松山電気軌道の廃線跡をたどろう!② 住吉町〜江戸谷

Teacher

 今回は、住吉町停留所から江戸谷停留所までの廃線跡をたどりながら、停留所付近の歴史をまとめます。Takashi君、上の写真が掲示されている場所は分かりますか?

Takashi

 いいえ、分かりません。左側は明治中期の三津浜街道、右側は大正初期の三津浜街道と書かれていますね。

Teacher

 この写真は六軒家町のハローワーク松山前に掲示されているもので、写真に写っているのが松電の電車ですよ。

Takashi

 これが松電の電車ですか?それにしても現在と街道の風景が全く違いますね。

Teacher

 これらの写真が現在のどのあたりなのか、確認しておきましょう。

松山電気軌道の路線と停留所の場所 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
  • 左上の写真:新立停留所付近〔現県道19号〕。街道の左側を流れる川は宮前川、写真左の社叢は三津厳島神社。
  • 左下の写真:江戸谷停留所から知新園前停留所の間。おそらく、伊予鉄道西衣山駅付近。
  • 右上の写真:新立停留所から三本柳停留所の間。写真の下方を流れる川は宮前川。
  • 右下の写真:左上の写真とほぼ同じ場所。
Takashi

 当時は松並木があったのですね。

Teacher

 当時は「松縄手」と呼ばれていました。これらの松の木は、戦争中に松根油を取るために全部伐採されてしまったそうです。

Takashi

 先生、松根油とは何ですか?

Teacher

 戦闘機の燃料とするための油のことです。

Takashi

 戦争中にそんなことがあったのですね。

Teacher

 そうなのです。では、松山電気軌道の廃線跡をたどっていきましょう。今回は、住吉町停留所を出発したところからでしたね。

① 住吉町停留所から新立停留所へ

Teacher

 住吉町停留所を出発した電車は宮前川に沿って南進し、「松原橋」付近を渡って現在の県道19号に出ました。「松原橋」とは下の写真の橋です。

松原橋
Teacher

橋の下に見えるパネルには、「松原橋自歩道橋 1978年3月」と記載されています。

Takashi

 1978年ということは昭和53年ですね。松電の電車が走っていた頃の写真はありませんか?

Teacher

廃線隧道【BLOG版】松山電気軌道跡①【江ノ口〜三本柳】というブログの中に掲載されています。見てみましょう。

【参考】廃線隧道【BLOG版】松山電気軌道跡①【江ノ口〜三本柳】

Takashi

 宮前側に対して斜めに架けられていたのですね。

Teacher

 そうです。この橋を渡って現在の県道19号に出た電車は、南進して新立停留所へ向かいました。停留所は、禊橋〔みそぎばし〕付近にあったといわれています。

新立停留所付近の現況 ※ 写真右の端が禊橋。
Takashi

 なぜここに停留所を設けたのでしょうか?

Teacher

 禊橋を渡ってすぐの所に三津厳島神社がありますよね。おそらく参詣する人々の交通の利便性を考えてのことだと思います。

Takashi

 そうかもしれませんね。厳島神社は宮島の厳島神社と関わりがあるのですか?

Teacher

 はい。奈良時代の神亀元〔724〕年に安芸の厳島の神を勧請しています。

Takashi

 奈良時代!ここも相当古い神社ですね。

Teacher

 では、三津厳島神社の歴史を確認してみましょうか。

三津厳島神社の歴史

三津厳島神社
  • 6世紀後半     現在の宗像神社の神様を勧請。
  • 700年頃      東山の地(今の古三津新屋敷方面)に神殿を新築。
  • 神亀元〔 724〕年 安芸の厳島の神を勧請。
  • 天慶4〔 941〕年 藤原純友を追討しに来た橘遠保〔たちばなのとおやす〕河野 好方、野田 新藤次、社殿を修理し願文を納める。
  • 承久2〔1220〕年 伊予水軍の指揮者である河野通信が心願をこめる。
  • 観応2〔1351〕年 足利尊氏が難を避けて三津に寄り、久万の水田2町5反を奉る。
  • 慶長5〔1600〕年 関ヶ原の戦いに乗じて起こった刈谷畑の戦にて社殿が消失し、慶長7年(1602年)に現在地へ奉遷。
  • 江戸時代      参勤交代の際に歴代松山藩主は当社にお参りして幣帛を奉った。
  •   々        道中の安全、藩内平和、武運長久の祈願をし、三津浜から船で江戸へと向かった。

【参考】三津厳島神社 公式サイト

Takashi

 6世紀後半といえば、聖徳太子の時代ですね。

Teacher

 そうですね。宗像神社の神様を勧請したのは崇峻天皇の頃だと伝えられています。境内には、歴史上有名な人物の石碑等があります。撮影してきましたので見てみましょう。

Takashi

 松尾芭蕉に栗田樗堂、秋山好古ですか。

Teacher

 厳島神社は喧嘩神輿でも有名ですから、祭りや初詣の際には多くの参詣客が新立停留所を降りてここを訪れたかもしれませんね。さて、三本柳停留所に話を変えましょう。

Takashi

 はい。

② 三本柳停留所付近

Teacher

 新立停留所を出発した電車は宮前川沿いを南下し、三本柳停留所へ向かいました。最初に確認した当時の風景をもう一度見ておきましょう。

Takashi

 左下の写真以外は全て新立-三本柳間の風景ですよね。

Teacher

 そうです。現在の風景と比較してみましょう。

Takashi

 現在は建物ばかりで、松並木もありませんし、同じ風景とはとても信じられません。

Teacher

 確かにね。それだけ日本も都市開発が進んだということです。Takashi君、地図中の赤印のポイントは三本柳橋の場所を示していて、この付近に三本柳停留所がありました。現地の写真を見てみましょう。

三本柳停留所があった場所
Takashi

 あっ、ここにもカーブがある。

Teacher

 よく見つけました。これが松山電気軌道の路線跡であったことが推察できる跡です。電車はここから左折して、山西停留所へ向かったのです。

③ 山西停留所付近

Teacher

 山西停留所は、新田高校付近にありました。停留所付近の現況写真を見てみましょう。

山西停留所付近の現況
Takashi

 写真の右側に見えるのが新田高校ですね。松山電気軌道の路線がこのまま直進すれば、伊予鉄道の路線と交差することになりますね。

Teacher

 松電の路線は伊予鉄道の線路前で南東方向にカーブし、現新田高校の敷地内の土地を通って伊予鉄道の線路の南側に並行するように敷設されていました。地図で確認しましょう。

松山電気軌道の路線と停留所の場所 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
Takashi

 本当ですね。でも新田高校にとっては迷惑ではなかったのですか?

Teacher

 新田高校の創昭和14〔1939〕年のことです。松電の電車が走っていた頃は学校自体がありませんでした。

【参考】新田高等学校ホームページ 本校のあゆみ

Takashi

 なるほど。それで電車を走らせることができたのですね。

Teacher

 そして、松電の電車は伊予鉄道の線路に並行して東進し、江戸谷停留所へ向かいました。おそらく廃線跡だと思われる場所を撮影してきましたので、見てください。

松山電気軌道の廃線跡か?
Takashi

 アスファルトの舗装がされていないところが廃線跡ですか?

Teacher

 おそらくそうでしょう。奥が新田高校側、手前が江戸谷停留所側になります。

④ 江戸谷停留所付近

Teacher

 江戸谷停留所は、伊予鉄道の西衣山駅の南側辺りにあったと言われています。現況の写真を見てみましょう。

江戸谷停留所付近の現況
Takashi

 廃線跡だとは全く分かりませんね。何か痕跡はありませんか?

Teacher

 この場所を少し過ぎたところに橋脚跡ではないかと思われる遺稿があります。撮影しましたので見てみましょうか。

松山電気軌道の橋脚跡か?写真中央に煉瓦積みの建築物が見える。
Takashi

 あっ、本当だ!煉瓦積みの建築物が見える。

Teacher

 この辺りは「江戸谷」といわれているように、谷になっていて、道路に高低差がみられます。もしこの煉瓦積みの建築物が松電の橋脚跡だとすると、この高低差を避けるために橋脚をつくり、その上を電車が走っていたと考えられます。

Takashi

 確かにそうすれば電力の消費も抑えられますよね。

Teacher

 想像の域を出ませんが、この辺りを松電の電車が走っていたことは数々の資料から明らかです。今日はここまでにしましょう。次回は、知新園前停留所から萱町停留所までの廃線跡をたどりましょう。

Takashi

 はい。楽しみです。

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