一して第一号源泉と呼ばれたのだ。

 入浴客の増加に伴う新しい外湯の建設。それには充分な湯量を確保しなければならない。従来からの第一号源泉を整備して、ポンプで湯を汲み上げる増湯を行い、大正2年からは専門家による調査を行っている

『四国松山 湯の町 道後隅々案内』 ※ 太字は引用者による
Eriko

 なるほど。そうしないと入浴客の増加に対応できませんよね。先生、「外湯」とは何ですか?

Teacher

 はい。「外湯」とは、宿泊施設を伴わない公衆浴場のことです。

Eriko

 なるほど。本館の周辺に入浴場所を増やしていったわけですね。

Teacher

 その通りです。明治末期から昭和初期にかけての増湯計画については、岩崎一高〔いわさき かずたか〕という人物について知る必要があります。彼について説明しましょう。

Eriko

 はい、お願いします。

① 岩崎一高の苦心

岩崎一高の生涯

 慶応3年~昭和19年(1867~1944)政友会愛媛支部長・衆議院議員・松山市長。慶応3年2月15日、松山城下新玉町で士族岩崎一正の長男に生まれた。妹は森恒太郎(盲天外)、のち柳原正之(極堂)の妻となった。松山智環学校を経て明治15年松山中学校を卒業、16年上京して専修学校(現専修大学)に入り、19年卒業した。24年帰郷して海南新聞社(現愛媛新聞社)に入社、藤野政高に従って自由党の運動員として活動した。31年12月憲政党愛媛支部、34年4月政友会愛媛支部を組織して幹事を務め、42年三津浜築港疑獄事件で藤野失脚後は政友会の党勢回復に努め、大正6年県会での絶対多数を回復して7年その支部長に推された。8年2月古谷久綱死去に伴う衆議院議員補欠選挙に出馬して政敵憲政会の御手洗忠孝と一騎打ちを演じこれを破って当選した。9年5月の第14回衆議院議員選挙には政友会内部の事情で地盤のない第4区(新居郡,宇摩郡)から立ち、落選した。12年5月13日、加藤恒忠死去で空席となった松山市長に市会で選ばれて就任したが、市会での反対派憲政会との対立に苦しみ、15年5月任期満了と共に退職した。昭和2年~7年道後湯之町の町長となり、町村会会長を務め昭和恐慌期の町村財政再建に奔走した。また昭和3年2月初の普通選挙による第16回衆議院議員選挙に時の田中義一内閣の与党としての政友会が議席独占を狙い、その有力候補者として第1区から立ち、当選して久し振りに代議士に返り咲き昭和5年1月まで在任した。 15年大政翼賛会愛媛県支部顧問になり、県政界の長老的存在であった。昭和19年3月22日77歳で没し、松山市末広町正宗寺に葬られた。友人勝田主計は、「郷里では彼を一級の策士であったかのやうに言う者もあるが、彼の風格と誠実が能く党人を纒め数十年に亘り牢固たる地歩を占め得たのであろう」と追悼した。

『愛媛県史 人物』 ※ 太字は引用者による

【参考】Wikipedia〔岩崎一高の写真が掲載されています。〕

Eriko

 政治家で、自由民権運動家でもあった人なのですね。あっ、道後湯之町町長も務めている!

Teacher

 引用した『愛媛県史 人物』の記述の中にはありませんが、岩崎一高は道後湯之町の発展は湯の量を増やすことにあると気付いた人でもあるんです。実は、私費を投じて源泉調査を行っています。

Eriko

 そうなのですか?具体的に教えてください。

Teacher

 では、下の地図を見てください。

国土地理院電子国土基本図から作成
Eriko

 道後公園の北側にある❌は何ですか?

Teacher

 この辺りは湯築城の外濠があったところで、ドンコ堀と呼ばれていました。明治44〔1911〕年、岩崎一高が私財を投じて掘ってみたら、湯が噴き出した場所です。

Eriko

 今は道後公園の北側に堀はありませんが…?

Teacher

 それは、埋め立てられたからです。その経緯をまとめてみましょう。

ドンコ堀の埋め立て

大正3〔1914〕年5月   岩崎一高より、北側外濠(ドンコ堀)並に提塘を温泉浴場及び公園遊地新設出願

              大正三年五月八日より向ふ十ヶ年間使用許可。

         6月13日 ドンコ堀埋め立てを許可、8月、埋め立て竣工〔『道後動物園記念誌』〕。

大正4〔1915〕年7月    ドンコ堀使用権、岩崎一高より道後湯之町に移転。

『史跡湯築城跡保存管理計画書』〔愛媛県土木部道路都市局都市整備課公園緑地係/編〕 ※ ブログ記載時に引用者が加工〔元資料は年表〕
Eriko

 このことはまったく知りませんでした。

Teacher

 以降、外湯の開発が進みます。現在はもうありませんが、かつて外湯があった場所を地図に示してみましょう。

大正〜昭和初期に建設された外湯〔参考:『四国松山 湯の町 道後隅々案内』〕 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
Eriko

 全く知りませんでした。鷺の湯の場所は冠山の駐車場への上り口ですか?

Teacher

 その辺りです。そして新しい源泉を求めて試掘が次々と行われ、昭和26〔1951〕年までに五つの源泉を得ることができたのです。

  • 第二源泉 … 昭和15〔1940〕年 掘削
  • 第三源泉 … 昭和16〔1941〕年 掘削
  • 第四源泉 … 昭和19〔1944〕年 掘削
  • 第五源泉 … 昭和26〔1951〕年 掘削
五つの源泉の場所〔参考:『道後の町と温泉』掲載の図「道後温泉近くの岩の割れ目」をもとに、国土地理院電子国土基本図から作成〕
Teacher

 そして、第五源泉の成功は、「次の新源泉を得られれば、かねてより懸案の道後温泉の各旅館に内湯施設を設けられる」という期待を人々に抱かせたのです。

Eriko

 それまでは旅館に温泉がなかったのですか?

Teacher

 はい。かつては、「宿の浴衣や丹前かけで、湯かごを持って本館まで足を運ぶ」ことが道後温泉ならではの風情だったのです。

Eriko

 各旅館に温泉の湯が引かれることになったのは、何がきっかけだったのですか?

Teacher

 それは、昭和28〔1953〕年に開催された国民体育大会です。

② 第8回国民体育大会と道後温泉

Teacher

 『四国松山 湯の町 道後隅々案内』の記述を引用します。

新たな掘削の必要性

 ところが、昭和28年に行われた国体で事情は一転。大人数の道後宿泊に加え、松山市は西湯を椿の湯に改築して対応したものの、内湯とその湯をまかなう新源泉の掘削の必要性が叫ばれるようになる。

『四国松山 湯の町 道後隅々案内』 ※ 太字は引用者による
Eriko

 確かに全国から選手団一行が愛媛県に集合しますからね。

Teacher

 ちなみに、昭和20年代には外湯が次々と建設されているので、その場所を地図に表してみましょう。

昭和20年代にあった外湯〔参考:『道後の町と温泉』に掲載されている図「昭和29年の道後」をもとに、国土地理院電子国土基本図から作成〕
Eriko

 国民体育大会はこれで乗り切ったのですか?

Teacher

 はい。しかし各旅館へ温泉の湯を引く必要性を実感した人々は、ボーリング事業で多くの実績を持つ株式会社利根ボーリング社(当時)の塩田岩治社長に新たな源泉の掘削を依頼したのです。

冠山に建てられた塩田岩治〔しおだ いわじ 1895〜1983〕の胸像
Teacher

 掘削作業が進められた結果、昭和30〔1955〕年に新源泉が発見されます。そして、翌年には冠山に分湯場が完成して各宿に内湯が引かれるようになったのです。

Eriko

 塩田社長はどんな方法で新源泉を発見したのですか?

Teacher

 はい。次の工夫を行い、掘削工事を進めたそうです。

  • 掘削力の強い新型ドリルを開発〔刃にダイヤモンドを使用〕。
  • 地面に対して斜めにドリルを入れることで、水脈を掘り当てる確率を高めた。
Eriko

 ダイヤモンド!凄いなあ!

Teacher

 現在、冠山には塩田岩治社長の胸像が建てられています。ぜひ訪れて碑文を読んでみてください。

Eriko

 はい。ありがとうございました。

【参考】ブログ「素敵 ゆったり田舎暮らし」 ※ 塩田岩治についての記事と彼の写真が掲載されています。

【参考】「三井住友トラスト不動産」ホームページ ※ 利根ボーリングに関する記事が掲載されています。

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