知って欲しい! 遠山矩道氏のこと

Teacher

 今日は、遠山矩道〔とおやま のりゆき〕氏の業績について紹介します。

Takashi

 先生、遠山矩道という人は日本史の教科書には記載されていません。どんな人なのですか?

Teacher

 彼は、天保11〔1840〕年に吉田藩士の家に生まれ、蚕糸業の新興に働いた先駆者です。

Takashi

 吉田藩といえば、現在の宇和島市吉田町のことですね。

Teacher

 そうです。宇和島市吉田町の位置を地図で確認しましょう。

Takashi

 先日教えていただいた、石灰業で栄えた明浜町高山から南東の位置にありますね。

【参考①】西予市明浜町高山の集落の密集状態はどのように形成されたか?②

【参考②】高山石灰業の発展と衰退①

【参考③】高山石灰業の発展と衰退②

Teacher

 そうです。

Takashi

 先生、吉田藩士の家に生まれたということは、遠山矩道氏は武士ですよね。その彼がなぜ蚕糸業の先駆者となったのでしょうか?

Teacher

 それについては、幕末から明治にかけての日本の歴史と合わせてお話ししなければなりません。まず最初に言えることは、遠山矩道氏の尽力により、「明治以降、吉田は製糸の町になった」のです。

Takashi

 吉田町といえばみかんの栽培で知られていますが、製糸が盛んだった時代があったのですね。

Teacher

 その通りです。それでは、遠山矩道氏の業績を確認していきましょう。

① 近代蚕糸業の成立

Teacher

 蚕糸業とは養蚕・製糸に関連する各種企業の総称です。江戸時代には養蚕が農家の副業として行われていましたし、江戸中期には国内生糸が国内需要を満たし、織物業が発達していました。

Takashi

 なるほど。遠山矩道氏が生まれた江戸後期にはすでに発達していたということですね。

Teacher

 そうです。その生糸の需要が爆発的に高まる出来事がありました。

Takashi

 何が起こったのですか?

Teacher

 この人物の来日以降、江戸幕府の外交政策が大きく転換されたのです。

マシュー・ペリー ※ Wikipediaから引用〔パブリック・ドメイン〕
Takashi

 ペリーですね。日米和親条約を締結して下田・函館の2港を開いたことは授業で学びました。

Teacher

 その後、来日した駐日総領事ハリス日米修好通商条約を締結し、1859年から諸外国との貿易が始まりました。この時の貿易港は横浜・長崎・函館でしたね。幕末期の貿易の特徴をグラフ化すると、次のようになります。

幕末貿易の特徴 ※ 石井孝『幕末貿易史の研究』より
Takashi

 生糸の輸出が79.4%!海外からの需要がものすごいですね。

Teacher

 生糸の需要が高まったのですが、幕末の動乱と倒幕によって、諸藩は藩士の授産事業などを模索する必要に迫られました。このような背景から、藩庫を開いて融資するなどの施策によって養蚕を奨励し始めたのです。

Takashi

 生糸が輸出第一位の貿易品となったわけですから、当然の流れですね。

Teacher

 伊予国においても、各藩が養蚕奨励政策を行っています。

  • 今治藩 :明治2〔1869〕年、蚕業教師を招き、養蚕伝習を開始。鈍川・鴨部村から山桑を集める。
  • 大洲藩 :明治3〔1870〕年、滋賀県から桑苗数万本を購入して藩士に配布。
  • 宇和島藩:明治3〔1871〕年、滋賀県から蚕業教師を雇い、八幡村に生産場を設置。
Takashi

 この頃、遠山矩道氏は30歳前後ですね。吉田藩士であった彼も養蚕の技術習得に励んだのでしょうね?

Teacher

 そうです。しかし、時局の激変によって藩の事業が解消してしまいます。

Takashi

 何があったのですか?

Teacher

 明治3〔1871〕年7月に断行された廃藩置県です。

Takashi

 藩自体がなくなってしまったのでしたね。

Teacher

 村上是哉氏が著した『伊予蚕業沿革史』には、大洲町〔現大洲市〕の状況が綴られています。引用しましょう。

廃藩置県後の大州町

 大州町の状況たる、単に士族の衰亡離散にのみ止まらず、商家の如き従来多くは藩士を顧客として生計を営みしも、此時に及んでは士族の衰亡殆ど其極点に達し、直接商家に影響を及ぼし、他に新事業を発見するに非ずんば、共に廃亡の虞あるに際す。

『伊予蚕業沿革史』 ※ 太字は引用者による
Takashi

 ものすごい状況ですね。

Teacher

 こうした状況を改善するためには、輸出産業である蚕糸業を成長させなければなりません。ですから、国を挙げて殖産興業政策を実施したのです。

Takashi

 官営模範工場といえば、群馬県の富岡製糸場が創業を開始したのもこの頃のことでしたね。

【参考】歴史を学ぶ しるくるとみおか 富岡市観光ホームページ

Teacher

 そうです。こうした国の政策は各府県に波及するとともに、藩の養蚕奨励政策を学んだ旧藩士の意識をも高めました。彼らは藩の事業を受け継ぎ、民間事業として県内蚕糸業の基礎を形成していくことになるのです。

Takashi

 愛媛県はどのような政策を実施したのですか?

Teacher

 はい。明治6〔1873〕年に県参事として赴任した江木康直が中央集権化路線を推進して、松山に県庁を、宇和島に宇和島支庁をそれぞれ配置します。そして同年、福島出身の松倉恂を宇和島へ派遣し、士族授産を目的とした養蚕・製糸の利益を説く講習を行わせました。

Takashi

 遠山矩道氏はこの講習会に参加したのですね。

Teacher

 そうです。この講習会には旧宇和島・吉田両藩士族の主立つ者が参加したので、宇和島藩に芽生えていた養蚕奨励をさらに助長させる結果となりました。松倉恂の業績について、『伊予蚕業沿革史』には次のように綴られています。

廃藩置県後の大州町

 松倉氏の宇和島出張所長として、同地に蚕桑奨励懇切至らざるなく、同地は先に伊達氏の勧奨を蒙り、今又此奨励に遭ふ。両藩の士族益々之が利益を信じ、確かに後年県下第一の養蚕地となるに至りしは、此奨励の基礎動機となりしこと、今尚ほ同地方有志古老の口碑に伝はれり。

『伊予蚕業沿革史』 ※ 下線は引用者による
Takashi

 なるほど。遠山矩道氏も同様に、蚕糸業の利益を信じたのですね。

Teacher

 その通りです。講習会後、遠山矩道氏は吉田で蚕糸業奨励のための具体的行動を始めました。

② 遠山矩道氏の蚕糸業奨励策

Teacher

 遠山矩道氏が残した言葉があります。漢文で紹介しますので、読んでみてください。

既飼蚕則不可不糸之

Takashi

 えっと、既に蚕を飼う。則ち…あとは分かりません。

Teacher

 これは、「既に蚕を飼へば則ち之を糸せざるべからず」と読みます。

Takashi

 どんな意味なのですか?

Teacher

 はい。「養蚕をなす以上、同時に製糸を興さなければならない。」という意味です。

Takashi

 遠山矩道氏は蚕糸業全体の発展を目標にしていたのですね。

Teacher

 そうです。彼の行動を年表にまとめましたので、見てみましょう。

遠山矩道氏の業績 ※ 『吉田町誌』の記述を参考に作成
Takashi

 「興業社」という会社を興して蚕糸業発展に取り組んだのですね。

Teacher

 はい。年表中にはありませんが、「終楽会社」という金融機関も設立し、資金調達も行っています。

【参考】国立公文書館 デジタルアーカイブ 「愛媛県旧吉田藩士族遠山矩道等ヘ就産金貸下ノ件」 ※「閲覧」をクリックしてください。

Takashi

 明治16〔1883〕年10月のことですね。農商務大臣に西郷従道、太政大臣三条実美の名前があります!でもその5年後に彼は亡くなってしまうのですね。活動期間が本当に短いですね。

Teacher

 享年47歳だそうです。彼のお墓は、吉田町立間の大乗禅寺にあります。

Takashi

 先生、彼の死後興業社は解散したとのことですが、なぜ他の人が継続しなかったのですか?

③ 興業社解散の社会的背景

Teacher

 そのことについて、『伊予蚕業沿革史』に記述があります。引用しましょう。

廃藩置県後の大州町

 明治15年、吉田興業会社は此年事業を拡張して更に工場を新築し益々社運の興隆を期し表面稍々進歩発達の徴〔しるし〕を呈したるが如しと雖も年緒尚浅く其内情に至りては周囲に之を幇助〔ほうじょ。援助すること。〕するの機関なく此年は明治10年西南暴動の際濫発したる不換紙幣の影響より生糸貿易上困難を極め同社の経営も困憊の中にあり

『伊予蚕業沿革史』 ※ 注釈及び下線は引用者による
Takashi

 会社の経営が非常に逼迫していたのですね。

Teacher

 実はこの頃、国家財政自体が危機的状況でした。その状況を確認しましょう。

大隈重信による財政政策
Takashi

 なるほどインフレーションが発生していたのですね。援助する機関がなかったというのも分かる気がします。確か官営事業払下げが行われたのもこの頃でした。

Teacher

 そうです。財政を担当した大隈重信が明治十四年の政変で政府を追放されましたので、新たに松方正義が財政改革を行うことになります。

松方正義 ※ Wikipediaから引用〔パブリック・ドメイン〕
松方正義による財政政策
Takashi

 デフレになったけど、繭の価格が暴落しているし、農村が疲弊してしまっていますね。

Teacher

 はい。さらに、当時の技術的事情も重なりました。

Takashi

 技術的事情とはどんなことですか?

Teacher

 それは、困難な蚕種の保存及び移入交通手段の未発達です。

Takashi

 そうか、遠山矩道氏が存命中は、愛媛県にはまだ鉄道が敷設されていませんね。

Teacher

 伊予鉄道が三津-松山間を開業したのが明治21〔1888〕年のことでしたね。さらに、蚕が繭をつくってから羽化するまで2週間程度ですが、当時は長期保存するための技術がなかったのです。

Takashi

 なるほど。それで会社の継続ができなかったわけですね。

Teacher

 しかし、明治22〔1889〕年に東海道線が開通してから状況が変わります。再開された吉田の蚕糸業は、紆余曲折を辿りながら昭和33〔1958〕年まで続いたのです。

Takashi

 遠山矩道氏が亡くなった翌年ですね。もっと長生きできていたら、状況は変わっていたかもしれませんね。

終わりに … 遠山矩道氏の顕彰

Teacher

 現在、吉田公園の北端に「遠山矩道君記念碑」が建てられています。

遠山矩道君記念碑 ※ 吉田公園にて撮影
Takashi

 大きな記念碑ですね。

Teacher

 この記念碑は、県議会議員清家吉次郎の提唱によって、大正6〔1917〕年に建てられました。

清家吉次郎翁像 ※吉田町東小路の吉田伊達広場前にある
Teacher

 「遠山矩道君記念碑」の土台に刻まれた碑文は、長年の風雨により削れてしまった箇所があり、全てを読み取ることができません。しかし、吉田町が記念碑の側に建てている解説板にその大要が記載されています。

遠山矩道氏記念碑

 この碑文は、清家吉次郎翁が遠山矩道氏の功績を称えて記されたもので、大要は次のようなものです。

 明治維新の廃藩によって旧藩士たちは、収入の手段を失い、中には吉田の地を離れる者も出はじめ、町は次第に活力を失っていった。遠山君は、これらの人びとの救済と町の活力回復をねがって、養蚕の必要性を説き、これの普及と技術導入に務め、自らも製糸工場「興行社」を設立し、蚕糸業の振興を図った。

 遠山君は、終生 吉田地方の産業振興に尽し四十七才の若さで逝ったが、その功績は誠に偉大であり筆舌に尽し難いものがある。

Takashi

 遠山矩道氏は、本当に地域の発展に貢献した方だったのですね。

Teacher

 そうです。現在吉田町の蚕糸業の火は消えてしまっていますが、町の歴史に確かな足跡を残した方なのです。

Takashi

 勉強になりました。ありがとうございました。

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