自然災害伝承碑を訪ねて…12 寛延元〔1748〕年9月に発生した暴風の記憶・伊方町二名津

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 皆さんは上の地図記号を見たことがありますか?この地図記号は「自然災害伝承碑」といい、国土地理院が令和元年6月19日から地理院地図上に公開を始めたものです。「自然災害伝承碑」とは何か、国土地理院ホームページから引用します。

自然災害伝承碑」について

◆ 過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に係る事柄(災害の様相や被害の状況など)が記載されている石碑やモニュメント。※ これまでは、概念的に記念碑(ある出来事や人の功績などを記念して建てられた碑やモニュメント)に含まれていました。

◆ これら自然災害伝承碑は、当時の被災状況を伝えると同時に、当時の被災場所に建てられていることが多く、それらを地図を通じて伝えることは、地域住民による防災意識の向上に役立つものと期待されます。

『国土地理院ホームページ』より

【参考】国土地理院ホームページ 「自然災害伝承碑」について

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 この「自然災害伝承碑」の記載は国土地理院が全国の自治体と連携して進めていますが、各自治体からの申請があったものに限られています。そのため、記載されている数はほんの一部に過ぎません。そこで、取材中に撮影した自然災害伝承碑と罹災状況について、当ブログにて紹介していきたいと思います。

 今回は、寛延元年9月に発生した暴風の記憶を伝える自然災害伝承碑を紹介します。

寛延元年9月2日発生、暴風の記憶 〜伊方町二名津探訪〜

大乗妙典之塔
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 三崎公民館二名津分館〔旧二名津中学校〕前の道を海岸の方へ向かってしばらく進み、商店前を左折してしばらく進むと、「大乗妙典之塔」と刻まれた供養塔〔上写真〕があります。供養塔がある場所を地図で確認しましょう。

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 「大乗妙典」とは何でしょうか?埼玉県狭山市公式ウェブサイトにその解説がありましたので引用します。

「大乗妙典」とは?

 大乗妙典とは私たち衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる経典で、一般的には法華経、すなわち妙法蓮華経をさすといわれています。

埼玉県狭山市公式ウェブサイト 大乗妙典読誦供養塔  ※ 下線は引用者による

【参考】狭山市公式ウェブサイト 大乗妙典読誦供養塔

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 この供養塔は宇和島藩主伊達村候〔むらとき〕が宝暦12〔1762〕年に建立したもので、総高約124cm、塔身の幅・奥行きともに30cmと立派なもので、左右と背面にはびっしりと文字が刻まれています。

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 左右と背面に刻まれた文字には、寛延元〔1748〕年に発生した暴風による被害が記されています。今回はこの時の罹災状況をお伝えするとともに、二名津の歴史についてもまとめます。それでは始めましょう。

Part.1 寛延元年9月2日、暴風による被害

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 『瀬戸町誌』には、この日の罹災状況が次のように記されています。引用しますね。

寛延元年9月2日の罹災状況

 寛延元年(1748)9月2日参勤用船二間津で滞船中暴風となり、三艘が転覆し、梶取市右衛門はじめ水主18人が水死した。宝暦13年(1762)12月12日藩主村候は死亡者を供養して二間津に石碑を建て、天明2年(1782)に二間津浦を二名津浦と改名した。二名津浦では天保7年(1837)にも暴風により参勤用船御座船以下13艘が転覆している。

『瀬戸町誌』 ※ 太字及び下線は引用者による
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 ちなみに、『伊達家御歴代事記』には寛延元年9月4日に藩から米2俵ずつ下されたことが記されています。 

寛延元年(延享5年/1748)9月4日

一、大坂乗込御供船二間津ノ滞船之処、二日夜大風ニ三艘覆リ、御梶取市右衛門・浦水主十八人死亡候由事。右浦水主不便之儀ニ付跡ヘ米弐俵ツツ被下候事。

『伊達家御歴代事記(36p下段)』 ※ 太字及び下線は引用者による
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 夜中に暴風が起きて転覆したということは、亡くなられた18名の方々は皆船内で寝ていたのでしょうね。だからこそ死者数が非常に多くなってしまったのでしょう。とても痛ましく、残念な気持ちになります。この二つの資料から、当時の二名津について次のことが読み取れます〔太字にした箇所〕。

  • 二名津は、当時「二間津」という地名だった。
  • 参勤交代の際の滞船場所として利用されていた。
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 二名津が滞船場所として利用されていた理由について、地域の方が次のように話されています。

潮待ちの港

 二名津港は昔から海が荒れたときの避難港や潮待ちの港になっていました。冬には西風や北風が強く吹き、春になると西風とマジの風(東南の風)が吹いて海が荒れるので、風がおさまって海が凪(なぎ)になると出ていく船が多かったのです。冬場には何日も風に吹き込まれて船が出ていくことができないこともありました。しかし、そのおかげで二名津の街も潤っていたのです。夜になると船に乗っていた人が街へ集まってにぎやかでした。旅館や遊廓などもあったのです。

 また、風が強い日には、100tぐらいの機帆船が50艘ぐらい泊まっていたこともあります。港の端から端まで船が並んで、上から見ると船の橋がかかってそれを渡れるぐらい並んでいました。ここで避難しないと次は三机まで停泊できる港がなかったからです。二名津港は海底が泥沼のようになっていて錨がよく効くので船が流されないことも避難港になった理由だと思います。潮待ちをする船もたくさん泊まっていました。三崎の灯台(佐田岬灯台)を回るときには潮を見ないと回れなかったからです。潮を無視して後悔すると燃料をたくさん使うことになったのだと思います。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-』 ※ 太字及び下線は引用者による。なお、これは昭和30年代頃の様子を回想したもの。
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 航空写真で見ると、二名津の集落が入り江に形成されており、周囲の海岸地形からも波が穏やかであろうことが容易に分かります。それにしても寛延元年の暴風の勢いは物凄いものだったのですね。それでは次に、藩政時代の参勤交代と佐田岬半島について見ていきましょう。

Part.2 参勤交代と佐田岬半島

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 『佐田岬民俗ノート』の記述を引用します。上のGoogle mapを見ながらご一読ください。

二間津の供養塔

 江戸時代には、参勤交代といって、各地の大名が定期的に江戸の将軍のもとへ出資する制度がありました。宇和島領主伊達家も例外ではありません。幾度となく宇和島-江戸間を往復したのですが、その時の航海の難所の一つが佐田岬半島だったのです。特に先端の佐田岬(昔は「お鼻」と呼ばれました)沖は潮の流れが速く、昔から航海の難所でした。

『佐田岬民俗ノート65』二間津の供養塔  ※ 太字は引用者による
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 なるほど。潮の流れが非常に速いため、船が転覆する恐れがあったのですね。「MIRC潮流予測」というホームページに豊後水道の潮流予測図のアニメーションが掲載されています。添付しますので、〔START〕ボタンを押してみてください。佐田岬の潮流がよく分かります。

【参考】「MIRC潮流予測」ホームページ 豊後水道の潮流予測図

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 では、宇和島藩ではどのようなルートを通って参勤交代を行っていたのでしょうか?

参勤交代の順路

 海が凪(なぎ)の場合は、宇和島から乗船して伊方浦経由で塩成(しおなし)にあがり、藩主は山道をカゴで越して三机に三机(みつくえ)の御仮屋に入る。一方、空船は佐田岬半島の先を回って三机に入るということやったですね。時化(しけ)の場合は、塩成が砂浜で上陸できないので、伊方浦川永田(かわながた)にあがって、そこからカゴで尾根づたいに九町から二見(ふたみ)を経て三机へ来たということなんです。」と語る。

 「瀬戸町誌」によると、宇和島藩の参勤順路として三つあげている。一つは宇和島より陸路カゴで卯之町〜八幡浜〜伊方〜三机へ。一つは宇和島より乗船して川永田に上陸し陸路カゴで三机へ。一つは塩成に上陸して陸路カゴで三机へ入っていた。

『ふるさと愛媛学』調査報告書『宇和海と生活文化(平成4年度)』  ※ 太字及び下線は引用者による
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 これによると三つのルートがあったようですね。これらのルートを地図に書き表してみましょう。

宇和島藩の参勤交代ルート〔国土地理院電子国土基本図から作成〕
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 ここまでの記述から考えると、寛延元(1748)年に滞船していた参勤用船は空船だったということになります。『伊達家御歴代事記』によれば大坂から乗船したということですから、江戸から宇和島へ戻る途中だったのですね。また、御仮屋が置かれるなど、三机が宇和島藩にとって航海上の重要拠点であったことも分かります。

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 三机が航海上の重要拠点となった理由は次の通りです。

参勤交代の順路

 三机港は、瀬戸内海に面して湾が深く内海航路の要衝の地であったから参勤交代の船旅はもちろんのこと、漁船、商船その他各種船舶が立ち寄ったので宿屋が繁盛した。その最盛期は大正初期から末期で、当時この三机には六軒の宿屋があったといわれる。これは藩政時代のことであるが、藩の御用商人がここ三机に泊まると、地元商人は大そうもてなしをしたそうである。〔中略〕

 御仮屋は、参勤の基地として、三机に藩主休息の場所として建てられたもので、現在の町民センター西方約150m位の所にあった。海が時化ると、一行は三机の町でとう留するが、その時藩主たちは神仏信仰のあつかった時代であったので、海上安全を祈願するため八幡神社に必ず詣でて御祈とうを受けていた。

『ふるさと愛媛学』調査報告書『宇和海と生活文化(平成4年度)』  ※ 太字及び下線は引用者による

【瀬戸町民センターと八幡神社の位置】

【三机八幡神社】

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 「瀬戸内海に面して湾が深く内海航路の要衝の地であった」というのは二名津も同様ですね。なお、藩政時代に塩成-三机間に運河開削が試みられた歴史があります。紹介しましょう。

瀬戸町の集落と運河の開さく

 藩政時代から旧三机村に運河開さくが試みられた。この工事は半島の中でもっとも幅の狭い(約800m)、しかも半島の中央付近ないし八幡浜に近い部分ということで塩成-三机間が選ばれた。これは宇和島藩主富田信濃守が慶長15年(1610)から18年にいたる3か年に10万石の浦里からのべ10万人の人夫を徴発し、突貫工事を推し進めたが30%も掘らないうちに作業の困難さから人夫が逃散した。このことが幕府に聞こえ「無謀な工事を起こして民心を乱す」との理由で富田信濃守は奥州に流されて開通をみることができなかった。当時の計画は「堀の長さ塩成の振より三机の小振まで340間、高さ2間より12間まで同底幅」であったようである。この工事の経過は、上から4〜5m掘って中断している。

『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』  ※ 下線は引用者による
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 残念ながら運河完成とはなりませんでしたが、この工事のおかげで、現在三机-塩成間は車で5分もかかりません。この場所には堀切大橋が架けられ、一つの景観を形成しています。

堀切大橋〔伊方町立塩成小学校跡から撮影〕
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 なお、二名津に御仮屋が設けられたことがあります。「ふるさと愛媛学」調査報告書『宇和海と生活文化』の記述を引用します。

宇和島藩の参勤交代の道

 文政9年(1827年)12月17日に三机の御仮屋が大破となり、三崎浦の二名津を利用することになった。この時の御座船は、半島の先端三崎町の佐田港へ上陸し、山を越えて三崎に、ここの庄屋でくつろぎ、さらに二名津へ越えて瀬戸内海に向かったといわれている。

『ふるさと愛媛学』調査報告書『宇和海と生活文化(平成4年度)』  ※ 太字及び下線は引用者による
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 こうして見てみると、藩政時代には「瀬戸内海に面して湾が深い場所」を活用しながら航海を行ったことがよく分かりますね。現伊方町においては、佐田・三崎・二名津・三机・川永田・伊方がその場所だったのですね。


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 今回は以上です。資料を提供していただいた町見郷土館主任学芸員の高嶋先生にはこの場を借りて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

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