「松山札辻より◯里」里塚石を探索せよ! Part.3-土佐街道編③-




- 一里 … 久米郡尼山村 (現松山市天山)
- 二里 … 浮穴郡森松村 (現松山市森松町)
- 三里 … 浮穴郡荏原村 (現松山市恵原町)
- 四里 … 久万山馬次九谷村(現松山市久谷町)
- 五里 … 同窪野村之桜休場(現松山市窪野町)
- 六里 … 同東明神村 (現久万高原町東明神)
- 七里 … 同久万町村 (現久万高原町入野)
- 八里 … 同菅生村 (現久万高原町菅生)
- 九里 … 同有枝村 (現久万高原町有枝)
- 十里 … 同七鳥村 (現久万高原町七鳥)
- 十一里 … 同東川村 (現久万高原町東川)
- 十二里 … 同縮川村 (現久万高原町黒藤川)
「松山札辻より六里」里塚石


【参考】「廃線隧道【BLOG版】国道440号線・三坂峠② ※ 在りし日のドライブインの写真が掲載されています。
嘉永3年~大正13年(1850~1924)県官。上浮穴郡郡長として郡内の開発に当たった。嘉永3年9月18日、松山藩士野田惟徳の次男に生まれた。幼名友諒。安政6年9歳のとき、桧垣家の養子となった。慶応2年藩校明教館に入学、明治2年同館助教を命ぜられた。4年学術修行のため高知藩に留学、5年松山の啓蒙学校校長を拝命、8年学区取締となり、9年愛媛県師範学校創立事務長、続いて同校監事を務めた。明治11年12月県令岩村高俊に抜擢されて下浮穴郡長に任じ、12年伊予郡長を兼任した。14年上浮穴郡長に転任、以後27年まで同郡長に在職した。
就任早々、旧藩時代以来の天災飢饉に備えての備荒儲蓄制度を継続し、これの維持方法として23年久万凶荒予備組合を組織した。ついで上浮穴の開発は道路の整備にありとして、梅木正衛らと図って三坂峠開さくの実現を県に運動した。これが、県令関新平を動かし、高知-松山間の「四国新道」開さく計画に発展した。明治19年工事が始まると、郡民の夫役を供出して全面的に協力、20年三坂峠の開さく完工に導いた。ついで四国横断鉄道敷設運動を始め、郡長退職後もこれを生涯の念願として各方面に説いた。大正9年横断鉄道陳情で上京の帰途大阪で罹病、13年11月15日、74歳で没した。久万町真光寺に葬られ、上浮穴郡の発展のため捧げた生涯をたたえて三坂峠の頂上に頌徳碑が建てられた。
『愛媛県史 人物』


「松山札の辻より六里」は国道33号の、東明神バス停の西方300mの旧道に立派に残っている。このあたりで標高560mで、標石のすぐ近くに常夜燈もある。六里の標石の大きさは、高さ230cmと幅19.5cmと奥行15.5cmである。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 太字は引用者による
「松山札辻より七里」里塚石
七里の標石は、国道33号の、バス停の藤の棚と久万中学校前の中間にある。民宿の一里木の前にあり、標石の大きさは170cmと19.5cmと15cmである。注意しておればバスの窓から東側に見ることができる。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』

仰西渠




【参考】農林水産省ホームページ 久万盆地に農業用水を引いた山之内彦左衛門 ※ トンネル内部の写真が掲載されています。
生年不詳~元禄11年(~1698)江戸中期の商人。本名山之内彦左衛門光実、号は仰西という。国道33号を松山から高知に向かうと久万町の少し手前に「仰西渠」という用水路がある。ここは久万川の上流、天丸川に沿った安山岩の岩裾を掘削したもので長さ57メートル(うち12メートルはトンネル)幅2.2メートル、深さ1.5メートルで、上手は川水を取り入れ下手は田の用水路に結び入野村久万町村25町歩の水川を養っている。山田屋彦左衛門(山之内姓)が私財を投じて開削したもので、名称は彼の晩年念仏行者として仰西と号したことによる。久万町村は用水源に乏しく西明神村の天丸川に堰し何十もの樋をつないで水を引いていたが支柱の足場が悪いため、洪水のたびに樋が押し流され、そのたび人夫を動員してかけ替えねばならなかった。彦左衛門は恒久策を講じて農民たちを救いたいと考え、途中にある岩盤を掘りぬく工事を計画した。多くの人夫を雇い、石鑿の屑一升と米一升の引換えで賃銭を与え、自らも工事の先頭に立った。岩肌を軟らげるため乾した竿の茎を焼いたという話も伝わっている。工事はすべて彦左衛門の私財によったため成就するまでの3年間に豊かだった家も倒産したという。現在久万町にある法然寺も彼の建立といわれ、公共事業としては外に三坂峠の鍋割の険また落合の切石の難所の改修を行っている。文化3年(1806)の五代山田彦左衛門覚書に「開鑿年代は相分り難く候得共凡百三十余か年に相成り」と記してあるので延宝(1673~1681)の頃かと思われる。昭和25年に県指定史跡となり、碑文のある丘の足もとに用水が流れている。元禄11年1月26日、死去。
『愛媛県史 人物』 ※ 太字は引用者による
【参考】ブログ「坂道散歩」四国遍路道(愛媛県-7) ※ 「鍋割坂 仰西翁偉績」と刻まれた碑の写真が掲載されています。
【参考】ブログ「廃線隧道【BLOG版】」旧国道33号線・露峰の切石道 ※ 「切石 仰西翁偉績」と刻まれた碑の写真が掲載されています。

「松山札辻より八里」里塚石
「松山札の辻より八里」の標石は、昭和43年(1968)までは、久万川の左岸の宮前から、有枝川の右岸の上谷に至る、はしがみ峠(標高600m)に立っていた。昭和43年ころ、テレビ塔の工事のとき倒れた。しばらく久万町役場の軒下に持ち帰っていた。標石の大きさは180cmと18.5cmと15.5cmの安山岩である。はじかみとは山椒のことで、恐らく山椒の木が多かったのであろう。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 太字は引用者による

「松山札辻より九里」里塚石
「松山札の辻より九里」の標石は、程野部落に近い色ノ峠の西斜面で、峠から300m西の標高600mの杉林の中に立っている。「松山札の辻より」までが地上に出ていて、下は埋もれている。大きさは115cmと18cmと16cmで、安山岩である。今は人通りの少ない旧道である。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 太字は引用者による

【参考】『旧土佐街道の紹介』ホームページ 九里石 ※ 「九里」里塚石の写真が掲載されています。
「松山札辻より十里」里塚石
「松山札の辻より十里」の標石は、美川村大字七鳥にある東光寺の西方80m、旧道の山の側に立っている。下を面河行の県道が通っており、松岡ガソリンスタンドの上にある。標石の大きさは190cmと18.5cmと15cmである。この標石は十里の里の字が欠げて、十一里のように見える。旧道は、このあたりは平坦で、道幅も1m近く、草も余り生えておらず、昔の面影がある。ここから土佐街道は面河川を渡って、二箆の集落に上る。十里の標石のある地点の標高は400mであるのに対して、十一里の簑川の標石は標高880mの山腹にある。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 太字は引用者による




「松山札辻より十一里」里塚石
「松山札の辻より十一里」の標石は、テレビ塔の標高948.5mの山頂より北方300mの林道に「天下泰平」の頌徳碑があり、この大正8年(1919)8月15日に建てた立石から、東方へ100mほど下った杉山の中に建っていた。筆者は十里から十一里への旧道を歩かず、美川村教育委員会の田中盛重主任の車で、御三戸から迂回し、二箆小学校の前からテレビ塔に出て十一里の標石に辿りついた。案内者がないとわからない。標石の大きさは175cmと19cmと17cmであった。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 太字は引用者による








「松山札辻より十二里」里塚石
「松山札の辻より十二里」の標石は、地形図の猿楽石のある標高1090mの旧道に立っている。このあたりはもっぱら尾根の道であるが、山仕事の人のほかは、旅人は全く歩かない山道である。猿楽石は4mに5mぐらいの一枚岩で、猿が集まって踊りをしたという伝説がある。標石のすぐ北側に、三間に二間半の営林署の山小屋があった。大師堂には弘法大師・薬師如来・成田不動を祭っており、つづら(くさかんむりに縮)川部落の正泉寺の出張所で、昭和34年と同47年に修理している。ここから西方2㎞に「盗人石」という5mに3mに1.2mの巨岩がある。石鎚山の賽銭を盗んだ男が天狗につかまり、落ちて石になったという伝説がある。猿楽石の十二里の標石から約2㎞東が県境で、舟形の天保12年に建てた石像が二基あった。大きさ46mと25cmと10cm、40cmと25cmと10cmで、国境碑はなかった。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 太字及び下線は引用者による
