松山電気軌道の廃線跡をたどろう!④ 六軒家〜榎前

Teacher

 Takashi君、六軒家停留所付近にある松電の廃線跡と思われる痕跡を撮影してきました。

六軒家交差点付近にて撮影 左:衣山方面、右:萱町方面〔四電工の敷地内を松電の電車が走っていた。〕
Takashi

 もしかして、あの斜めの廃線跡ですか?

Teacher

 はい。六軒家車庫と変電所の跡地に建てられた四電工の敷地内です。一緒に見てみましょう。

四電工の東側から西方向を撮影
Takashi

 あれ、道路に対して車が斜めに駐車しているように見える。

Teacher

 この「斜め」が、かつて電車がここを走っていたことの痕跡です。さらに次の写真を見てください。

上の写真とほぼ同じ場所にて撮影
Takashi

 道路に対して壁が斜めですね。

Teacher

 六軒家停留所を出発した松電の電車は、南東方面へ進路を変えて萱町停留所に向かいました。萱町停留所の場所を確認しましょう。

Takashi

 はい。

① 萱町停留所と町人町の形成過程

Teacher

 Takashi君、萱町停留所はどの辺りにあったと思いますか?下の地図を見て推測してください。なお、地図中にある二つの赤丸は、松電の衣山停留所と六軒家停留所の位置を示しています。

伊予鉄古町駅付近 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
Takashi

 松電の電車は四電工の敷地内を斜めに進んだんですよね。だとすると…?あっ、四電工の南西方向に、斜めの道路があります。これも松電の廃線跡じゃないでしょうか。先生、地図上に記してみてもいいですか?

Teacher

 いいですよ。どうなりますか?

Takashi

 できました。確か、宮前川と道路が交差するところに松電の橋脚跡が残されていましたよね。その場所も書き入れてみました。

【参考】松山電気軌道の廃線跡をたどろう!③ 江戸谷〜萱町

松電の廃線跡 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
Teacher

 Takashi君、正解です。橋脚跡の話もよく覚えていましたね。

松電の橋脚跡

【参考】トッポ作ホームページ「古町駅近辺に残る松電の遺構」 ※ 跨線橋の写真が掲載されています。 

Takashi

 ありがとうございます。

Teacher

 では、萱町停留所の場所を地図上に記入してみてください。

Takashi

 斜めの線の延長線上に停留所があるから…、おそらくこの場所ではないですか?

萱町停留所があった場所 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成。
Teacher

 なぜそのように考えましたか?

Takashi

 はい、理由は二つあります。一つは四電工内の斜め線の延長線上にあること、もう一つは伊予鉄古町駅の前に停留所がつくられたと考えたからです。

Teacher

 Takashi君、正解です。では次の質問です。「萱町」という町名の語源は何でしょうか?

Takashi

 「萱町」の語源?「萱」って何だろう?ちょっと分かりません。

Teacher

 Takashi君は「茅葺き屋根」というものを知っていますか?

Takashi

 「茅葺き屋根」は知っていますが…。もしかして茅葺きの職人が生活をしていたことが町名の語源ですか?

Teacher

 その通りです。「萱町」とは加藤嘉明の松山築城と城下町づくりを由来とする町名で、「茅屋〔かやや〕」という屋根職人〔茅職人と呼ばれた〕の集団が生活していた場所なのです。

Takashi

 そうなのですね。とすれば、「古町」というのも城下町づくりに由来する町名なのですね。

Teacher

 そうです。松山城の城下町づくりは慶長7〔1602〕年1月から始まったと言われていて、まず武家町の屋敷の地割から始められました。

Takashi

 慶長7年といえば、関ヶ原の戦いの2年後ですね。加藤嘉明が戦功をたて、松山への築城が認められたんでしたね。確か武家町は松山城を取り巻くようにつくられていたと思います。

Teacher

 その通りです。現在の地図に藩政時代の町の分布を作図してみましょう。

武家町と町人町の分布 ※ 「まちあるきの考古学」ホームページ記載の図を参考に、国土地理院電子国土基本図に作図

【参考】「まちあるきの考古学」ホームページ 松山

Takashi

 萱町は町の西北にありますね。隣には松前町もある。これはエミフルがある松前町と何か関係がありますか?

Teacher

 その通りです。加藤嘉明が松前城から松山城へ移る際、松前の商人たちを松山へ集住させたことが松前町という町名の由来です。城の西北部に町人町が形成された理由について、『愛媛県史 近世 下』に次の記述があります。

城の北西部に町人町が形成された理由

 まず第一に考えられることは、城下町が主として軍事上の要請から建設されたものである限り、町人街もその要請を満足するよう配置されるべきである。松山城の脆弱点は、西北方面(港へ最短距離にあり、従って海より攻撃をうけ易い)にあったようである。古町分は、この方面に対する防御上の砦として配置されたものであろう。第二に考えられることは、瀬戸内海の水路に直面している良好な外港三津から、最も近い距離にあるという経済上の利点があるからであろう。瀬戸内の多くの城下町が、内海水路を利用するために、沿岸かその付近に立地していることは周知のことであり、松山城下町もその例に洩れていない。ただ城の位置が政治的・軍事的考慮から幾分内陸にあるため、直接水運の利を得ることが出来ない欠陥があったことは否定できない。

『愛媛県史 近世 下』 ※ 下線および太字は引用者による
Takashi

 なるほど。だからこそ「古町」という地名もあるし、「萱町」のように職業集団が集められたのか。伊予鉄道が古町駅を開業したのもそのような理由なのですね。

Teacher

 そうです。萱町商店街と呼ばれる区域がありますが、その形成にはこれまで確認してきた歴史的背景があるのです。

Takashi

 よく分かりました!

Teacher

 では、萱町停留所付近の話はここまでにして、次の本町停留所から札ノ辻停留所にかけての話に移りましょう。

Takashi

 はい。

② 本町停留所から札ノ辻停留所までの路線はどこ?

Teacher

 萱町停留所を出発した電車は、東進して本町停留所へ向かいました。この停留所は、伊予鉄道の駅である本町四丁目駅と同じ場所です。駅の位置を地図上に示してみましょう。

Takashi

 萱町停留所からそんなに離れていませんね。

Teacher

 現在の「本町四丁目」という駅名は、住居表示実施後の昭和42〔1967〕年1月1日に改称されました。

本町停留所付近。
Takashi

 写真に写っている路線は伊予鉄道の本町線ですね。この路線と直行している道路は平和通りですから、伊予鉄道の古町駅は写真奥にあります。ということは、松電の電車は現平和通りを路線として、この場所まで走ってきたということですね。

Teacher

 その通りです。本町停留所を出発した電車は、現在の平和通りから国道196号を通り過ぎ、本町線の少し東側から南下し、札ノ辻停留所へ向かいました。この路線はどの辺りにあったと思いますか?

Takashi

 現在の地図でいうと、師範学校跡の石碑の西側に南北に走る道路がありますから、そこが松電の路線ではないですか?

Teacher

 実はその道路ではないのです。松電が存在していた時代ではありませんが、昭和22〔1947〕年に米軍が撮影した航空写真に松電の路線であったであろう道が写っています。見てみましょう。

昭和22〔1947〕年米軍撮影の航空写真〔札ノ辻付近をトリミング〕 ※ 国土地理院ホームページから引用
Takashi

 先ほど僕が発表した道は、この頃にはありませんね。その西側に細い道が見えるのですが、それが松電の廃線跡でしょうか?航空写真に記してみてもいいですか?

Teacher

 どうぞ。松電の廃線跡を緑色の線でたどってみてください。

Takashi

 できました。札ノ辻停留所以降もたどってみました。

昭和22〔1947〕年米軍撮影の航空写真に松電の路線および停留所を記入したもの ※ 国土地理院ホームページから引用
Teacher

 Takashi君、よくできました。本町から札ノ辻までの路線はその場所になります。札ノ辻停留所以降の路線も合っています。

Takashi

 この場所は現在どうなっているのですか?

Teacher

 廃線跡に建物が建てられてしまっています。現地の写真がありますよ。見てみましょう。

松電の廃線跡〔札ノ辻付近〕
Takashi

 建物の境になっていますね。

Teacher

 はい。松電の電車はここを南進して札ノ辻停留所を通過し、松山城の堀沿いを進みました。札ノ辻跡の石碑があるところに廃線跡だと分かるカーブが残されているので、写真で確認しましょう。

札ノ辻跡の石碑〔西堀端沿いに建てられた「松山札之辻」の石碑よりやや東側にある〕
札ノ辻停留所跡〔左にカーブする道が松電の廃線跡〕
Takashi

 綺麗なカーブですね。

Teacher

 この写真でも分かるように、松電の電車は松山城の堀に近い場所を走っていました。現在の伊予鉄本町線の路線は、昭和31〔1956〕年頃に現在の位置に移設されたものです。

【参考】廃線隧道【BLOG版】松山電気軌道④【札ノ辻〜八股】 ※ 当時の路線を確認できます。

Takashi

 本当に堀の側を電車が走っていたのですね。

Teacher

 そうです。道路の幅も風景も現在と全く異なっていますね。さて、この話はここまでにして、西堀端停留所以降の廃線跡を確認しましょう。

Takashi

 はい。

③ 西堀端停留所から八股停留所付近

Teacher

 この区間は、伊予鉄道が松電を吸収合併したのち、松電の路線を取り込んでそのまま活用しているので、区間の変遷をまとめていくことにしましょう。

松電の路線と停留所の位置 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
  • 明治44〔1911〕年 松山電気軌道が停留所設置。軌間1,435mm。※ のち、南堀端-市役所前間の「榎前」停留所廃止〔時期不明〕。
  • 大正10〔1921〕年 松山電気軌道、伊予鉄道に吸収合併。
  • 大正12〔1923〕年 松電線を軌間1,067mmに改軌。
  • 昭和11〔1936〕年 西堀端-裁判所前〔現在の県庁前〕間複線化
  • 昭和20〔1945〕年 7月26日の松山空襲による被災で西堀端-古町間が不通となる。
  • 昭和22〔1947〕年 南堀端-松山市駅間が開通
  • 昭和23〔1948〕年 本町-西堀端間の運輸を再開。のち、道路の拡幅工事が行われる。
  • 昭和31〔1956〕年 この頃、線路を道路の中央に移設。
  • 昭和42〔1967〕年 1月1日、住居表示の実施後に西堀端停留所を「本町一丁目駅」と改称。
Takashi

 こうしてみると、現在の伊予鉄道の路線が徐々につくられたことが確認できますね。

Teacher

 榎前停留所の廃止時期は分かりませんが、停留所の位置関係からみて八股停留所と同じ場所ではないかと推測します。ところでTakashi君、八股停留所という名称の由来を知っていますか?

Takashi

 はい。松山市役所前に八股榎大明神がありますから、それが名称の由来ですね。

Teacher

 その通り。下の写真は、八股榎大明神を市役所側から撮影したものです。

八股榎前大明神
Takashi

 先生、幟に「八股お袖大明神」とあります。お袖とは何のことですか?

Teacher

 これは「お袖」という名前の狸のことです。

Takashi

 タヌキですか?なぜここに祀られているのか教えてください。

Teacher

 お袖狸は松山城内の森に住んでいたとされる雌狸です。文政13〔1830〕年頃から堀端に植えられた榎の大木に移り住み、榎の大木に登って人の往来を見るのが好きで神通力を持っていたので、道祖神になりすまして徐々に信仰を集めるようになり、有名になったと伝えられています。『愛媛県史 民俗 下』に記載があります。引用しますね。

愛媛の伝説

 松山市役所前のお堀のかどに赤い幟が建てられているのは榎大明神の名で知られる八股のお袖狸である。市長であった産婦人科医安井雅一におのがお産の手伝いをさせたといい、安産と縁結びに効霊があるというが、いまや商売繁昌・家内安全・学業成就・交通安全などもろもろの願いをききとどけるとされる。昭和11年、八股榎は市内電車複線工事に際して伐採されることとなったが崇りを恐れて枝すらも伐るものがなかった。しかたなくご祈祷のうえ大掘りあげて松山市石井の喜福寺に移植したが枯れてしまった。正岡子規に「小のぼりや狸を祀る枯榎」と俳句によまれたほどの貫禄のある狸である。挙句、古巣を失ったお袖狸は大西町小西に明童菩薩となって現れる。摩詞不思議な霊験にあやかろうとする賽客のために国鉄のダイヤは狂いぱなし、大井漁港には急造応急棧橋ができるやら、青年たちが農作業を放棄して線香を売るやら油揚げを仕入れるやらのさわぎになり、遂に県議会でも余りの過熱ぶりが問題となった

『愛媛県史 民俗 下』 ※ 下線は引用者による
Takashi

 面白いタヌキですね。昭和11年の複線工事ということは、松電があった時期ではないですけど、間接的に関わりがあるといえなくもないですね。

Teacher

 実は間接的ではないのです。人々に人気のあるお袖狸ですが、何度か消滅の危機がありました。年表風にまとめてみます。

  • 明治 5〔1872〕年 県の命令で榎が伐採され、県庁の薪となる。
  • 明治44〔1911〕年 松山電気軌道の路面電車開業に伴い、祠のあった榎の大木が伐採される。※ のち、別の榎の下に祠を建てる。
  • 昭和 9〔1934〕年 伊予鉄道の複線工事の際に榎を伐採したところ、作業者の病気・怪我が頻発する。
Takashi

 作業者の病気・怪我が頻発したというのは凄いなあ。これ本当にあったことなんですよね。

Teacher

 はい。だから複線工事の完成が遅れてしまったのです。以後の推移は『愛媛県史』の記載の通りです。ちなみに、明治44年の伐採の際は六角堂に合祀という形で移転させていますよ。

Takashi

 六角堂は以前正岡子規の『散策集』で学習した常楽寺のことですね。

常楽寺
常楽寺にある「八股榎大明神」の額

【参考】正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう!御幸寺山麓へ①

Teacher

 その通りです。ですから、このお袖狸の話も松山電気軌道の歴史に関わるエピソードの1つなのです。

Takashi

 その通りですね。身近なところに様々なエピソードがあって、それらが結びつくと本当に面白い!

Teacher

 八股停留所は昭和19〔1944〕年に現在の「市役所前」に名称が変更されました。また、戦後の都市計画で沿線の道路が拡幅されたとき、軌道が一時堀側に偏った状態になりましたが、昭和28〔1953〕年に軌道を道路中央に移設しています。

【参考】廃線隧道【BLOG版】松山電気軌道⑤ 【八股〜一番町】 ※ かつての東堀端の風景を確認できます。

Takashi

 よく分かりました。

Teacher

では今回はこれで終わります。次回は一番町付近に残る松電の廃線跡をたどりましょう。

Takashi

 はい。楽しみです。

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