愛媛の『これ』は何だろう? 〜『銀輪の町』と呼ばれていた頃の新居浜の記憶〜
Erikoさん、上の写真の道路標識は何を意味しているか答えてください。
これは何ですか?初めて見る道路標識です!自転車に乗っている人が2人並んでいるから…。「並進できます」という意味ですか?
その通り!正確には「自転車並進可」という意味です。この道路標識は平成30〔2018〕年5月29日まで設置されていました。
なるほど!でもなぜこのような道路標識が設置されたんだろう?
この道路標識が設置されていた場所を地図上に示してみました。その理由を地図から読み取ってください。
新居浜市内に6ヶ所設置されていたのですね。あっ、道路標識の先には住友の工場があります。これは住友の工場で働く人々が通勤の際、標識のある区間は自転車を並進してもいいという意味ではないですか?
その通りです、Erikoさん。かつて新居浜市では多くの労働者が自転車で工場へ通勤する風景が毎日のように見られたので、『銀輪の町』と呼ばれていたのですよ。
『銀輪』というのは自転車のことですね。どんな通勤風景だったのでしょうか?
「新居浜さくら紀行」ホームページに、昭和34〔1959〕年に撮影された通勤風景の写真が掲載されています。ちょっと見てみましょう。
これは凄い!こんな風景は今では絶対に見られません!住友の工場に勤務する方がいかに多かったかを物語っていますね。
はい。今回は『銀輪の町』と呼ばれていた頃の新居浜の様子について、地域の方々からお伺いしたお話を紹介します。
Contents
- 通勤ラッシュの記憶
- 朝・夕の新居浜駅前の風景
① 通勤ラッシュの記憶
最初に紹介するのは、昭和3〔1928〕年生まれの方のご記憶です。昭和30年代の新居浜の様子について話してくださいました。
波が押し寄せるような…
わたしが勤めていた住友化学は、すぐ隣に住友重機械工業があり、両方を合わせると、通勤者の数は数万人に達した。そのほとんどが自転車通勤なので、工場へ向かう道路の通勤ラッシュはすごかった。通勤の時間帯はせいぜい朝夕30分くらいだが、その間、自転車の列が、帯状に連なって道幅いっぱいになって流れていく様は、波が押し寄せてくるようで壮観だった。
『臨海都市圏の生活文化』
先ほど見たホームページ内の写真と同じ光景ですね。
この方は新須賀町にある研修所を訪れる際の苦労についても話してくださいました。
新須賀町にある研修所を訪ねる時
わたしも役職上、新須賀町にある会社の研修所に行くことが多かったが、通勤時間帯と重なると、ラッシュの流れと逆方向に進まねばならず、たいへん苦労した。昭和通り(かつては、両側の歩道もなく、現在よりも道幅は広かった。)などは、自転車が道幅いっぱいになって、かなりのスピードで走ってくるので、とても横切ることはできなかった。そこで、遠回りになっても、敷島通りや新居浜工業高校の横など、とにかく通りやすい道を選ぶように心がけていた。自転車とぶつかってもたいしたけがはしないだろうが、とにかく、ものすごい数の自転車に圧倒されて、怖ささえ感じ、いつも遠回りをした。ペキン(北京)の自転車通勤の様子がよくテレビで放映されるが、あれよりもっと激しい状況で、巨大な自転車の群れが、工場へ、工場へとなだれ込んでいった、というのが実態だった。
『臨海都市圏の生活文化』
私もこの方と同じように、遠回りしてでも安全の方をとります!本当に危ない!
この方のルートを地図上に示すと、次のようになります。
住友化学の工場から新居浜工業高校へ出るまでの間も通勤ラッシュと重なるとかなり苦労されたでしょうね。
そうでしょうね。この方は、帰宅時の様子も話してくださいました。見てみましょう。
帰宅時の様子
帰りは、朝と逆の流れになる。退社時刻の午後4時を過ぎると、自転車が正門の前へずらりと並び、タイムカードを押すやいなや、わ一っとあふれ出てきた。わたしなどは、混雑をさけて少し間をおいて会社を出ていたが、それでもたくさんあるタイムカード押し場付近は、いつも自転車がひしめいていた。
夜も、夜勤の出勤時間帯になると、わたしの家の前の道なども自転車のライトでパーと明るくなるので、『ああ、夜勤の者が来よるな。』ということがすぐわかった。昔は、今ほど家がなく、道が田んぼの中を走っていたので、よけいライトが目立った。
自転車通勤の範囲も相当広かった。市内はもちろんのこと、東は宇摩郡土居町から、西は西条市や周桑郡小松町辺りまで通勤圏だったように思う。
『臨海都市圏の生活文化』
自転車通勤の範囲が土居町から小松町までというのは広すぎるような…。それだけ住友が栄えていたということなのですね。
その通りです。遠方から通勤される方の中には、国鉄を利用していた方もいらっしゃいました。次は、当時の新居浜駅前の様子を紹介します。
② 朝夕の新居浜駅前の風景
新居浜駅前は平成に入って再整備が行われましたので、昭和30年代の風景とは一変してしまっています。現在と当時の新居浜駅前の風景を比較してみましょう。
【現在の新居浜駅前の風景】
【昭和37〔1962〕年の新居浜駅前の風景】※ 国土地理院ホームページより
昭和37年といえば、まだ国鉄新居浜駅連絡線が営業していた頃ですね。駅前の風景が全く違います。
そうでしょう。地域の方の御協力により、昭和30年代の駅前の再現図を作成しています。上の航空写真と比較してみましょう。
新居浜駅の西側には住友化学の倉庫があったのですね。また、道路に沿ってたくさんのお店や旅館がありますね。
はい。昭和19〔1944〕年生まれの方が、駅周辺の通勤風景について話してくれています。確認しましょう。
新居浜駅周辺の通勤風景
新居浜駅で降りた方の中では、住友の工場への通勤者が一番多かったと思います。駅前には自転車預り所が本当にたくさんあり、私は友達が自転車預り所を利用していた関係で、友達と一緒にそこへ行き、走り回ってよく遊んでいました。また、『上』の方から工場の方へ、南から北へ向かって、尻無川沿いの道や、昔の日進運輸の前の道といった南北の大きな道一杯になって、自転車に乗った通勤者が通っていたことを憶えています。県道国領高木線は、駅を降りて工場へ出勤する人たちの自転車で一杯でした。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-』 ※ 下線及び太字は引用者による
新居浜駅周辺でも同じ光景が見られていたのですね。先生、自転車預り所はどの辺りにあったのですか?
再現図の中にある着色されている店舗が全て自転車預り所です。
たくさんあったのですね。先生、尻無川沿いの道、日進運輸前の道及び県道国領高木線というのはどの道のことですか?
再現図中の記号でいうと、尻無川沿いの道がケ、日進運輸前の道がコ、県道国領高木線がイにあたります。道を着色してみましょう。
これらの道が自転車で一杯だったのですね。想像するだけでも凄い光景です。
新居浜駅前で自転車預り所を経営しておられた方が、当時の様子について話してくださいました。
自転車預り所を経営していた方の記憶
私は、平成19年(2007年)まで自転車預りの店を経営していました。平成19年は、駅前の再開発のための区画整理がちょうど終わったころでした。昭和30年代は住友の工場へ通勤するために利用する人が特に多く、駅前から高木交差点へ続く斜めの道(県道国領高木線)から工場の正門まで、通勤する人々の自転車の列がずっと続いていました。自転車1台の利用料金は、店を開いた当時(昭和初期)が月5銭、昭和30年代ころが月300円、そして平成19年当時は月1,500円でした。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-』 ※ 下線は引用者による
利用料金の変遷は興味深いですね。
次に、昭和13〔1938〕年生まれの方が住友の工場に通勤する方たちの様子について話してくださいました。
『住友さん』の記憶
『住友さん』は午前8時始まりだったので、7時過ぎくらいに新居浜駅に到着する列車から降りてきた人たちが、一斉に自転車預り所へ向かっていました。駅から一番近い所が近藤預り所ですが、その周辺が非常に賑わっていたことを私は憶えています。今は高校生が自転車を預けていますが、当時は汽車通学をする生徒がほとんどいなかったので、通勤者だけが預けていました。当時『住友さん』は午後4時に仕事が終わっていたので、4時半くらいになると、列車で帰る人たちが山内商店辺りでカップ酒を引っ掛けて列車を待っているという光景を憶えています。お酒を原価で飲むことができたので、住友に通勤している人たちは安いお酒を1杯か2杯引っ掛けてから家に帰っていたようです。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-』 ※ 下線は引用者による
先生、山内商店とはどんなお店だったのですか?
飲食ができる雑貨店といえばいいでしょうか。昭和25〔1950〕年生まれの方が、お店を利用する人々について話してくださいました。
山内商店を利用する人々
朝、数多くの自転車が、駅前にあった山内商店前の道路などに一杯広がって、町の方へ下っていたことを憶えています。山内商店では、おでんや海産物などが販売されていました。大相撲で栃若がブームになった時代、まだテレビが家庭に普及していなかったころには、会社帰りの人々が、列車の時間待ちに店でお酒を飲みながら、店内に置いてあったテレビを見ていたことをよく憶えています。私たちもそこでよくテレビを見せてもらいました。子どもがお酒を飲むわけにはいかないので、紙袋に入ったピーナッツを1袋10円で買って、それを食べながらテレビを見ていました。時間に余裕がある人は、蒲鉾や味付け海苔などをつまみにお酒を何杯も飲んでいました。私はテレビを見に行っていたときに、その人たちから食べ物を分けてもらったことがありました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-』 ※ 下線は引用者による
待合所代わりに利用していたのですね。通勤者の数が非常に多いですから、かなり繁盛したでしょうね。
このように、自動車が普及する前は自転車での通勤が一般的でした。しかし、その後の高度経済成長とモータリゼーションによって通勤のあり方が一変してしまいました。こうして、『銀輪の町』と呼ばれていた新居浜の風景も変貌したのです。現在、駅前の自転車預り所はなくなり、駐輪場が1ヶ所のみとなっています。
『銀輪の町』は過去の風景になってしまいましたけど、新居浜の歴史を一端を知ることができてよかったです。
最後に、「自転車並進可」の道路標識撤去についての記事を読んで終わりにしましょう。
【参考】エキサイトニュース 道路標識「並進可」絶滅か 超レア標識、相次ぎ撤去のワケ
興味深かったです。ありがとうございました。