自然災害伝承碑を訪ねて…13 享保の飢饉の犠牲者を祀る供養塔を巡る〔松山市編〕

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 皆さんは上の地図記号を見たことがありますか?この地図記号は「自然災害伝承碑」といい、国土地理院が令和元年6月19日から地理院地図上に公開を始めたものです。「自然災害伝承碑」とは何か、国土地理院ホームページから引用します。

自然災害伝承碑」について

◆ 過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に係る事柄(災害の様相や被害の状況など)が記載されている石碑やモニュメント。※ これまでは、概念的に記念碑(ある出来事や人の功績などを記念して建てられた碑やモニュメント)に含まれていました。

◆ これら自然災害伝承碑は、当時の被災状況を伝えると同時に、当時の被災場所に建てられていることが多く、それらを地図を通じて伝えることは、地域住民による防災意識の向上に役立つものと期待されます。

『国土地理院ホームページ』より

【参考】国土地理院ホームページ 「自然災害伝承碑」について

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 この「自然災害伝承碑」の記載は国土地理院が全国の自治体と連携して進めていますが、各自治体からの申請があったものに限られています。そのため、記載されている数はほんの一部に過ぎません。そこで、取材中に撮影した自然災害伝承碑と罹災状況について、当ブログにて紹介していきたいと思います。

 今回は、松山市内にある享保の飢饉の犠牲者を祀る供養塔を紹介します。

Part.1 享保の飢饉と松山藩

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 まず最初に、享保の飢饉について確認しておきましょう。

享保の飢饉とは?

 1732年(享保17)秋から翌年春にわたる大飢饉。32年夏、瀬戸内海沿岸を中心にバッタの大群が発生し、とくに九州東部、中国および四国の西部を中心に、畿内以西の稲作は大損害を受けた。損害が過半に及んだ藩は46藩、過去5年平均の年貢収入の4分の3近くを失い、その他の藩や幕領も甚だしい減収となり、被災民265万人、餓死者1万2000人に達したという。凶作の影響はこの年の暮れから翌春にかけて大都市にも波及し、連年低落を続けてきた米価が数倍に暴騰し、大坂、京、江戸の住民の生活を脅かし、不安の空気を生じた。33年正月25日には、幕府の御用米商高間伝兵衛(たかまでんべえ)が大量の米を隠匿しているとの噂に怒った江戸の窮民約1700人が伝兵衛宅を破却した。大都市最初の打毀(うちこわし)である。混乱は次の麦の収穫期から鎮静に向かったが、享保の改革の緊縮・府庫充実政策を一頓挫させた事件であった。

『日本大百科全書(ニッポニカ)』 ※ 下線及び太字は引用者による。

【参考】ブログ「To KAZUSA」享保の打ちこわしに遭った高間伝兵衛

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 江戸幕府8代将軍徳川吉宗の治世ですね。「被災民265万人、餓死者1万2000人」というのは物凄い数です。松山藩の被害状況はどうだったのでしょうか?『愛媛県史』の記述を見てみましょう。

享保の大飢饉と松山藩の惨状Ⅰ

 松山藩地方では、享保17年5月20日ころから、天候が不順となって霖雨が続いた。そのために松山藩内を貫流する重信川(東三方が森に源を発し、今出浜に出て海に注ぐ)およびその支流の石手川(湯山より発し松山の南方を流れ、出合で重信川に合流する)をはじめ諸川が増水して、閏5月10日ころには氾濫し、交通が途絶したのみならず、その流域の住民を脅かしたことは、松山藩士の旧記「西岡家記」に記述されている。

『愛媛県史 近世 上』 ※ 下線は引用者による。
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 霖雨は「りんう」と読み、「何日も降り続く雨。ながあめ。」のこと。河川が氾濫して交通が途絶したという記述から、かなりの期間降り続いたことが分かります。「西岡家記」にはどんなことが記載されているのでしょうか、続きを見てみましょう。

享保の大飢饉と松山藩の惨状Ⅱ

 この天候は7月上旬まで依然として晴れ間を見せず、なお雨が降り続いたので、同月中旬にすでに稲作の中には腐敗するものもあり、やがて枯死しようとする状態であった。そのため領分内の収穫は「皆無と相見え」、そのために町方なども騒動し、人身動揺の兆しさえ現れはじめた

『愛媛県史 近世 上』 ※ 下線及び太字は引用者による。
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 約2ヶ月も天候不順が続いたのですね。この水害による凶作に加え、さらに農民の生活をますます窮地に陥れたものは、うんかの発生による災害でした。

ウンカ
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 藩庁も農民たちもうんか発生の防止策を図ったり、道後の伊佐爾波神社、阿沼美神社をはじめ、付近の神社・仏閣において祈祷が行われ、連日うんかを駆逐するために太鼓やかねで虫送りを挙行したりしましたが効果なく、うんかはますます猛威を振るって稲作のみならず雑草まで食い尽くすに至ったそうです。この惨状を「西岡家記」は次のように記載しています。

享保の大飢饉と松山藩の惨状Ⅲ

 この蝗害〔こうがい〕にあった松山藩のうちで、最も災害の激しかったのは、伊予郡筒井村(現伊予郡松前町)付近であり、野に一草も見ることのできないほどの惨状を現出した。食糧の欠乏に苦しんだ農民は、わずかに貯蔵されていた雑穀によって、麦飯・粟飯・大根飯などを炊き、あるいは葛の根・楡の葉・糠の類などを米穀の代用食として、ようやく飢えを忍ぶありさまであった。

『愛媛県史 近世 上』 ※ 下線及び太字は引用者による。
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 松前町で語り継がれている義農作兵衛の逸話はこの時のことですね。松前町筒井には、「史跡 義農作兵衛御終焉の地」と記された石柱が住宅街の片隅に建てられています。

義農作兵衛終焉の地碑

【史跡 義農作兵衛終焉の地碑の場所】

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 なお、戦後整備された松前町の義農公園には義農作兵衛之像、義農之墓があり、作兵衛の遺徳を称えています。

【義農公園の場所】

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 ぜひ義農公園を訪れてみてくださいね。ちなみに、ここは昭和18年7月の大水害時の土砂を埋め立てて整備されたのですよ。さて、「西岡家記」に記されている飢饉発生時の惨状をさらに見ていきましょう。

【参考】昭和18年7月23日、それは起こった 〜重信川水害の記憶⑤〜

享保の大飢饉と松山藩の惨状Ⅳ

 収穫皆無のために飢餓に瀕した農民の中には、路頭に食を求めて放浪するものも少なくなかった。ことに被害の最も甚しかった伊予郡では、城下町松山に多人数打ち連れて、袖乞いをするものがますます増加した。また100人ばかりの飢民が松山の米屋の戸を破って乱入したほどであった。松山藩庁においては、この米騒動に対し禁令を発して、その取り締まりを断行した。

『愛媛県史 近世 上』 ※ 下線及び太字は引用者による。
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 こうした惨状から人々を救済するため、松山藩は次のことを順次行ったそうです。

  • 救助米給与、1日1人(3勺6才→5勺→1合)
  • 蔵改め・米蔵封印などによる米の領外流失防止
  • 塩・味噌・大根・麦・ひじき・あらめ・糠などの賑給
  • 貢租免除、負債の免除
  • 米穀払い下げによる米価騰貴防止
  • 野菜・蕎麦などの栽培自由化
  • 藩士に対する人数扶持の実施
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 飢饉が収まった後、亡くなった方の霊を弔うために法要を行うとともに供養塔の建立が各地で相次ぎました。それでは次に、松山市内にある供養塔の紹介に移ります。

Part.2 供養塔が伝える各地の惨状

紹介する供養塔一覧

  • 光明寺の供養塔と追遠之碑〔松山市堀江町〕
  • 妙見寺の供養塔〔松山市平田町〕
  • 安祥寺門前にある一字一石供養塔〔松山市安城寺町〕
  • 常光寺の餓死精霊塔〔松山市西垣生町〕
  • 長善寺大師堂前にある當郷餓死萬霊塔〔松山市南高井町〕
  • 常光寺の供養塔〔松山市荏原町〕
  • 才ノ木地蔵尊傍にある石碑〔松山市南吉田町〕

光明寺の供養塔と追遠之碑〔松山市堀江町〕

享保の飢饉の供養塔と追遠之碑

 供養塔には、「南無阿弥陀仏」が、1881年に建てられた追遠之碑には、飢饉の惨状や村人の思いが刻まれている。

 1732年(江戸時代中期)に起きた飢饉は、気候不順、ウンカやメイチュウ、イナゴの多量発生で作物が食い荒らされたことによる。

 人々は、草の根や木の皮などを食糧にしたが飢え死にするものが多く、松山藩では5700人余り、堀江村では人口800人余りの半数以上が餓死した。人々に分ける麦ぬかを積んだ船が堀江港に着くと、大勢の人々が集まってきたが、途中で野垂れ死にする人も多かった。堀江村の人々は、野ざらしになっていた死体を光明寺前に集めて手厚く埋葬した。

松山市堀江公民館が設置した解説板より

【アクセス】

妙見寺の供養塔〔松山市平田町〕

享保の飢饉供養塔

 江戸時代に享保・天明・天保の三大飢饉があったことはよく知られる。特に享保の飢饉では松山藩で5700人もの餓死者が出たといわれる。

 親寺にあたる山越の法華寺がその菩提のため妙経一字一石(経文69,384字を一文字ずつ一石ごとに写経したもの)塔を飢饉の二年後の享保19年(1734)この地に建立しました。墓地整理の際に本堂西側奥に瓶に入れられて埋められていた経石と寛政9年(1797)に再建されたこの供養石塔をこの場所に移しました。

 この石碑の下には飢饉時の経石が埋められています。元の場所には150回忌にあたる明治14年(1881)に日蓮聖人の600回忌も兼ねて建立された飢饉の供養塔も残されています。

潮見地区まちづくり協議会が設置した解説板より

【アクセス】

❸ 安祥寺門前にある一字一石供養塔〔松山市安城寺町〕

一字一石供養塔について

  松山市安城寺町(旧、和気郡)にある安祥寺門前に、年次を追って順次大きくなった六基の供養塔が並んでいる。第一基は飢饉の50年後の安永10年(1781)、第二基はさらに20年後の享和元年(1801)、第三基はさらに30年後の天保2年(1831)に建立されている。これ以降50年区切りで、第四基は明治14年、第五基は昭和5年、第六基は昭和55年に建立された。新しく供養塔を建立する場合、順次大きくしなければならない言い伝えが今に残されている。これらの供養塔の前で、盆行事の一つとして、村(山村)総出で餓死者の供養を行っている。

『愛媛県史 近世 下』 ※ 太字は引用者による

【アクセス】

❹ 常光寺の餓死精霊塔〔松山市西垣生町〕

常光寺の餓死精霊塔の碑文

 享保17〜18年(1732〜1733)の大飢饉により餓死した垣生村の六百有余名の精霊を回向するため建立された。

 享保17年は春先から雨が多く、麦に赤サビ病が発生し大不作となり、稲は長雨と冷夏、さらに干天と異常天候の中で秋ウンカが大発生し、麦につづき米も大不作となった。翌年むぎが収穫できるまで餓死者が続き伊予国では数万人と推定される。   平成11年1月再建

【アクセス】

❺ 長善寺大師堂前にある當郷餓死萬霊塔〔松山市南高井町〕

當郷餓死萬霊塔

 享保17(1732)年、西日本一帯が大凶作で、大飢饉となった。特に被害が大きかったのは南海道で、中でも松山藩は餓死者が最も多かった。

 春から長雨が続き、5月には麦の腐敗や河川の氾濫で、収穫は皆無となった。さらに、6月、7月と続く降雨で、病虫害が発生、特にウンカの異常発生により、稲はほとんどが枯死した。この年の松山領内の餓死者は5705人に及び、牛馬も約3,000頭が餓死したと伝えられる。高井村の約半数の人々が餓死とも伝えられている。

 松山藩でもいろいろな対策をしたが及ばなかった。筒井村の義農作兵衛が麦種俵を枕にして餓死を遂げたのは、この年9月のことである。

 この餓死者の慰霊として、当郷の者が建立したものであるが、この碑が発見された時、既に破損していて建立の日は不明である。

松山市教育委員会が設置した解説板より

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❻ 常光寺の供養塔〔松山市荏原町〕

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 「九谷の歴史」によると、この供養塔には「餓死百回忌 天保弐年卯年八月」と刻まれているとのこと。なお、恵原村の被害状況については、常光寺が明治14年の火事で焼けてしまったために記録が焼失してしまったそうです。

【参考】九谷の歴史

【アクセス】

❼ 才ノ木地蔵尊傍にある石碑〔松山市南吉田町〕

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 写真①〜③に写っている一番右側の石碑が享保の飢饉の餓死者の菩提を弔うための供養塔で、「享保十七子年 冬ヨリ丑年春 為餓死菩提□ 十一月建立」と刻まれています。□の箇所は文字の上半分のみが表出しているだけですので、読むことはできません。

【参考】三津ヶ浜のげんたろう(その2) 才ノ木地蔵尊

【アクセス】


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 供養塔は今回紹介した以外にもあると思います。「ここにもあるよ!」という情報がございましたら、コメント欄にてお知らせください。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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