愛媛の『これ』は何だろう? 〜御用櫃を頭に載せて行商していた女性たちの記憶③〜
これまで2回にわたって「おたたさん」の話をしてきました。最終回である今回は、おたたさんの行商がどのように行われていたのかを紹介します。
どんなふうに売り歩いていたのか興味深いです。
分かりました。『ふるさと愛媛学』調査報告書に地域の方の証言が記載されています。その内容を確認しながら、「おたたさん」の行商の在り方を見ていきましょう。
Part.3 おたたさんと行商 〜地域の方の証言から〜
この方は大正14〔1925〕年に松前の浜地区で生まれ、昭和21〔1946〕年の結婚を機に行商を始められました。証言の内容を確認しましょう。
行商を始めた理由
嫁ぎ先はえびこぎ網漁をしていました。いりこも製造していました。お兄さんと主人2人がえびこぎ船に乗って魚をとって帰ります。とれた魚をお母さん(姑)やお姉さん(義姉)が行商に出て売りに行くのです。行商へは実家の母も行っていました。親戚や近所の人などたくさんの人がえびこぎ漁でとった魚を売りに出るのですが、それでも魚が余ることがありました。お母さんに『(余った魚は)うちで引いてきた(とってきた)魚だから、売りに出て損するわけではない。売りに行ったらどうか。」と言われて行商に出ることになったのです。
『えひめ、女性の生活誌(平成20年)』 ※ 太字は引用者による
確かに余った魚を捨てるわけにはいきませんよね。「おたたさん」というのは結婚後に始めるのが一般的だったのでしょうか?
この方と同じ世代の方は結婚してから始めるのが一般的だったそうです。なお、それ以前の方の多くは16、17歳頃から始められたそうですよ。
なるほど。昔は結婚の年齢が今よりも早かったと聞いたことがあります。
そうした時代背景もあるのかもしれませんね。さて、この方の行商先は松山だったそうです。どの辺りを担当していたのか、証言の続きを見てみましょう。
行商の範囲
初めて行商へ出た時は、市駅を降りてどっちの方向へ行こうかと迷いましたが、古町や江戸町には行かないで、繁華街の湊町か千舟町か大街道へ行ってみることにしました。それ以来、千舟町から二番町、三番町界隈で得意先をつくり商売をしました。三番町の桃太楼や花月などの料亭ではお客さんに出す魚は別に仕入れていたのですが、従業員が買ってくれました。それから森川の五色そうめん、桃太楼の向かいにあった高木料理店のほか、ふつうの家にも行きました。本田内科、浅田病院など二番町、三番町界隈を中心に、唐人町(現松山市二番町一、二丁目)、正安寺町(現松山市湊町三丁目)、さらに大街道の薄墨ようかん(中野ようかん)へも行きました。『おはよう、なんぞいる。』というように声をかけると、『あっ、おはようさんが来た。』と行って出て来て買ってくれました。行商先は馴染みの家にしか行きませんでした。最初は飛び込みで行きます。買ってくれれば4、5日してまた行くのです。評判が良くなると『ここの魚美味しいから。』と言って別な客を紹介してくれました。そうやって得意先を増やしました。
『えひめ、女性の生活誌(平成20年)』 ※ 下線及び太字は引用者による
あっ、僕がよく行くところだ!でも聞いたことがない店や病院ばかりです。これらはどの辺りにあったのですか?
現在の地図中に行商のルートと主な得意先を記入してみました。ちょっと見てください。
千舟町から二番町までの通り沿い全てがこの方の商圏だったのですね。でも、聞いたことのないお店や病院ばかりだ。
それは今から60〜70年ほど前ですからね。現在もあるものといえば…、法龍寺・正安寺は今もありますね。それから中野ようかんというのは銀天街にある「薄墨羊羹本店」のこと。あと、勇進堂時計店と緑ヶ丘写真館も同じ場所にありますよ。
【アクセス】
① 薄墨羊羹本店
② 勇進堂時計店
③ 緑ヶ丘写真館
本当だ!
これだけの範囲を売り歩くのですから、「おたたさん」の仕事は一日仕事ですよね。何時くらいから活動を始められるのでしょうか。証言の続きを見ていきましょう。
「おたたさん」の一日
毎朝4時に起きて、漁に出ているお兄さんと主人が帰ってきたら、とった魚をみんなで分けます。うちはえびこぎ船を持っていたので、近所でおたたをしている人が10人くらい魚を買いに来ていました。それから7時ころに魚の入った御用桶(ごろびつ)を持って汽車に乗ります。松前から市駅までは30分くらいかかりました。市駅に着くと御用桶をいただいて(頭上にのせて)得意先を回るのです。昭和22年(1947年)から23年(1948年)ころにおたたをしている人は、100人ぐらいはいたと思います。松前や郡中の人がたくさんしていました。松前でもおたたをするのは浜の人だけです。町の人はしません。浜の人でも松山や外(他地域)から嫁に来た人は、ほとんどしません。汽車に乗って松山が近づくと、岡田、余戸、土居田とそれぞれの得意先へと順々に降りて行っていました。おたたはそれぞれに得意先を持っていて、お互いにそれを守っていました。(中略)魚はイカ、タコ、デベラ、イワシ何でも売っていました。今は市場を通しますが、当時は朝、漁でとれたものは何でも持って行き売っていました。とれた魚は残していても何にもならないので全て売ってしまわなければならなかったのです。午前中には商売を終えて、午後1時ころには家に帰っていました。行商に出ないときは、いりこの製造をしなければならないので休む暇はありません。朝4時に起きて夜11時に寝る生活をずっと続けていました。
『えひめ、女性の生活誌(平成20年)』 ※ 下線及び太字は引用者による
朝4時に起きて夜11時に就寝⁉︎なかなかハードな生活ですね!でも浜地区以外の人はおたたをしなかったのですね。
やはり、昔から漁業を生業としていたことと瀧姫から続く伝統が浜地区にはあったということでしょうね。
なるほど、そうかもしれません。
この方は子どもが生まれてからもおたたの仕事を続けられました。証言の続きを見ていきましょう。
子どもが生まれて…
子どもが生まれてからは、子どもを背負い、おしめを2回分持って、御用桶をいただいて(頭上にのせて)回っていました。桶の重さは10貫(約37.5kg)ぐらいです。子どもを背負っているので、最初は重くて1人でいただくことができません。のせられないので得意先で手伝ってもらっていました。魚が売れて軽くなると自分でのせます。子どものおしめを替えたり、お乳を飲ませるのも得意先でさせてもらっていました。
『えひめ、女性の生活誌(平成20年)』 ※ 太字は引用者による
桶には魚がたくさん入っているわけですから当然重いわけです。それにしても「おたたさん」というのは重労働ですね。
そうですね。この「おたたさん」の仕事も戦後日本社会の変化の中で大きく変わって行きました。最後にそれを確認して終わりましょう。
社会の変化、仕事の変化
昭和20年代後半までは桶をいただいて、桶の中に魚を入れたざるを3段重ねにして回っていました。それ以後は、カンカン(石油を入れる一斗〔18ℓ〕缶を横にしたぐらいの長さで、深さが半分くらいのブリキ缶)を使うようになりました。カンカンを3段重ねて大風呂敷で包み、背中に背負って回るようになったのです。それも昭和40年(1965年)ころまでで、それからはリヤカーに変わりました。リヤカーは乳母車を改造したような四輪車です。そんなに大きなものではありません。リヤカーに魚の入ったトロ箱を積んで商売をします。注文があればまな板を置いて調理できるようにしていました。リヤカーは市駅の陸橋のガード下に置いていました。松前や三津の人が5、6台置いていました。2、3回盗られたこともあります。市駅までは、魚をカンカンに入れて電車で運びます。そこからは魚をトロ箱にうつしてリヤカーに乗せて行商をしていました。
『えひめ、女性の生活誌(平成20年)』 ※ 下線及び太字は引用者による
桶→カンカン→リヤカーと変わっていったのですね。市駅のガード下というのは興味深いです。
現在では「おたたさん」として行商をしている人はおりません。しかし、「おたたさん」の歴史を調べることが松前町の歴史を知ることにつながるのです。
確かにそうですね。平安時代から昭和まで、松前の歴史そのものですね。
はい。なお、「おたたさん」が使用していた御用櫃を活用して、現在は「はんぎり競漕」というイベントが毎年行われています。
これは面白そう!僕も参加してみようかな。
トライアスロンも実施されています。ぜひ参加してみてくださいね。