松山電気軌道の廃線跡をたどろう!① 江ノ口〜住吉町
今回からは、松山電気軌道の廃線跡を辿りながら、各停留所付近の歴史やエピソードを紹介していきます。
前回の最後に、煉瓦造りの建築物の写真を見せていただきました。それ以外もあるのですか?
はい。松山電気軌道があった時代と現代とを比較するだけで、町の変遷を学ぶことができます。それでは始めましょう。
① 三津浜港の変遷
まず最初に、下の地図を見てください。これは、現在の三津浜付近です。
はい。確認しました。
では次に、明治43年実測の三津浜の地図を提示しますので、二つの地図を比較して気付いたことを発表してください。
この地図は港山が右側に描かれているから、図の右側が北になりますね。あっ、海岸付近の形が全然違いますね!
その通りです。まず、現在の三津ふ頭がある場所は海ですね。そして、防予フェリーがある辺りは砂浜が続いています。
この砂浜は、松山電気軌道が活用した三津浜海水浴場があった場所ですね。
そうです。それから、三津浜の北側に川が流れていますね。これは堀川と呼ばれていました。
そして、「稲荷新地」との文字が見える島があります。これは藩政時代に長崎の出島に倣って埋め立てによってつくられた人口島ですが、2本の橋が架けられています。
さらに、人口島の東側の地域にも1本の橋が架けられていますが、現在とは海岸線の形が全く異なっています。
今は完全に陸続きですね。現在の形に変わったのはいつ頃のことでしょうか?
大正〜昭和初期にかけての築港及び内港改修工事によって、現在の形となりました。『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』の記述を引用します。
大正時代の築港
三津浜港の築港は政変により大幅に遅れることになったが、築港の必要を説く、名誉町長大原右一郎、松田定吾郎らの尽力により、大正5年起工の運びとなった。明治42年(1909)に起工式をあげた当時のものに比べるとはるかに小規模であり、しかも町主体の施工であった。工事は天保時代に造られた桝形の南辺湾曲部から防波堤の一部を333m余り延長し、在来の防波堤の不要部分を取り除くものであった。また、同時に港内の水深を2mから4mになるよう浚渫し、浚渫土砂をもって御幸町地先海面19,700㎡の埋め立ても施工され、大正12年(1923)に竣工した。この結果、港内の水面積は従来の桝形港湾の21,200㎡から74,300㎡に拡大された。なお、同年から三津浜港・高浜港の両港は同一港湾としての扱いを受けるようになるとともに指定港湾ともなった。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 数字は原本では漢数字。引用者が変更。
ということは、松山電気軌道が営業している時に改修工事が行われていたということですね。伊予鉄道に吸収合併された後に高浜港と同一港湾の扱いを受けたというのはなんとも皮肉ですね。
そうですね。続いて昭和時代に入り、内港改修工事が行われます。
昭和時代の内港改修工事
当時の内港は旧御船場をめぐって流れる堀川(宮前川の下流)の両岸を繋船岸壁として利用しているにすぎなかったため、築港完成後は内港の改修問題が重要になって来た。昭和3年三津浜名誉町長久松定夫は町議会に内港拡張継続工事費205万円を提案し、町議会はこれを可決した。三津浜町はこの多額の工事費を捻出するため、300年の歴史を持った三津の魚市場を25万1,500円で買収し、町営とした。内港改修工事は昭和5年から7か年の歳月を費し完了した。この結果、宮前川下流の堀川は付け替えられ、内港はきわめて安全な港になるとともに、完備した港湾施設を誇る三津浜内港が出現した。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 数字は原本では漢数字。引用者が変更。
こうして、現在の三津浜港の原型が出来上がったのですね。
そうです。工事によって海岸付近の風景は全く変わってしまいましたが、松山電気軌道の廃線跡をたどることで、かつての風景を偲ぶことができます。それでは、江の口停留所から順番に見ていきましょうか。
はい。
② 江ノ口停留所付近
松電の起点は開業当初は住吉町でしたが、江ノ口が三津浜港のすぐ傍にあることから住吉町から西へと路線を延伸し、明治45〔1912〕年2月7日に江ノ口ー住吉間が開業しました。停留所があった場所は下の地図の通りです。
他の停留所付近と比べると広くなっていますね。
そうですね。停留所跡に立てられた解説板に、当時の停留所の様子が描かれていますよ。
伊予鉄道よりも広い1,435mmの軌間が二つ並んでいますね。
停留所跡を西側から撮影した写真がありますよ。
この広い場所に停留所があって、電車が2両並んでいたのですね。奥に解説板が見えますね。
この道路は県道40号で、松電の軌道跡です。ですから、松電の電車は写真奥に向かって走っていたんですよ。
そうなんですね。先生、稲荷新地と堀川に架かる二つの橋について教えてください。
稲荷新地とは三津浜にあった遊郭の名称です。明治26〔1893〕年、東新地にあった十軒茶屋と呼ばれる遊郭が移転し、昭和33〔1958〕年まで続きました。特に活況を呈していたのは大正時代から昭和初め頃にかけてだったそうです。
【参考】「野良学徒の歴史研究とブログエッセイ」三津浜稲荷新地(愛媛県松山市)遊郭・赤線跡をゆく
先生、後者の記事に橋を撮影した写真が掲載されていますね。
記事にもある通り、地元の人や遊客はこの橋のことを「思案橋」、東側に架けられている橋のことを「見返り橋」と呼んだそうですね。橋が架かっていたと推測できる跡は残されていましたよ。
緩い坂になっていますね。
「見返り橋」が架けられていた場所にも緩やかな坂を確認できます。見てみましょう。
本当ですね。これらは橋だけでなく、堀川という川が流れていたことの証でもありますよね。
そうですね。松電の電車はこれらの橋の側を東に進み、堀川停留所で停車しました。ここにも三津浜の歴史を伝えるものが残されています。確認しましょう。
③ 堀川停留所付近
ここが「堀川停留所」があったといわれている場所です。
あっ、奥に「ほりかわはし」と刻まれた石柱が見えます!
そうですね。ここはかつて「堀川橋」が架けられていた場所なのです。この石柱の側面にも文字が刻まれていますよ。
「大正二年九月架設」と刻まれていますね。
これは堀川橋の親柱です。この石柱の反対側に堀川橋が架けられていました。
こちらは坂道にはなっていませんね。
そうですね。でも、この道を歩いて行くと、すぐ右側に三津浜の歴史を学ぶことができるものがありました。
これは常夜灯ですね。
はい。堀川橋の側にあったと言われています。ちなみに、文化5年は1808年です。
江戸時代ですね!古いなあ。
左のお堂は「堀川えびす」と呼ばれています。漁業や商いの神様ですね。ところでTakashi君、この場所以外に堀川橋の親柱があるのですが、知っていますか?
いいえ、知りません。
親柱を撮影した写真がありますから、見てみましょう。
本当だ。どこにあるのですか?
これらの場所を地図中に表してみますね。
二つとも辰巳町にあります。左の写真の親柱は地図中の下側の●の位置、県道19号沿いにあります。右の写真の親柱は県道19号から少し入った所にある民家の門前にあります。
これはいつ頃にあった親柱でしょうか?
親柱に架設年が刻まれていないので、全く分かりません。また、どのような経緯で移設されたのかも分かりません。もう少し調査が必要です。
そうですか、残念です。でも、三津浜の歴史を知ることができる手掛かりであることは間違いないですよね。
その通りです。さて、堀川停留所を出発した松電の電車は、県道40号のカーブを曲がって南進し、住吉町停留所へ向かいました。
④ 住吉町停留所付近
見事なカーブですね。この場所は広くなっていますから、停留所の跡があったと推測がしやすいですね。
そうですね。この停留所の向かい側に伊予鉄道の三津駅がありますから、激しい乗客争奪戦が行われた場所だと言い伝えられています。そして松電の電車は宮前川に沿って南進し、「松原橋」付近で宮前川を渡って現県道19号に出て、さらに南進して新立停留所へ向かいました。
今回はここまでにしましょう。次回は、新立停留所から江戸谷停留所までを見ていきます。
はい。楽しみにしています。
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