別子往還道の現在 〜新居浜の発展を支えてきた銅の運搬路をたどろう!〜
Erikoさん、上の写真は新居浜市にある商店街の入り口を撮影したものです。「登り道」という名称がありますが、その由来について考えてください。
新居浜市が別子銅山の繁栄によって栄えたことから考えると、「別子銅山-新居浜間を人々が往来した道」というのが名称の由来ではないでしょうか?
その通り。別子銅山で採掘された銅は、かつてこの道を通って運搬されていました。まず最初に銅の運搬路の歴史について確認しましょう。
銅の運搬道の歴史
別子銅山。
かつて、日本の「三大銅山」の一つに数えられた世界的にも高明な鉱山です。
稼業開始は元禄4年(1691年)ですから、犬公方として有名な徳川5代将軍綱吉の時代になります。ちなみに「赤穂浪士」は、元禄15年(新暦では、翌年の1月)の出来事です。同じ元禄15年に、新居浜浦に銅の積み出し港が設けられます。口屋(浜宿)です。それ以降、標高1294メートルの銅山越の南側で掘り出された銅は、北に向かってまっすぐ最短ルートで口屋に向かって運ばれることになります。〔中略〕
まるで背骨のように新居浜市の真中を貫き、新居浜の発展を支えてきた銅の運搬路を『別子往還道』と捉えています。『往還』というのは、その土地の主要街道を意味する古い言葉ですが、立川や山根、喜光地でも古老たちの話では、銅の運搬路を『往還』と呼んでいたといった証言を得られています。
『市政だよりにいはま 平成23年5月号 別子往還道を訪ねて 第1回序章』 ※ 下線及び太字は引用者による
別子銅山の採掘が始まった初期の頃から新居浜への銅の運搬が行われていたのですね。先生、口屋というのはどの辺りにあるのですか?
下の地図を見てください。
本当に港の近くにある。現在は公民館として活用されているようですね。
地図の範囲を拡大して別子銅山の場所も見れるようにすると、別子往還道の距離を確認できますよ。
ものすごく長い距離ですね。
銅を運搬する手段は時代ごとに異なっています。年表風にまとめてみましょう。
運搬手段の変遷
- 明治初期まで 「仲持さん」により立川の中宿まで運ばれ、そこからは馬の背に銅を積み登り道を下って口屋へ
- 明治13〔1880〕年〜 牛車道が完成。牛を使っての運搬が開始
- 明治26〔1893〕年〜 国内初の鉱山鉄道と索道による運搬が開始され、大量輸送が可能となる
次第に輸送量が増加したことが分かりますね。
ちなみに「仲持さん」というのは、奥深い銅山で精錬した粗銅や山中での生活物資を背負って険しい山道を運搬した人たちのことです。男性は45kg、女性は30kgの物資を運んだと伝えられています。
45kgに30kg!山道を歩いて運搬するのは大変だったでしょうね。
そうだと思います。なお、牛車道の開設に関わったのは、別子鉱山鉄道を開通させた広瀬宰平氏です。
【参考】別子銅山の近代化を図ろう! 〜住友初代総理事 広瀬宰平と別子鉱山鉄道〜
人・家畜から鉄道による運搬へ。近代化による技術の進歩がよく分かりますね。
そうですね。今回は別子往還道のルートとその現状について紹介します。
新居浜市のどの辺りが別子往還道なんだろう?
登り道サンロードの南側入り口付近に地図付きの解説板が設置されていますよ。
本当に新居浜市を南北に貫いていますね。今はどんな風景になっているんだろう?
新居浜市を訪れた際に別子往還道の風景を撮影しています。口屋から南へ順番に見ていきましょう。
別子往還道をたどる① 口屋から一宮神社付近まで
ア 口屋〔浜宿〕
大阪へ往復する船と仲持や牛車の発着事務を扱った口屋〔浜宿〕の現況を確認しましょう。下の写真は口屋跡記念公民館を訪れた際に撮影した写真です。
公民館の建物の前に大きな松の木がありますね。
Wikipediaに明治14〔1881〕年撮影の口屋の写真が掲載されています。その写真と上の写真をよく見てください。
【参考】Wikipedia 口屋
明治14年の写真にも松の木が写っています!同じ松の木ですか?
はい。「口屋あかがねの松」と呼ばれています。
別子銅山と新居浜の歴史を見守り続けている木だと言えますね。
松の木の隣に「口屋跡由来記」の碑が建てられています。碑文を読んでみましょう。
188年間!口屋は新居浜と別子銅山の発展の歴史を学ぶ上で必要不可欠な場所ですね。
その通りです。それでは、別子往還道をたどる旅を始めましょうか。撮影した写真を順番に紹介していきます。
別子往還道は、ここから「登り道サンロード」の入り口へと続きます。
イ 登り道サンロード
かつての別子往還道を商店街として活用しているのですね。
現在はなくなっていますが、かつてはニチイ・ダイエー等のショッピングセンターや複数の映画館があり、かなり活気があったのですよ。商店街内を撮影した写真がいくつかありますので、見てみましょう。
ウ 登道南商店街から一宮神社付近まで
先生、『市政だよりにいはま』の記事に「標高1294メートルの銅山越の南側で掘り出された銅は、北に向かってまっすぐ最短ルートで口屋に向かって運ばれることになります。」とありましたけど、本当にまっすぐ続いていますね。
そうですね。口屋を物資の積出し港にすることが決定されたのは元禄年間ですから、江戸時代から現代まで人々が利用している歴史的道だと言えますね。Erikoさん、さらに南へ、別子往還道をたどる旅を続けましょう。
別子往還道をたどる② 登道南商店街から高木交差点付近まで
続いて、新居浜駅の北西にある高木交差点までのルートを確認します。登り道サンロードの南入り口を起点として別子往還道を地図上に示すと、下図のようになります。
先生、広瀬邸というのは広瀬宰平氏の本邸ですか?最初は別子往還道沿いにあったのですね。
はい。明治10〔1877〕年に落成し、広瀬氏の地所である現在地へ明治20〔1887〕年に移築するまで10年間この地にありました。
分店が惣開に移ったのが明治22〔1889〕年ですから、銅や生活物資が運搬される様子を広瀬氏自身が見ていたかもしれませんね。
そうかもしれませんね。さて、ここからは別子往還道の現況を動画〔4分33秒〕で確認しましょう。どうぞご覧ください。
先生、高木交差点の近くにある「お薬師さん」とは何ですか?
薬師如来のことです。
左の石柱に「十二番薬師」と刻まれていますね。
おそらく「新居浜八十八ヶ所霊場」に関わるものだと思います。すぐ近くに河内寺がありますからね。詳細は「ニッポンの霊場」ホームページを見ておいてください。
【参考】「ニッポンの霊場」ホームページ 新居浜八十八ヶ所霊場
さて、別子往還道をたどる旅を続けましょう。高木交差点付近からは下図のように道が続きます。
川沿いの緩やかにカーブしている道が別子往還道なのですね。
そうです。この道も動画でみてみましょう。
先生、動画の最後に映っていた橋は、国鉄新居浜駅連絡線跡に架けられている坂井跨線橋ではありませんか?
そうです。この写真に写っている橋と同じです。
【参考】国鉄新居浜駅連絡線の記憶 〜歩行者・自転車専用道に変貌した路線跡をたどろう!〜
やはりそうですか。ここは別子往還道と国鉄新居浜駅連絡線の路線跡とが交差する場所なのですね。
はい。国鉄新居浜駅連絡線跡から別子往還道の方を見た風景を撮影していますので見てください。
別子往還道がはっきりと見えますね。
別子往還道は国鉄新居浜駅連絡線の路線跡とJRの線路を越え、さらに南へ続きます。
別子往還道をたどる③ JRの線路南側から国道11号付近まで
JRの線路付近から国道11号付近までの別子往還道のルートを地図で確認しましょう。
地図中の「ここから!」と示した場所の風景は、下の写真の通りです。
先ほど確認した「国鉄新居浜駅連絡線跡から見た別子往還道」の写真の場所からの続きですね。
そうです。ここから南側に向きを変えて別子往還道を撮影しました。下の写真の風景が目前に広がります。
他の場所でもそうですが、緩やかなカーブが特徴的ですね。知ってから見ると古街道だなと思います。
本当にその通りですね。では、JR線路南側から国道11号に合流するまでの別子往還道の風景を動画で確認しましょう。
先生、動画の途中で「松原池」という名称がありました。これはどのような池だったのですか?
昭和22〔1947〕年に米軍が撮影した航空写真に当時の松原池が写っていますよ。見てください。
航空写真の下の方に写っている四角くて大きな池が松原池ですか?
そうです。航空写真中に別子往還道、別子鉱山鉄道と国鉄新居浜駅連絡線を記入してみましょう。
こうして道や線路などを書き込んでみると、当時の姿が想起されますね。先生、松原池の歴史について教えてください。
「新居浜のむかしばなし」ホームページに、『松原池(かご池)増築にまつわる話』が掲載されています。読んでみましょう。
【参考】「新居浜のむかしばなし」ホームページ 『松原池(かご池)増築にまつわる話』
松原池は灌漑用水として利用されていたのですね。
そのようです。『泉川町史』には、桜の名所としても知られていたことが記載されています。ホームページ中の記事にもあるように、松原池は昭和50〔1975〕年末までに埋立てられ、現在は市営住宅等が建てられています。
こうして見ると、松原池があったことは全くわかりませんね。
銅や生活物資が別子往還道を往来していた頃、道沿いに松原池がありました。物資等を運搬していた人々は松原池を見てどのような思いを抱いたのでしょうね。想像は尽きません。さて、国道11号を渡り、さらに南へ歩みを進めましょう。
別子往還道をたどる④ 国道11号から喜光地商店街まで
国道11号を超えてさらに南へ進むと、香川県の金刀比羅宮まで続く金毘羅街道に到達します。別子往還道と金毘羅街道が交差する付近に成立しているのが喜光地商店街で、別子往還道は商店街内を少し東へ進み、再び南進して立川〔中宿〕まで続きました。国道11号から喜光地商店街までの別子往還道の現況を動画で確認しましょう。
先生、喜光地商店街について教えてください。
新居浜市が商店街内に解説板を設置しています。見てみましょう。
なるほど。ここも口屋と同様、別子銅山の発展とともにあったというわけですね。
商店街を歩いてみると、盛んだった頃を示すものがまだ残されています。写真で確認しましょう。
別子往還道は、角野派出所跡に建てられた遍路道標がある所から再び南へと向きを変えました。それでは別子往還道の最終点である立川〔中宿〕までの別子往還道の現況を動画で確認しましょう。
ようやく立川まで到着しましたね。先生、「えんとつ山」って何ですか?
かつて、生子山には山根製錬所がありました。山の頂上に見える煙突は精錬所のものです。その煙突が見えるので、人々がいつしか「えんとつ山」と呼ぶようになったのです。山根製錬所の歴史を簡単にまとめましょう。
山根精錬所の歴史
- 明治19〔1886〕年 着工
- 明治21〔1888〕年 現在の山根公園のグラウンドの辺りに建設
- 明治23〔1890〕年 塩化焙焼法(フント・ダグラス法)による湿式製錬に着手
- 明治28〔1895〕年 煙害と硫酸需要不振により、廃止
山根精錬所はたった7年間しか稼働しなかったのですね。
現在は高さ約20mの煙突だけが残され、平成21〔2009〕年に国の登録有形文化財として登録されています。「住友グループ広報委員会」ホームページに、明治23〔1890〕年当時の山根製錬所の写真が掲載されていますよ。
【参考】「住友グループ広報委員会」ホームページ 広瀬宰平と伊庭貞剛が21世紀に問いかけるもの 第2回
生子山の頂上に登ってみたいですね。
現在、地域の方々によって登山道が整備されているので、約20分ほどで頂上に到達できますよ。ぜひ行ってみてください。
はい。
では最後に、立川〔中宿〕について紹介します。
ここにも製錬所が建設されていたのですね。
そうです。ここから国領川方面を見ると、広瀬宰平氏がつくった牛車道を見ることができます。その上り口には解説板も設置されていますよ。
長くなりましたが、別子往還道をたどる旅を終わります。新居浜市にはこの他にも別子銅山の産業遺産がたくさん残されています。ぜひ現地を訪れてくださいね。
はい。ありがとうございました。