「松山札辻より◯里」里塚石を探索せよ! Part.3 -土佐街道編②-




- 一里 … 久米郡尼山村 (現松山市天山)
- 二里 … 浮穴郡森松村 (現松山市森松町)
- 三里 … 浮穴郡荏原村 (現松山市恵原町)
- 四里 … 久万山馬次九谷村(現松山市久谷町)
- 五里 … 同窪野村之桜休場(現松山市窪野町)
- 六里 … 同東明神村 (現久万高原町東明神)
- 七里 … 同久万町村 (現久万高原町入野)
- 八里 … 同菅生村 (現久万高原町菅生)
- 九里 … 同有枝村 (現久万高原町有枝)
- 十里 … 同七鳥村 (現久万高原町七鳥)
- 十一里 … 同東川村 (現久万高原町東川)
- 十二里 … 同縮川村 (現久万高原町黒藤川)
「松山札辻より三里」里塚石
「松山札の辻より三里」の里程石は、一時紛失していたが、現在は上の半分が見つかって、復旧した。松山市恵原町1243番地の佐々木温所有の田の畦に移されており、30mほど昔の位置より動いている。文珠院に近い道路ぶちである。下半分は水口保一が保管している。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 下線は引用者による


衛門三郎伝説

天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。三郎はお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、民の人望もありませんでした。
ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしました。三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返しました。
その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。以降、僧侶は現れなくなりました。
その後、三郎の家では不幸が続きました。8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、三郎はその時、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。しかし、20回巡礼を重ねても会えず、なんとしても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。
死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。弘法大師が三郎に望みを聞くと、「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残していきを引き取りました。弘法大師は路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。
翌年、河野家に左手を握りしめた男の子が生まれました。両親がお寺へ連れて行き祈祷してもらうと、そこから「衛門三郎再来」と書かれた石が出てきました。その石はお寺に納められ、今も大事に祀られています。
『四国おへんろ.net』衛門三郎伝説〜四国遍路の開祖〜 より ※ 太字及び下線は引用者による
【参考】『四国おへんろ.net』右衛門三郎伝説 〜四国遍路の開祖〜

文殊院

【文殊院の歴史】
◉ 600年代〔飛鳥文化の時代〕に「西山興隆寺」を創建した空鉢上人が、現在「八窪」がある山の中腹に徳盛寺として開基
◉ 天長元〔824〕年、空海が文殊菩薩に導かれて逗留し、文殊院と改める
◉ のち、現在地に移転〔時期不明〕
【参考】四国遍路情報サイト「四国遍路」 四国遍路の元祖「衛門三郎」の邸宅があったと伝わる遺跡
【アクセス】
※ 「八窪」は、衛門三郎が叩き割った鉄鉢の破片が飛んでいった場所だと伝えられています。
八ツ塚群集古墳


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【参考】四国遍路情報サイト「四国遍路」衛門三郎の8人の子どもの墓だと伝わる古墳群
札始大師堂



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※ 地図中に「松山街道」とあるのは、「土佐街道」のことです。
【参考】四国遍路情報サイト「四国遍路」四国遍路の元祖「衛門三郎」の邸宅跡と納札発祥の地
愛媛県最古の遍路道標


「松山札辻より四里」里塚石
四里の里程石は戦前は久谷川の左岸にあり、藤の花が美しく、旅人の休み場で、十一面観音もまつられていた。当時を知る石材店の相原ハル(一八九五―)は、標石を近くの谷川の橋に利用していたこと、橋の袂にあったのを、久谷川の中に青年がいたずらに落とし、行方不明になったことを語ってくれた。筆者は紛失した標石を探し、四里と五里の標石を復旧するよう希望し、寸法も文字も相原石材店に指示しているが、まだ実現していない。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 下線は引用者による




弘法大師の網掛け石





昔、久谷の里での話。農作業の邪魔になる二個の岩を村人総出で動かそうとしてた。大きな石でびくともせず、どうしたものかと途方に暮れ困り果てていた。丁度そこへ通りかかたのが、四国の各地を修行していた弘法大師。弘法大師は難渋している村人を救おうと、大きな石に網を被せて天秤棒で担って運ぶ途中、棒が折れて一つは大久保へ一つは今の場所に残ったといわれている。石には網目模様があり、網を被せた(かけた)石=網かけ石と呼ばれている。大きく横たわる状態が鯨にも似ているので、鯨石とも呼ばれている。
『松山むかし話』網かけ石(鯨石)より
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※ 道は細いですが、自動車でも訪れることができます。
遍路宿 坂本屋





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【One more thing…】

【参考】ブログ「EEKの紀行 春夏秋冬」松山市窪野町北谷地区の彼岸花群生地
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「松山札辻より五里」里塚石
この五里の標石も窪野村の桜の集落にあり、休場になっていた。いつのころからか行方不明となった。どうも電話ケーブルを埋めたとき、心なき人夫により取り去られたか、砕かれたらしい。その位置は距離から考えて三坂峠の頂上に近い所であった。三坂峠には戦後伊予鉄のドライブインができ、展望台には子規の詩碑が建てられた。峠には、明治二二年(一八八九)に三坂新道の開通に尽力した桧垣伸郡長の功労碑がある(数百m南にあったのをここへ移した)。旧道と国道三三号の、岐路に遍路道の道標があり、浄瑠璃寺へ二里とある。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 太字及び下線は引用者による

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本稿は以上で終わります。次回は三坂峠を越え、いよいよ久万高原町へ。残り七基の里塚石を全て紹介します。ご期待ください。