自然災害伝承碑を訪ねて…11 昭和18年7月23日に発生した風水害の記憶・砥部町高尾田
皆さんは上の地図記号を見たことがありますか?この地図記号は「自然災害伝承碑」といい、国土地理院が令和元年6月19日から地理院地図上に公開を始めたものです。「自然災害伝承碑」とは何か、国土地理院ホームページから引用します。
「自然災害伝承碑」について
◆ 過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に係る事柄(災害の様相や被害の状況など)が記載されている石碑やモニュメント。※ これまでは、概念的に記念碑(ある出来事や人の功績などを記念して建てられた碑やモニュメント)に含まれていました。
◆ これら自然災害伝承碑は、当時の被災状況を伝えると同時に、当時の被災場所に建てられていることが多く、それらを地図を通じて伝えることは、地域住民による防災意識の向上に役立つものと期待されます。
『国土地理院ホームページ』より
この「自然災害伝承碑」の記載は国土地理院が全国の自治体と連携して進めていますが、各自治体からの申請があったものに限られています。そのため、記載されている数はほんの一部に過ぎません。そこで、取材中に撮影した自然災害伝承碑と罹災状況について、当ブログにて紹介していきたいと思います。
今回は、昭和18年7月23日に発生した風水害の記憶を伝える自然災害伝承碑を紹介します。
昭和18年7月23日発生、風水害の記憶 〜砥部町高尾田探訪〜
松山方面から重信橋を渡り、県道23号との交差点を過ぎて少し進むと、右手に写真の水害復旧記念碑が見えてきます。皆さんはこの石碑を見たことがありますか?石碑の位置を地図で確認しましょう。
この自然災害伝承碑は、標題の通り昭和18年7月23日に発生した大水害からの復興の記憶を今に伝えてくれるものです。しかし、残念なことに劣化が激しく、裏面に刻まれた碑文の文字はほとんど読むことができません。次の写真をご覧ください。
そこで今回は、『砥部町誌』の記述を参考にしながら、台風による豪雨を原因として砥部町高尾田で起きた大水害についてまとめていきたいと思います。まず最初は、重信川堤防決壊直後の状況から始めます。
Part.1 昭和18年7月23日、重信川堤防決壊
この時の状況について、『砥部町誌』は次のように記載しています。
気象災害
昭和18年7月21日から降り出した雨は22日夜来より豪雨となって重信川、砥部川、久谷川は刻々水かさを増して濁水堤防にあふれ、各堤防、池、橋梁等いよいよ危険となり、午後10時には警鐘を打ち、村民、警防団員を招集して各危険な場所へ配置して警防にあたった。しかし、重信川堤防(旧荏原村河原分)決壊して奔流は堤防南側の水田をおし流し、拝志村堤防決壊による濁水は、久谷川堤防を押し切り一時に濁水奔走、双方相和して高尾田耕地を経て重信橋南40間の箇所の県道、松山高知線を約80間押し流して交通謝絶した。
『砥部町誌』 ※ 太字及び下線は引用者による
これによると、旧荏原村河原と拝志村の堤防決壊が砥部町高尾田に大きな被害をもたらしたようです。決壊した場所と浸水区域を地図で確認しましょう。
重信川南側の罹災状況は物凄いですね。特に、現松前町は町のほとんどが浸水してしまっています。この時の台風の規模は次の通りです。
昭和18年7月発生「台風4309号」
特に、昭和18年(1943年)7月の台風に伴う大水害は観測史上最大の被害をもたらした。土佐沖より北上した台風の進行速度は極めて遅く、停滞したため、21日から24日に至る4日間豪雨が続き、松山地方の年平均雨量の5か月分に相当する540mmの雨量となった。さらに23日朝には重信川出合水位観測所で水位6.20mを示し、午前9時には北伊予村(現松前町)徳丸地先の左岸堤防が決壊、続いて7か所の堤防が決壊し、耕地の流失、埋没約1,730ha、浸水家屋約12,500戸の大被害となった。その他、道路、鉄道等に及ぼした被害も莫大なものであった。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 下線及び太字は引用者による
「松山地方の年平均雨量の5か月分に相当する540mmの雨量」「重信川出合水位観測所で水位6.20m」は本当に聞いたことがありません。砥部町高尾田においても、甚大な被害をもたらしました。高尾田の範囲を地図で確認しましょう。
赤い線で囲まれた範囲が高尾田です。北部に重信川、中央に御坂川〔久谷川〕が東西に流れ、高尾田西部では重信川と砥部川及び御坂川と砥部川が合流しています。また、『砥部町誌』に記載されている「高尾田耕地」は、上の地図中のAコープ城南店以北をさします。なぜこの場所の被害が大きくなってしまったのでしょうか?
Part.2 罹災及び避難状況
高尾田耕地に甚大な被害をもたらした要因について、『砥部町誌』に記載されていない記述が『高尾田誌』〔平成12年、渡部隆樹氏刊行〕にあります。引用しましょう。
大水害
前後して現砥部団地(電信なげの南側 ヨシ泉の北)の処堤防決壊し八瀬田一帯を奔り重信橋南側四十間の箇所の県道、松山高知線約八十間押し流し交通杜絶した。この時八瀬川と砥部川との出合にあった、大野清五郎所有、門田照一居住の家屋一棟倒壊流失した。
『高尾田誌』
現砥部団地付近の堤防も決壊したのですね。砥部団地と八瀬の位置及びこの時倒壊した家屋の場所を地図上に示してみましたのでご覧ください。
地図上の❌は、八瀬川と砥部川の出合にあった家屋の位置を示しています。ちなみにその場所には八瀬橋が架けられています。現在は橋の片側のみ欄干部分が表出しています。
Google mapや国土地理院電子国土基本図を見ても分かるように、被害が大きかった高尾田耕地を含め、現在の高尾田は住宅地が広がっています。当時の高尾田はどのような風景だったのでしょうか。昭和22年に米軍が撮影した航空写真を見てみましょう。
上の航空写真に地名等を当てはめてみました。ご覧ください。
こうして見てみると、高尾田耕地にはほとんど住居がありませんね。あるのは日之出部落と東方の広瀬部落のみです。では、交通杜絶後の状況を確認しましょう。
交通杜絶後の状況① 日之出部落の人々
久谷川に氾濫した水は怒涛を打ちながら、角田精米所、門田製材所の裏手を流れ、産業組合裏横の原町小松線道路を奔り、日之出部落全戸に床上浸水して家財の持出し、整理もできぬ状態となった為、麻生国民学校へ避難した。
『砥部町誌』 ※ 下線は引用者による
罹災した日之出部落の人々は、麻生国民学校〔現麻生小学校〕へ避難したようですね。次は産業組合の人々の動きです。
交通杜絶後の状況② 産業組合の人々
産業組合は組合長白形栄吉氏外数名が組合に留って品物の保管にあたっていたが、午後2時には水かさが増す一方でもはや処置はなく、帳簿、書類全部を門田精米所と組合とに綱を渡してこれによって麻生国民学校へ運んだ。丁度そのときであった。大いなる音響と共に南側倉庫半分倒壊し、保管中の米麦は多数流失した。
『砥部町誌』 ※ 下線は引用者による
こちらも書類等を麻生国民学校へ運んでいますね。『高尾田誌』に「麻生校へ避難せし人々」と題した表がありますので、引用・転記します。
このように、麻生国民学校へ避難及び書類の移転作業が進む中、水嵩はどんどん増していき、橋梁等を流出させてしまいます。『砥部町誌』の記述を確認しましょう。
水嵩が増して…
午後7時応援に来村した砥部町警防団長、橋田武右衛門氏外5名と、村内警防団員、壮年団員は組合管理中の米麦を麻生校へ移転したが、久谷川の水嵩が増し久谷橋北側の護岸決壊し、人の歩行にも危険となりその搬出を中止した。また砥部川も大増水で、宮内フロ川橋、一の瀬橋、八瀬橋相次で流失し、しばらくして麻生橋も流失して、拾町重光方面との行き来も絶えた。柳瀬の松崎要次郎氏外数軒は床上浸水し、この氾濫した水は久谷川の水と相和して、拾町重光八倉の人々の必死の防護にもかかわらず、麻生橋西護岸の南北数十間決壊し宮北の田面は一大河川となった。
『砥部町誌』 ※ 太字は引用者による
「一大河川となった」というのは物凄いですね。「四国災害アーカイブス」昭和18年の洪水の項に『砥部町誌』の該当ページがリンクされていますが、その中に現県営団地・八瀬団地付近の罹災状況を撮影した写真が掲載されています。当ページにもリンクさせておきますので、どうぞご覧ください。
上記のように被害の規模がどんどん大きくなる中、逃げ遅れた方々の救出作業も同時に行われました。先述の『高尾田誌』にこの時の被害状況をまとめた表が掲載されています。転記しますので、ご覧ください。
麻生国民学校に避難した人々は、そこで夜を過ごしました。翌24日の状況について、『砥部町誌』は次のように記載しています。
7月24日の状況
24日減水したが細雨尚止まず、麻生国民学校で不安の1夜を明かした人々は、急ぎ我が家に帰ったが、壁落ち、柱傾き、泥土うず高く這入り日用品、家財が大半流失した有様を眺めて唖然としていた。県道原町、小松線も数ヶ所決潰して通行もできず、田畑は1面砂石河原と化していた。人々は水の中を広瀬に行き、同部落の人々の無事なるに会い相互に喜び合い一同麻生校に来たが、昨日より一滴の水も口にせずとのことばであった。
『砥部町誌』 ※ 下線及び太字は引用者による
Part.3 御坂川南側に大きな被害がなかったのは何故?
以上が7月23日から24日にかけての高尾田の罹災状況です。こうして確認してみると、麻生国民学校へ避難したのは広瀬部落と日之出部落の方々であり、御坂川南側で生活する人々は含まれていません。これは何故でしょうか?もう一度昭和22年米軍撮影の航空写真を見てみましょう。
御坂川南側の地形をよく見てみると、河川に沿って階段状の地形が分布していることが分かります。このような地形を河岸段丘といいます。
7月24日の状況
河川に沿って分布する階段状の台地地形で、平たんな台地面(段丘面)と急傾斜の崖(段丘崖)からなる。河川によって形成されたことを強調して、河成段丘ともよぶ。段丘面はかつて河川が流れていた当時の旧河床、氾濫原で、川の下刻作用(深く掘り下げる作用)によって洪水位より十分高い位置に離水した地形である。日本の平野および山間河谷には広く分布する。河岸段丘の成因として、気候変化、地殻変動、火山活動、山地崩壊による土砂生産の変化など、多様な自然現象の変化が関連していることが知られている。
『世界大百科事典 第2版』 ※ 太字は引用者による
昭和22年米軍撮影の航空写真に段丘崖〔緑色〕を記入すると、下の写真の通りになります。
この段丘崖の存在が、御坂川南側への濁水の侵入を防いだのでしょう。これに対して、高尾田耕地はなだらかな地形です。こうした地形的要因が被害を甚大なものにしたのではないでしょうか。
Part.4 水害からの復旧
それでは最後に、災害の復旧について触れ、本稿を終えることにしましょう。『砥部町誌』の記述を引用します。
7月24日の状況
7月24日応急復興本部を産業組合に置き、村長指揮のもとに、村民総動員して仮橋、浸水家屋の整理を行う。翌日より松山市をはじめ、近村の報告隊員、中学校等の生徒の来援によって8月5日までに応急対策は一応できた。高尾田凡そ40町歩の耕地は、その被害甚大な故に耕地整理組合を設立して数年に亘る計画事業とすべく、村長相田梅太郎氏組合長となりよくその実をあげて、昭和25年完全復旧をみるに至った。
『砥部町誌』 ※ 下線及ぶ太字は引用者による
『砥部町誌』によると、応急対策をしたものの昭和18年9月及び昭和20年10月の豪雨によって水泡に帰してしまったそうです。しかし、人々はそれでも諦めることなく復旧作業を継続しました。復旧作業にあたった人々の数は以下の通りです。
そして昭和26年5月22日、水害と復旧の記憶を後世に伝えるため、地域の方々が高尾田の地に建立したのが水害復旧記念碑です。
なお、同日に発生した水害の記憶を伝える石碑が松前町にもあります。
松前町の水害については、『昭和18年7月23日、それは起こった 〜重信川水害の記憶〜』と題して以前紹介していますので、お時間があります時にご一読ください。
昭和18年7月23日、それは起こった 〜重信川水害の記憶〜
One more thing… 碑文の解読
砥部町高尾田の水害復旧記念碑の碑文にはどんなことが記されているのでしょうか?文章にはなりませんが、解読を試みてみましたのでご覧ください。
今回は以上です。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。内容についてご意見いただけるとありがたいです。